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……まあ、隣からじーーーっと、仔犬のような熱烈な視線を投げかけてくるのだけは防ぎようがないのだが。
「アンナ」
「はいっ!! セリア様、何かご用でしょうか?」
私が名前を呼ぶと、バッと背筋を伸ばすアンナ。
彼女は今、私の隣に置かれたもう一つの特注サンラウンジャーに座っている。
もちろん、最初は「私のようなメイドがセリア様と同じ目線で寛ぐなど滅相もございません!」と激しく辞退したのだが、「立ちっぱなしで控えていられると、私の視界に入って気が散るの。そこに座って休むのもメイドとしての仕事よ」と命令して座らせた。ずっと立たれて倒れられでもしたら、面倒だし、労働基準法的にもよろしくない。
「いいのよ、大声を出さなくて。……快適かしら?」
「は、はい……っ! こんなに心地よい椅子、生まれて初めて座りました……! セリア様のお隣にいられるだけで、私、幸せで死んでしまいそうです……!」
「死なれては困るけどね。私の代わりを頼める人がいなくなるもの」
「どこまでもお供いたします……っ!」
じわっと目を潤ませて私を見つめてくるアンナ。
(やっぱり視線が重い。熱量がすごい。まあでも、無駄なお喋りで私のパーソナルスペースを荒らしてこないだけ、王都の有象無象の令嬢たちより1億倍マシだわ)
ちなみに、護衛の騎士たちも完璧な配置を行っている。
公爵家直属の精鋭騎士たちが別荘の敷地境界線付近に遠巻きに配置されており、彼らには「私が合図を出さない限り、絶対に敷地の中心部(テラスや庭園)に近づくな。会話も試みるな」と厳命してある。
彼らもまたプロの軍人なので、私の指示を忠実に守り、完全に気配を消して周囲を警戒してくれていた。姿は見えないが、防衛線は完璧。まさに「完全放置型のセキュリティシステム」だ。煩わしさは一切ない。
「……ふう」
私はサンラウンジャーに深く背もたれを預け、目の前に広がる光景に視線を向けた。
温かい、陽だまりのような日差し。
肌を優しく撫でていく、涼やかで乾いた高原の風。
耳を澄ませば、木々の葉が擦れ合う微かな音と、遠くの小川のせせらぎだけが聞こえてくる。
そして、何よりも圧倒的だったのは、その景色だ。
このエメラルド領の別荘は、幻想的で美しい奇跡のような光景が眼下に広がっていた。
見上げれば、雲ひとつない快晴の青空。
だというのに、その高い空の背景には、まるで極彩色のオーガンジーの布を天になびかせたかのように、薄く、可憐に、ピンクとエメラルドグリーンのオーロラが揺らめいている。昼間の強い太陽光に透けて見えるオーロラは、儚くも息をのむほど美しい。
さらに、その空の深みには、昼間であるにもかかわらず、ダイヤモンドやサファイアをちりばめたような星々が、様々な色。
赤、青、金、紫でキラキラと瞬いていた。大気中の濃密な魔力が光を屈折させ、昼と夜の美しい部分だけを切り取って混ぜ合わせたような、奇跡の昼空を作り出しているのだ。
(すごい……。前世で高額な旅行代金を払って海外のリゾートに行っても、こんな景色は絶対に見られなかった……)
視線を下へと移す。
テラスから少し離れた場所には、見渡す限り色とりどりの植物が咲き誇る、広大な一面の花畑(高原)が広がっていた。赤、白、黄色、紫の花々が風に揺れ、ほのかに甘い香りがここまで届いてくる。
その花畑の中央付近で、何かが動いていた。
白い。眩しいほどの純白だ。
よく見ると、それは数頭の「ペガサス(天馬)」たちだった。
優雅な大きな翼を畳み、背中に陽光を浴びながら、仲睦まじく寄り添っている。親馬らしき一頭がゆっくりと花を喰み、その隣で小さな子馬のペガサスが、親馬に甘えるように首を擦り付けていた。時折、ふわりと翼を広げて風を感じる動作が、あまりにも絵になりすぎている。
(本当にペガサスだ。あの花、食べてお腹壊さないのかな? まあ馬草みたいなもんなのかね)
さらに、私の目の前の空間を、ふわり、ふわりと、白く発光する蝶々の群れが横切っていった。
ただの蝶ではない。羽全体が柔らかい真珠のような光を放っており、飛ぶたびに微かな光の粒(燐光)を空中に残していく。ゆったりとした軌道を描いて私の鼻先をかすめ、パラソルの外へと消えていく様子は、まるで夢の中にいるかのようだ。
静寂と、温もりと、幻想的な美しさ。
前世で満員電車に揺られ、駅のホームでタックルされ、排除アートに頭を打ち付けて死んだあの惨めな最期が、まるで嘘のように思えた。
