第五部 第二十話――火線の向こう側
夜明け前。
霧が、
地表に低く這っていた。
アルスト王国とカンフリークト帝国の国境線。
長く張り詰めていた緊張は、
もはや「衝突寸前」ではない。
――すでに、
――戦争だった。
「前方、動きあり!」
張り詰めた声が、
陣地に走る。
兵士たちは、
即座に槍を構え、
弓を引き絞った。
鉄が擦れる音。
革鎧が軋む音。
呼吸が、
白く滲む。
アルスト王国側の前線指揮官が、
歯を噛み締めながら呟く。
「……ついに来たか」
霧の向こう。
重く、
一定の足音が響く。
カンフリークト帝国軍。
盾を前面に並べ、
その隙間から、
魔術師たちが詠唱を始めていた。
「魔術部隊、前進――」
低く、
抑えられた命令。
次の瞬間、
霧が裂けた。
火球。
空気を灼く音とともに、
赤い光が弧を描き、
アルスト王国の陣地へと降り注ぐ。
「防御結界、展開!」
複数の魔術師が同時に杖を突き立て、
淡い光の膜が立ち上がる。
衝突。
爆風。
土砂が舞い上がり、
視界が奪われる。
「突撃――!」
号令が響く。
盾兵が前に出て、
剣士たちが続く。
刃と刃がぶつかる音。
肉を裂く感触。
怒号と悲鳴が、
一気に戦場を満たした。
アルスト王国の若い兵士が、
震える手で剣を振るう。
目の前には、
同じように若い、
帝国兵。
一瞬、
視線が合う。
躊躇。
――だが、
次の瞬間には、
どちらかが倒れるしかない。
剣が、
交差する。
魔法が、
背後を焼き払う。
戦場は、
もはや理屈を許さない。
◆
その戦場から、
少し離れた高台。
椎名は、
静かに立っていた。
風が、
外套を揺らす。
彼の視線は、
戦場全体を捉えている。
「……始まりましたね」
声は、
いつもと変わらず、
穏やかで丁寧だった。
隣に控える公国の報告役が、
緊張を隠せずに言う。
「椎名様、
このまま戦闘が拡大すれば――」
「ええ」
椎名は、
その先を遮らず、
最後まで聞いた上で、
静かに頷く。
「被害は、
確実に増えるでしょう」
「ですが」
彼は、
視線を逸らさない。
「今、
私が前に出れば」
「彼らは、
“自分たちで選んだ戦争”ではなくなります」
報告役は、
言葉を失う。
椎名は、
戦場を見つめたまま、
続けた。
「それは、
止めることよりも、
深い歪みを残します」
彼は、
誰も救わない選択を、
あえて選んでいた。
◆
戦場。
アルスト王国軍が、
一瞬の隙を突き、
側面に回り込む。
「今だ、押し返せ!」
剣士たちが、
一斉に踏み込む。
帝国軍の盾列が、
わずかに崩れた。
その瞬間――
「後退!
魔導砲、解放!」
帝国側の魔術師が、
両腕を広げ、
詠唱を解き放つ。
地面が、
唸る。
次の瞬間、
圧縮された魔力が奔流となって放たれ、
アルスト側の前線を、
まとめて吹き飛ばした。
土煙の中、
兵士たちが倒れ込む。
「……くそっ!」
前線指揮官は、
歯を食いしばりながら、
剣を地面に突き立てる。
その時。
彼は、
ふと感じた。
――視線。
戦場を見下ろす、
どこか遠い場所から。
振り返る。
霧の向こう、
高台に、
人影が見えた気がした。
だが、
次の瞬間には、
もう確認できない。
「……気のせいか」
再び、
戦場へ意識を戻す。
彼は知らない。
今この戦争が、
「許されている」ことを。
◆
日が昇る頃。
戦場は、
膠着状態に入っていた。
双方、
決定打を欠き、
無数の死体だけが残る。
椎名は、
静かに背を向ける。
「本日は、
ここまでですね」
誰に対しても、
独り言でさえ、
丁寧な口調。
「人族同士の戦争は、
始まりました」
「そして――」
一拍、
間を置く。
「この火を、
どう“使うか”を考える存在が、
必ず現れます」
彼の脳裏に、
魔族の王座が浮かぶ。
魔王。
避けられない、
一対一。
だが、
それは憎しみの果てではない。
「……争った先で、
なお共に在るために」
椎名は、
静かに歩き出す。
戦争は、
人族の手で始まった。
だが、
この世界の終わり方は――
まだ、
誰にも決められていない。




