第五部 第十三話――名を持たぬ刃
黒曜石の床に、淡い魔力灯の光が揺れていた。
天井は高く、
柱は一本一本が竜の骨を削り出したかのように白く、
壁には古い紋章と、幾重にも重なった魔法陣の痕跡が刻まれている。
ここは――
魔族国家インテグ、
評議殿。
魔族の中でも、
爵位を持つ者だけが足を踏み入れることを許された空間だった。
円卓の周囲には、
十数名の魔族が座している。
角の形も、
瞳の色も、
魔力の質も、
すべてが異なる。
だが共通しているのは――
全員が「国を背負う者」であるという事実だけだった。
「……では、改めて報告を」
低く、落ち着いた声が響く。
声の主は、
インテグ評議会の調整役を務める魔族――
老齢の侯爵、ゼルヴァン。
白銀の角は細く長く、
その表面には、長い年月で刻まれた傷が無数に走っていた。
「人族側の戦争は、
もはや回避不能な段階に入っています」
卓上に展開された魔力映像が、
ゆっくりと形を成す。
アルスト王国とカンフリークト帝国。
国境線。
部隊移動。
補給線。
「中立公国を巡る均衡は、
一度、試されました。
結果は――
“失敗”です」
ざわり、と空気が揺れた。
「中立公国は、折れなかった。
内部からも、外部からも」
「想定よりも、
遥かに強固だった、ということか」
別の魔族が、低く呟く。
「はい」
ゼルヴァンは頷いた。
「そして――
今回、議題に挙げるべき存在がございます」
魔力映像が切り替わる。
そこに映ったのは、
名前のない人影。
顔は、ぼやけている。
装備も、特定できない。
だが、
周囲に倒れている者たちだけが、はっきりと映っていた。
「……誰だ」
短く、鋭い声。
発したのは、
若い伯爵位の魔族だった。
「人族か?」
「人族です」
ゼルヴァンは、静かに答える。
「魔力反応は、
確認されておりません」
その瞬間、
会議室の温度が、確実に下がった。
「……魔力なし?」
「馬鹿な」
「魔力を使わずに、
この結果だと?」
ざわめきが広がる。
魔族にとって、
魔力とは「呼吸」と同義だ。
それを使わずに戦うなど、
想像の外だった。
「名は?」
誰かが尋ねた。
ゼルヴァンは、
わずかに首を振る。
「表の名は、ございません」
「……?」
「中立公国の公爵家に仕える、
一介の使用人として記録されています」
その言葉に、
数名の魔族が眉をひそめた。
「使用人?」
「隠しているのか」
「あるいは――
本当に、名を持たぬ存在か」
ゼルヴァンは、言葉を選ぶように続ける。
「この人物は、
戦争を止めてはいません」
「だが――」
「戦争を、“広げさせていない”」
沈黙。
それは、
魔族にとって、最も厄介なタイプだった。
「英雄でもない。
王でもない。
指揮官でもない」
ゼルヴァンの声は、淡々としている。
「だが、
“中立を壊そうとした者”だけが、
確実に消えている」
「……掃除屋か」
誰かが、ぽつりと呟いた。
「いいえ」
ゼルヴァンは、首を横に振る。
「掃除屋は、命じられて動きます」
一拍置いて、続ける。
「この者は――
“必要だと判断した時だけ”、
動いています」
それは、
王よりも、
将よりも、
危険な在り方だった。
「インベイは、
どう動く?」
別の魔族が問いかける。
「既に、把握しています」
ゼルヴァンの視線が、
円卓を一巡する。
「そして――
この存在を、
“利用できるかもしれない”
と、考え始めています」
空気が、凍りついた。
「愚かだ」
「触れてはならぬものだ」
「刃は、
握ろうとした瞬間に、
持ち主を選ぶ」
様々な声が上がる。
ゼルヴァンは、
静かに、しかし明確に言った。
「インテグとしての結論は、
ひとつです」
「……聞こう」
「この存在を、
敵にも、味方にも、
しない」
全員が、息を呑んだ。
「近づかず、
利用せず、
干渉しない」
「だが――
無視はできない」
ゼルヴァンは、深く息を吸う。
「人族の戦争が、
“道具”として扱われ始めた今、
この刃は――
均衡そのものになり得る」
「名を持たぬ刃、か」
誰かが、静かに呟いた。
「ええ」
ゼルヴァンは、わずかに目を細める。
「そして――
刃が、どちらを向くかは、
誰にも分かりません」
会議は、
その言葉を最後に、静かに閉じられた。
誰もが理解していた。
人族の戦争は、
もはや人族だけの問題ではない。
そして――
中立公国の裏にいる“何か”は、
魔族ですら、
軽々しく触れてはならない領域に、足を踏み入れている。
一方、その頃。
アルヴァリア公爵領の一角。
静かな廊下を、
椎名は、いつも通りの足取りで歩いていた。
「……風向きが、
少し変わりましたね」
誰に向けるでもない、独り言。
だが、その声は、
変わらず丁寧だった。
名を持たぬ刃は、
今日もまた、
名を求めることなく、
静かに鞘の中で眠っている。
だが――
世界の方が、
その刃を、放っておかなくなり始めていた。




