第五部 第九話――境界線が、悲鳴を上げた
朝は、いつもと変わらず始まった。
南方監視線に最も近い村――
森と共に生き、森に依存し、森に怯えながらも日々を営む、小さな集落。
生活魔法で整えられた畑には、朝露が残り、
家々の屋根からは、かまどの煙が細く立ち上る。
子どもたちは、眠そうな顔で外に出て、
大人たちは、今日の仕事を思い浮かべながら、
それぞれの役割へと向かっていった。
だが、
その“日常”は、どこかで既に歪み始めていた。
森から、音が戻らない。
鳥は飛ばず、
獣は姿を見せず、
風だけが、必要以上に重く、木々を揺らしている。
「……妙だな」
そう呟いたのは、村で一番の年長者だった。
彼は長年、森を見てきた。
魔物が増えた年も、
魔力異常で作物が育たなかった年も、
戦争の余波で難民が押し寄せた年も、
すべて、この森と共に経験してきた。
だからこそ、
今の静けさが、自然ではないと、誰よりも強く感じていた。
そして――
それは、突然、破られる。
遠くで、
地鳴りのような振動が走った。
最初は、誰も気づかなかった。
地面の奥で、何かが動いただけの、
ごく小さな揺れ。
だが、数秒後。
森の縁が、崩れた。
樹木が倒れ、
土がえぐられ、
魔力を帯びた濁流のような何かが、
村の外れへと溢れ出してくる。
「魔物だ――ッ!!」
誰かの叫びが、空気を切り裂いた。
現れたのは、単体ではない。
複数。
しかも、ばらばらではなく、
群れとして、役割を持って動いている。
前に出る個体。
側面を取る個体。
後方で、魔力を高める個体。
知性を持たぬはずの存在が、
まるで“訓練された兵”のように、
村を囲もうとしていた。
「避難だ! 子どもを先に!」
村人たちは、必死に動いた。
生活魔法で障壁を張り、
家屋の影へと人を集め、
鐘を鳴らし、助けを呼ぶ。
だが――
間に合わなかった。
魔物の一体が、
防御の薄い場所を正確に突き、
逃げ遅れた青年を弾き飛ばす。
血が、地面に散った。
致命傷ではない。
だが、それで十分だった。
中立公国の領内で、民が傷ついた。
それは、もはや
「異常」ではなく、
「事件」だった。
騎士団の到着は迅速だった。
監視線に常駐する部隊が、
魔力通信を受け、即座に出動する。
剣が抜かれ、
身体強化の魔力が循環し、
防御と排除を最優先に、戦列が組まれる。
魔法師たちは、
破壊ではなく、制圧を選ぶ。
地面を固め、
動きを鈍らせ、
森へと押し返す。
戦闘は短時間で終わった。
だが、
終わった後に残ったものは、
決して小さくなかった。
破壊された畑。
倒れた家屋。
負傷者。
そして――
村人たちの、怯え切った視線。
「……もう、森には入れませんね」
誰かが、震える声で言った。
それは、生業を失うという意味だった。
報告は、即座に公爵領中枢へ届く。
負傷者あり。
魔物の異常行動を確認。
統率の兆候あり。
机に並べられた報告書を前に、
ラルト・アルヴァリア公爵は、静かに目を閉じた。
「……ここまで来たか」
怒りではない。
悲しみでもない。
覚悟だった。
「騎士団に、警戒レベルの引き上げを。
魔法師団は、森周辺の魔力流動を全面的に再解析だ」
命令は、淡々と出される。
だが、
公爵は理解していた。
これは、偶発ではない。
誰かが、
“中立を揺さぶるために”
段階を踏んでいる。
その夜。
椎名は、城の廊下を静かに歩いていた。
足音を立てず、
誰にも気取られず、
それでも、全てを見ている。
負傷者の報告。
村人の表情。
騎士たちの疲労。
そして――
見えない場所で、
動き始めている“別の存在”。
(……ここからは、掃除ですね)
彼の判断は、冷静だった。
戦争ではない。
交渉でもない。
中立を壊そうとする“手”を、
静かに、確実に、切り落とす段階。
椎名は、夜の窓から、
遠く、南方の森を見つめた。
闇の奥で、
何かがこちらを観察している。
それを、
彼は、既に感じ取っていた。
剣は、まだ抜かない。
だが、
抜く理由は、
もう、十分すぎるほど揃っていた。




