第五部 第十四話――歪められた戦端
北方。
インベイ魔族国家――
黒き砦都市《グラ=ザル》。
空は常に鈍色で、
雲は低く垂れ込み、
風は冷たく、金属の匂いを含んで吹き抜けている。
城壁の外では、
無数の魔物が従順に蠢いていた。
命令を待つ獣。
命を使い捨てられる存在。
そして、
その中心に位置する玉座の間。
黒鉄と魔石で組まれた巨大な椅子に、
インベイの魔王は、ゆったりと身を預けていた。
「……人族どもは、
やはり愚かだな」
低く、愉悦を含んだ声。
魔王の眼前には、
魔力で構成された戦況図が浮かんでいる。
アルスト王国。
カンフリークト帝国。
互いの国境で、小競り合いが増え、
部隊の緊張が限界まで高まっている様子が、はっきりと見て取れた。
「中立公国を直接叩くのは、
失敗だった」
玉座の下、
数名の上位魔族が跪いている。
「だが――
戦争そのものを歪めることは、
まだ可能だ」
魔王の指が、
空中の一点をなぞる。
そこに映し出されたのは、
国境付近の小さな村。
人族の村だ。
どちらの国にも属しきらず、
曖昧な位置にある集落。
「ここに、
“事故”を起こす」
跪く魔族たちが、息を呑む。
「魔物の暴走。
傭兵の誤射。
盗賊の襲撃――
理由は、何でもいい」
魔王は、楽しげに続けた。
「重要なのは、
どちらの国のせいに見えるかだ」
「……アルスト王国に?」
「いや」
魔王は首を振る。
「両方だ」
沈黙。
「互いに、
“相手がやった”と信じる程度に、
曖昧で、
しかし無視できない被害」
それは、
戦争を加速させるための、
最も下劣で、最も効果的な方法だった。
「中立公国は、
どう動く?」
一人の魔族が、慎重に尋ねる。
魔王は、口角を上げた。
「動かせない」
「……?」
「中立とは、
“正しさ”ではなく、
“姿勢”だ」
魔王は、指先を軽く鳴らす。
「中立公国は、
明確な侵略がなければ、
剣を抜けぬ」
「だから――
境界を、
踏ませなければいい」
その策は、
実にインベイらしいものだった。
数日後。
国境近くの森。
夜明け前。
霧が立ち込め、
湿った空気が肌にまとわりつく。
そこに――
“偶然”を装った一団が、現れた。
傭兵。
だが、その中には、
人族ではない魔力の気配が、
ごく微かに混じっている。
彼らは村に火を放ち、
抵抗する者を斬り捨て、
証拠となり得るものを、巧妙に残した。
アルスト王国製の矢。
カンフリークト帝国風の軍靴。
どちらとも取れる、
曖昧な痕跡。
計画は、
完璧に思えた。
――だが。
その夜、
森の奥で、
一人の男が、静かに立っていた。
執事服。
白手袋。
年齢不詳の落ち着いた佇まい。
椎名は、
燃え残る村を見つめ、
深く、息を吐いた。
「……これは、
あまりにも、
雑でございますね」
誰に聞かせるでもない言葉。
彼は、
魔力の流れを“見て”いた。
人族のものではない、
歪で、重い魔力。
「戦争を、
玩具のように扱う方々は、
どうしても、
後始末を軽んじられる」
椎名は、
腰の剣に手をかける。
だが、
抜かない。
彼が行うのは、
戦闘ではない。
“修正”だ。
まず、
村に残された痕跡を、
一つずつ確認する。
矢の刺さり方。
斬り口の角度。
踏み荒らされた地面の癖。
そして、
小さく首を振った。
「これでは、
人族同士の剣筋では、
ございませんね」
椎名は、
森の中へと歩み出す。
音もなく。
気配も残さず。
傭兵団は、
自分たちが“追われている”ことに、
最後まで気づかなかった。
刃が走る。
速い。
だが、激しくはない。
一太刀で、
呼吸を断ち、
悲鳴すら上げさせない。
魔族が紛れていた者だけを、
正確に、選び取る。
残された人族の傭兵たちは、
目覚めた時、
何も覚えていなかった。
ただ、
村を襲った記憶と、
“自分たちが何かを誤った”という、
説明のつかない恐怖だけが残る。
翌日。
アルスト王国とカンフリークト帝国、
双方に報告が上がった。
だが――
どちらの報告書にも、
決定的な証拠は、存在しなかった。
痕跡は、
綺麗に“人族のもの”へと修正され、
魔族の介入を示す要素は、
完全に消されていた。
結果。
戦争は、
一歩進んだ。
だが――
“歪められることなく”。
インベイの魔王は、
その報告を聞き、
初めて眉をひそめた。
「……妙だな」
計画は、成功している。
だが、
思ったほど、混乱が広がらない。
「まるで、
誰かが――
余計な部分だけを、
削ぎ落としたかのようだ」
魔王の脳裏に、
中立公国の影が、よぎる。
「……なるほど」
低く、笑う。
「やはり、
いるな」
「中立の裏に――
“刃”が」
その頃。
アルヴァリア公爵領。
椎名は、
いつも通り、
朝の紅茶を淹れていた。
「少々、
風が冷たくなってまいりました」
独り言は、
穏やかで、丁寧だ。
だが、
その背後で、
世界の歯車は、
確実に噛み合い始めていた。
戦争は、止まらない。
だが――
暴走も、させない。
それが、
名を持たぬ刃の、役割だった。




