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豪奢な食堂の長テーブルの上座に座っているのは、我が父であり、この国の財務長官を務めるアゼル・フォン・エッカルト公爵である。冷徹な政治家として恐れられている人だが、私に対しては異常なほど甘い。
「おはよう、セリア。……昨夜の夜会の件は、既に私の耳に入っている」
銀のナイフで極上のローストビーフを切り分けながら、父の目がすっと細められた。その瞳には、隠しきれない怒りの色が宿っている。
「ユリウス殿下が、公衆の面前でお前に不敬な態度をとったとな。……王家との繋がりは重要だが、エッカルト公爵家の誇りを傷つけられて黙っているわけにはいかん。セリア、お前が望むなら、私は国王陛下に直談判し、あの愚かな若造にしかるべき罰を与えてもいいのだぞ?」
殺気立った父の言葉に、周囲に控える給仕たちが息を呑む。
だが、私の脳内に走ったのは「恐怖」ではなく「猛烈なアラート」だった。
(待て待て待て!! おい、余計なことを!! 父が下手に王家に突っかかったら、大事になって面倒な政争に巻き込まれる!! 『プライドと愛娘の侮辱を許さない公爵家』vs『権力を振りかざす王家』みたいな泥沼のバトルが始まったら、私の『穏やかで安全な快適生活計画』が瓦解する!! 頼むから余計な正義感出さないで欲しい!!)
表面上はどこまでも儚げで、そして達観した聖女のような表情を作った。胸の前で静かに手を組み、少しだけ哀しげに目を伏せる。
「お父様、お心遣い感謝いたしますわ。ですが、どうかそのお怒りをお納めくださいませ」
「セリア……しかし、お前は惨めな思いをしたのだろう? 黙っていられるのか? 目には目だぞ? このままでは舐められる」
「いいえ。殿下はお若い故、ご自身の情熱に素直になられただけでございます。それに……わたくしはエッカルト公爵家の娘。一個人の感情よりも、我が家と王家の安寧、そしてこの国の利益を最優先に考えるべき立場にございます。わたくしがここで騒ぎ立て、両家の間に亀裂を生じさせることこそ、我が家にとって最大の不利益……違いますでしょうか?」
(要するにリスクマネジメント。たかが王子の青臭い暴言一つで、うちの株価下げるような真似すんなって言っとんのじゃ。放置するのが一番のコストカット)
私の完璧な論理展開と、滅私奉公(に見える)健気な態度に、父アゼルは感心した。
彼はナイフを置き、私をじっと見つめる。
「セリア……なんと気高く、聡明な娘なのだ……! 流石私の娘だ。あの愚鈍な若造には勿体なさすぎるほどだ……! まったく。ああ、分かった、お前がそう言うのなら、私から直接の手出しは控えよう。だが、あのバカに愛想が尽きたら、いつでも私に言いなさい。策は幾らでも用意できる」
「はい、お父様。いつもわたくしをお守りいただき、ありがとうございますわ(はいはい、もう物騒なこと喋らないでご飯食べてね)」
よし、父の火種は鎮火完了。
私はゼリュキア産カーマインレッドのエッセンス、レモンクリスタルの香る柔らかなエミュルシオンスープを、優雅に啜りながら、心の中で胸を撫で下ろした。
にしても、旨い! 海鮮の出汁というのは、どうしてこうも美味しいのだろう。それにこの味付けのバランス。
両手をギュッとして、身悶えしたいのを必死に抑え、心の中で叫びながら味わう。
食事が旨いというのは、この上なく生きる糧だ。
次はあっちの……アッカイン産カトブレパス仔牛フィレ肉のロティ、初摘みセップ茸のグラタンと、トリュフの芳醇なペリグーソースだ。よく分からないけれど、とにかく美味しそうだ。
皿を上品に寄せる。
断面が完璧な薔薇色に染まった仔牛のフィレ肉。その下に、漆黒に輝くペリグーソースがまるで鏡のようになめらかに敷き詰められている。
立ち上る湯気からは、甘美なマデラ酒と、格調高い黒トリュフの官能的な香りが鼻腔を突き抜け、食べる前から脳を幸福感で満たしてくれる。
贅沢にソースをたっぷりと絡めて、一口運ぶと、まるで別世界にまた飛ばされるような感覚に陥る。あぁ、言葉にならないとは、この事だろう。
目を閉じ、ゆっくり、静かに、じっくり、そっと味わっていく。
野性味や重たい脂が一切ない。驚くほどピュアで、シルクのように繊細な舌触り。そして優しく噛み締めるたびに、上品なミルクを思わせるみずみずしい旨味が、口いっぱいに優しく、静かに広がっていく。