(生き返って……ううん、この世界に転生して、本当によかった……)
他人のドロドロした感情に巻き込まれるのは心底ごめんだ。
でも、この世界のこの景色、この空気、この圧倒的な「孤独の美しさ」だけは、心から愛せると思えた。
……と、私が柄にもなく感傷に浸っていた、その時だった。
トコトコトコトコ。
静かな花畑の方から、妙にコミカルで軽い足音が近づいてきた。
ん? と思って視線を向けると、別荘の階段の脇から、奇妙な生き物が姿を現した。
それは、背丈が三十センチほどの、小さな「歩くキノコ」だった。
全体的に鮮やかな紫色をしており、傘の部分には白い水玉模様がついている。そして、傘の下からは、マンガのように短い二本の足が生えており、それがトコトコと素早く動いていた。
(キノコが歩いてる? え、何あれ)
私が呆然と見つめていると、紫の短足キノコは、トコトコと私の方へ向かって歩いてきた。
そして、私のサンラウンジャーから二メートルほどの距離――絶妙なディスタンスを保った場所で、ピタッと立ち止まった。
キノコには目も口もないように見えるのだが、なぜか顔(?)と思われる部分を私にしっかりと向けている。
そして、キノコは短い片手を挙げると、それを自分の口(らしき場所)にちょこんとあてて、じーーーーっと私を見つめてきたのだ。
なんだその「あ、見つかっちゃった☆」みたいなポーズは。
短足のくせに、片手を口にあてる仕草が妙に人間くさくて、可愛らしい。
(なにこの生き物……。魔物? いや、危害を加えてくる雰囲気じゃない。ただ私を観察しに来たの?)
私はサンラウンジャーの上で、目を合わせたまま、キノコを驚かせないようにそーっと姿勢を直そうと身体を動かした。ほんの少し、肘掛けに置いていた手を動かし、背筋を伸ばしただけだ。
その瞬間。
キノコは全身を激しく震わせると、ものすごく慌てふためきながら、来た道へ猛スピードで逃げ出していったのだ。逃げ足が速すぎる。あっという間に花畑の草むらの中に消えてしまった。
「……ふふっ」
あまりにも非日常なその一部始終に、私は耐えきれなくなって、思わず笑ってしまった。
営業用の、完璧に計算された黄金比の笑顔ではない。
前世も含めて、何年ぶりかわからないほどの、心の底からの、純粋で無防備な笑いだった。
こんなに心が軽くなったのは、本当にいつ以来だろう。
目の前の奇妙で愛らしい生き物の行動に笑うことができる。これこそが、私が求めていた「最高の自由」なのかもしれない。
ふと、隣のサンラウンジャーに視線を向けると。
「……ん……う……セリア様……あむ……」
アンナが、首を少し傾けた姿勢で、すやすやと心地よさそうな寝息を立てていた。
どうやら、あまりの陽気とクッションの気持ちよさに耐えかねて、寝落ちしてしまったらしい。
夢の中でも私の世話をしているのか、小さな口をモグモグさせながら、「セリア様……セリア様……」と呟いている。
(ふふ……何が『命に代えてもお守りいたします』よ。真っ先に寝てるじゃないの)
私は呆れつつも、どこか温かい気持ちになりながら、サイドテーブルの上に置いてあった薄手の毛布を魔法でそっと手元に寄せ、それをアンナの肩にかけてあげた。
起こさないように、静かに、優しく。
仕事一筋だった前世。
他人に裏切られ、傷つくのが怖くて、人間嫌いをこじらせて作ってきた頑丈な心の壁。
でも、いま私の周りにあるのは、私を傷つける敵も、嫌な仕事も、不愉快な人間関係もない。
ただ、私に忠実なメイドの寝顔と、美しい景色と、心地よい場所があるだけだ。
私は両手を高く突き上げ、全身の筋肉をほぐすように、大きく背伸びをした。
身体中の毒素が、風に乗って抜けていくような気がする。
吸い込んだ空気は、驚くほど澄んでいて、花の甘い香りがした。
胸いっぱいに空気を溜め込み、それから、ゆっくりと吐き出す。
口元を手で押さえながら、小さなあくびが漏れた。
温かい日差しが、まぶたの上を優しく撫でていく。
急激に、心地よい眠気が頭全体を包み込んでいった。
急ぐ必要は何もない。
明日も、明後日も、その先も、私には誰にも邪魔されない時間が無限にあるのだから。
私はサンラウンジャーに深く身体を沈め、世界で一番幸せな満ち足りた吐息を漏らしながら、ゆっくりと、静かに目を閉じた。
微かな風の音と、ペガサスたちの羽ばたき、そしてアンナの小さな寝言を子守唄代わりにしながら、私は至福の午睡へと落ちていった。




