第五部 第六話――歪みを価値と呼ぶ者たち
魔族の領域に朝はない。
夜と昼の境界が曖昧で、空は常に濃い紫を含んだ灰色をしている。
太陽は昇るが、祝福の光ではなく、ただ世界を照らす現象として存在していた。
インテグ魔族国家、その中枢に近い石造の会議殿。
天井は高く、壁には魔力の流れを安定させる紋様が刻まれている。
装飾は簡素だが、ひとつひとつが古く、重い。
長卓を囲むのは、爵位を持つ魔族たちだった。
角の形も、肌の色も、纏う魔力の質も、それぞれ異なる。
共通しているのは、全員が人族を観察対象としてしか見ていないという点だけだ。
「――始まらなかった、か」
低く、擦れたような声が、沈黙を破る。
発言したのは、長卓の中央に座る魔族だった。
老成しているが、衰えてはいない。
魔力は穏やかに見えて、底が知れない。
「アルストとカンフリークト。
あの二国が、あの距離で睨み合って、何も起きなかった」
「奇妙ですね」
別の魔族が、爪で卓をなぞりながら応じる。
「人族は、機会があれば必ず血を流す。
それが、あの種族の性質のはず」
「……だが、今回は流れなかった」
「流れなかった、のではない」
老魔族は、静かに訂正する。
「流れさせられなかった」
その言葉に、会議殿の空気がわずかに震えた。
魔力が、自然と反応したのだ。
「原因は明確だ」
老魔族は、卓上に浮かぶ魔力映像を指し示す。
そこには、人族の地図が投影されている。
「中立公国。
アルヴァリア公爵領」
数名の魔族が、薄く笑った。
「まだ、あそこか」
「人族にしては、厄介な土地だ」
「いや……土地ではない」
老魔族の視線が、鋭くなる。
「動かないのに、結果を変える存在がいる」
沈黙。
それは、魔族にとっても異質な概念だった。
魔族は、力を誇示する。
魔力を振るい、恐怖で従わせる。
結果は、力の延長線上にある。
だが――
「何もしないことで結果を変える」など、
魔族の価値観には存在しない。
「情報は?」
若い魔族が問いかける。
「人族の英雄か?」
「軍師か?」
「神の介入ではあるまいな」
老魔族は、首を横に振った。
「神ではない。
神なら、もっと露骨に世界を歪める」
「英雄でもない。
名が立たぬ」
「軍師……とも、少し違う」
彼は、少しだけ言葉を探すように間を置いた。
「掃除をする者だ」
その表現に、何人かが眉をひそめた。
「汚れを、戦争が始まる前に拭き取る」
「誰にも見せず、誇らず、功績を残さず」
「だが、その結果だけが、確かに残る」
魔族たちは、次第に興味を露わにし始める。
「……面白い」
「人族に、そんな存在が許容されているとは」
「いや」
老魔族は、静かに言った。
「許容されているのではない」
「気づかれていない」
その言葉が、空気を変えた。
「ならば」
別の魔族が、楽しげに声を上げる。
「利用できるのではないか?」
「人族同士の戦争を、直接煽るよりも」
「その“歪み”を利用した方が、効率が良い」
老魔族は、ゆっくりと頷いた。
「その通りだ」
「人族は、戦争を止められたと錯覚する」
「だが実際には、圧力が別の場所へ逃げただけ」
「逃げ場のない歪みは――」
「いずれ、より大きな形で噴き出す」
会議殿の奥で、別の存在が静かに立ち上がった。
爵位は高いが、発言はこれまで控えていた魔族だ。
その魔力は、他よりも鋭く、冷たい。
「……インベイは、どう動く?」
老魔族は、少しだけ笑った。
「気づくのは、そう遠くない」
「だが、あちらは力で解決しようとする」
「この歪みは、力で叩けば、壊れる」
「壊せば、中立公国は――」
「敵になる」
その言葉に、全員が理解した。
中立公国を敵に回すということは、
あの「何か」を、真正面から敵にするということだ。
「それは、まだ早い」
老魔族は、静かに結論を下す。
「我々は、待つ」
「観察する」
「そして――」
「人族の戦争を、人族自身に最大限やらせる」
誰かが、低く笑った。
「残酷だな」
「だが、理にかなっている」
会議殿に、静かな同意が広がる。
その頃――
中立公国、アルヴァリア公爵領。
椎名は、庭園の一角で、落ちた枝を拾っていた。
ただの執事の仕事だ。
だが、ふと、胸の奥に微かな違和感が走る。
理由は分からない。
魔力もない。
予兆もない。
それでも――
「……視線を感じますね」
誰にともなく、丁寧に呟いた。
それが、魔族の会議殿で交わされた言葉と繋がっていることを、
彼は、まだ知らない。
だが確かに、
第五部は、次の段階へ踏み込んだ。
人族の戦争を、
「利用しようとする存在」が、
正式に、盤上に上がったのだから。