そこへ、漆黒のペリグーソースが完璧なマリアージュを見せてくれる。コク深く煮詰められたワインのまろやかな酸味、そして細かく刻まれた黒トリュフの「大地の香り」が、淡麗な仔牛の肉に圧倒的な深みを与えている。肉のピュアな旨味が、この極上ソースのコクをすべて吸い上げるスポンジのようになってくれる。
まるで秋の夜の深い森に足を踏み入れたかのような、圧倒的な香りの余韻に包まれ、どこまでも気品に満ちた味わいだった。
さらに次は、付け合わせの「初摘みセップ茸のグラタン」を一緒に口へ運んでみる。ここで一気に食感のドラマが生まれた。セップ茸独特の、サクッ、プリッとした小気味よい歯ごたえ。肉の柔らかさとの対比が本当に素晴らしい。ホワイトソースの濃厚なコクの中から、トリュフとはまた違う、ナッツのようにどっしりとしたキノコの野生的な芳香が弾け飛び、口の中が「香りのオーケストラ」状態。
目を開けると、少し困惑気味な父の顔が見えた。
私は敢えて、気恥ずかしそうに、サーヴィエットで口をトントンと拭う。
まあ、昨日言っていた、ユリウス王太子が勝手に「心に決めた女性」とやらと盛り上がって、向こうから円満な婚約破棄を申し出てくれるのを待つだけね。私は被害者ポジションを維持しつつ、たっぷりと慰謝料(または自由)を手に入れれば、完璧な幕引きである。
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午後。私は王立学園のサロンで、優雅なお茶会(という名の苦行)に参加していた。
王立学園は、貴族の子弟が集う教育機関だ。前世で言えば高級私立大学のような場所だが、ここもまた人間関係のヘドロのような場所である。
私は庭園の東屋で、一人で静かに紅茶を飲んでいた。
他の令嬢たちは私に気を遣って遠巻きにしている。公爵令嬢という地位は素晴らしい。これぞ私が求めていたお一人様の、パーソナルスペースの確保だ。誰とも話さず、美味しいお菓子を食べ、のどかな景色を楽しみつつ、小鳥や風の音をゆったりと聞く。最高だ。前世の騒音と人ごみ、排気ガス地獄には考えられない贅沢な時間である。
都会の鬱陶しさを忘れる為の旅行は、人、人、人、でとにかくうんざりしていた。不便な場所なら人もいないが、そんな場所、わざわざ行く価値もない。快適かつ、人が少ないのがセットでなければならない。ここは、なんて素晴らしいのだろう。
だが、その平穏は、足音もなく近づいてきた「不快な羽虫」によって破られた。
「やあ、セリア。こんなところで一人でお茶かい?」
聞き覚えのある、聞くだけで頭痛がしてくる爽やかな声。
振り返ると、そこにいたのは一応形式上の婚約者、ユリウス王太子だった。
……そして、彼の腕には、小柄な少女がこれでもかと抱きついていた。
ふわふわとした桃色の髪に、大きな栗色の瞳。
小動物のような可愛らしさを全面に押し出した、いかにも庇護欲をそそるタイプの少女だ。制服の着こなしもどこか崩れており、胸元が妙に強調されている。確か最近、地方から中央に出てきたばかりの、新興男爵家の娘――エレナ・マロンだったはずだ。
(うわぁ……出た出た。腕組みアピール。何それ、マウントのつもり? 距離感バグってんのか? ていうか学園内で王太子に抱きつくとか、コンプライアンス的にどうなの? 王家侍従長、仕事しろよ)
私は心の中で盛大に毒を吐きながら、立ち上がり、完璧な角度のカーテシーを繰り出した。
「ごきげんよう、ユリウス殿下。それに……マロン男爵令嬢も。本日もお健やかそうで何よりですわ」
笑顔。とにかく笑顔。営業スマイル120%でお出迎えである。
すると、ユリウスは自信ありげな笑みを浮かべ、抱きついているエレナの肩を抱き寄せた。
「セリア、紹介しよう。夜会でも少し話したが……彼女こそが、俺の真実の愛、エレナだ。俺たちは魂で引き合っている。お前という完璧だが冷たい人形のような婚約者とは違い、エレナは俺のありのままを愛してくれるのだ」
(要約すると、俺を無条件でちやほやしてくれるバカ女を見つけたからお前に自慢しに来たぞ! 悔しがれ! 嫉妬しろ!)
あまりにも分かりやすすぎるユリウスの承認欲求に、私は思わず眩暈がしそうになった。前世でいたのだ。若い女を連れ回して「俺の彼女、超可愛くてさ〜」と部下に自慢してくる、痛すぎる還暦上司が。まさにあの構図である。




