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影縫う剣と蒼き城の執事  作者: わまたよ


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第五部 第五話――始まりかけた戦争は、形を失う

国境というものは、不思議な場所だ。


地図の上では一本の線でしかないそれは、現実では緩やかな丘陵であり、川であり、森であり、

そして多くの場合、「ここから先は敵だ」と互いに思い込むための、曖昧な余白でもある。


アルスト王国とカンフリークト帝国の国境地帯も、例外ではなかった。


夜明け前の薄暗い平原に、二つの軍が距離を保って布陣している。

互いに正規軍であることは、誰の目にも明らかだった。

旗も掲げられ、陣形も整い、撤退する気配はない。


だが――まだ、戦争ではない。


両軍ともに、最初の一矢を放つ理由を探していた。


アルスト王国側の陣営では、将官たちが地図を囲み、低い声で言葉を交わしている。

兵力では優位だ。

補給も整っている。

勝てる。


それでも、誰一人として、命令を出さない。


「……中立公国は、動いていないな」


誰かが、ぽつりと言った。


その一言で、空気が僅かに硬くなる。


「動いていない。だが――」


「見ている、という可能性は?」


沈黙。


誰も否定しなかった。


中立公国は、国境にはいない。

軍も出していない。

声明もない。


それなのに、存在が邪魔だった。


「もし、ここで衝突した場合」


参謀の一人が、言葉を慎重に選ぶ。


「我々が押し込めば、帝国は後退するでしょう」


「だが、その後だ」


「中立公国が『難民保護』を理由に介入する可能性がある」


「軍事介入ではない。だが――政治的には、十分すぎる圧力になる」


将官は、舌打ちをこらえた。


「……つまり、勝っても面倒が残る」


「はい」


その頃、カンフリークト帝国側でも、似たような会話が交わされていた。


寒冷地出身の兵士たちは、夜明け前の冷気の中でも動じない。

だが、指揮官たちの思考は、別のところに向いていた。


「アルヴァリア公爵領が、沈黙している」


「沈黙、というのが不気味だな」


「何も言わない、何もしない。だが、こちらが動けば……」


「“偶然”が起きる可能性がある」


誰もが、同じ名前を思い浮かべていた。


だが、誰も口にはしない。


公国の裏にいる何か。

剣を振るわず、命令も出さず、

それでも結果だけを変えてしまう存在。


国境の緊張が高まる一方で、

その少し南――中立公国の首都ヴァルアスは、普段と変わらぬ朝を迎えていた。


市場は開き、パンの焼ける匂いが広がる。

冒険者ギルドには依頼が張り出され、騎士団は定時の訓練を行っている。


城の一室で、椎名は書類に目を通していた。


内容は、物資の流通量、難民の受け入れ数、街道の警備状況。

どれも、戦争とは直接関係のないものばかりだ。


「……国境付近の宿場町、物資が過剰に集まっておりますね」


小さく、しかし確信を持って呟く。


戦争が起きる前兆は、剣よりも先に、物流に現れる。


椎名は、羽ペンを取り、いくつかの指示を書き足す。


・宿場町への物資流入を一時的に制限

・代替ルートの整備

・商人への説明は「市場安定のため」


どれも、平和的で、正当な措置だ。


だが、それだけで――

戦争の歯車は、微妙に噛み合わなくなる。


「戦争とは、不思議なものでございますね」


独り言は、いつも通り丁寧だった。


「始めるには、勢いが要りますが」


「止めるには、理由が一つあれば足ります」


その頃、国境では――


アルスト王国軍の前線に、伝令が駆け込んでいた。


「補給計画に、想定外の遅れが出ています!」


「中立公国経由の商路が、突然安定化を理由に制限されたと……」


将官は眉をひそめる。


「敵の妨害か?」


「いえ、公式には――我々とは無関係です」


同時刻、帝国側でも似た報告が上がっていた。


「前線への物資集中が難しくなっています」


「理由は?」


「中立公国の市場調整による、価格変動です」


両軍とも、同じ結論に至る。


――これは、罠ではない。

――だが、偶然でもない。


戦争を始めるために必要な「勢い」が、

いつの間にか、削ぎ落とされていた。


日が高くなる頃、

両軍は、ほとんど同時に陣を引いた。


撤退ではない。

再編成だ。


だが、その事実は、周辺諸国に確かに伝わる。


「戦争が、始まらなかった」


「いや――」


「始めさせてもらえなかった」


中立公国では、その報せを、誰も祝わなかった。

誰も誇らなかった。


ただ、いつも通りの日常が続く。


椎名は、窓から空を見上げ、静かに息を整えた。


「……一つ、ずれましたね」


それが良いことなのか、悪いことなのか。

彼は、まだ判断しない。


ただ一つだけ、確かなことがある。


戦争は、避けられてはいない。

しかし――形を変え始めている。


そしてそれを見ている存在が、

人族の外にも、確かにいる。


南方の森の向こう、

魔族の領域で、次の一手が静かに考えられていることを、

椎名は、まだ知らない。


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