第五部 第十話――沈黙は、選択である
事件の翌朝、
首都ヴァルアスは、奇妙な熱を帯びていた。
街路はいつも通り人で溢れている。
商人は声を張り上げ、
冒険者は依頼書の前で腕を組み、
貴族の馬車は規則正しく石畳を進む。
だが、
人々の会話は、ひとつの話題に収束していた。
「南の村で、魔物が出たらしい」
「怪我人が出たそうだ」
「統率されていた、って……」
噂は、必ず尾ひれを伴う。
だが今回に限っては、
その“尾ひれ”が、意図的に付け加えられていた。
――中立公国の防衛は、綻び始めている。
――森の管理が、もはや追いついていない。
――魔族の影響が、内部まで及んでいる。
誰が言い始めたのかは、誰も知らない。
だが、その言葉は、
貴族の食卓に、
議会の控室に、
酒場の隅にまで、
不自然なほど速く浸透していった。
公爵城の会議室では、
重い空気が沈殿していた。
ラルト・アルヴァリア公爵は、
報告書を一枚一枚、丁寧に読み進めていく。
負傷者の回復状況。
村の復旧計画。
騎士団の警戒強化。
魔法師団による森の再解析。
どれも、対応としては申し分ない。
むしろ、他国であれば賞賛される水準だ。
それでも――
公爵は顔を上げなかった。
「……来ますな」
低く、確信に満ちた声。
「はい」
そう答えたのは、ガイウス騎士団長だった。
強面の顔には、いつになく険しい影が落ちている。
「すでに、東と北からの視線が変わっています。
“事故”では済ませるつもりはないでしょう」
セリウス魔法師団長も、静かに続ける。
「魔力の流れは、外部から“押された”形跡があります。
自然発生ではありません。
ですが……証拠として提示できるものは、限られる」
沈黙。
ここにいる全員が、同じ結論に辿り着いていた。
――分かっていても、言えない。
――言えば、中立は崩れる。
それこそが、
今、敵が狙っている状況だった。
「……椎名」
公爵は、初めて名前を呼んだ。
部下に向ける、明確な声。
「貴殿に頼みがある。
これは命令ではないが――
我が領の“裏側”を、任せたい」
椎名は、一歩前に出て、深く頭を下げる。
「承知いたしました。
皆様のお手を煩わせぬよう、静かに対処いたします」
その声は、いつも通り丁寧で、穏やかだった。
だが、そこに迷いはない。
この瞬間、
彼は完全に理解していた。
表で剣を抜けば、戦争になる。
だが、抜かずに済ませる道は――
血の気配が濃い場所にしか、存在しない。
その日の夜。
椎名は、城を出た。
馬も連れず、
護衛も付けず、
ただ、闇に溶け込むように。
向かう先は、首都の裏側。
没落貴族が集う屋敷跡。
難民と冒険者崩れが交錯する路地。
そして――
金と情報が、静かに行き交う場所。
彼は、足を止め、耳を澄ませる。
囁き。
取引。
裏切りの気配。
(……繋がっておりますね)
一つの組織ではない。
一つの国家でもない。
だが、
同じ方向を向いた“意志”が、
確かに、ここに存在している。
椎名は、剣の柄に手を置いた。
抜かない。
まだだ。
これは、戦ではない。
見せしめでもない。
――掃除だ。
汚れが広がる前に、
静かに、確実に。
その頃、
遠く離れた国境の向こうでも、
同じ報告書が読まれていた。
「中立公国に、綻びあり」
その一文は、
剣よりも鋭く、
魔法よりも速く、
世界を動かし始めていた。
そして誰も、まだ知らない。
この“綻び”に手を突っ込んだ者が、
何を切り落とされることになるのかを。




