第四部 第二十話――中立線、踏破
夜明け前。
南方境界に近い森は、霧に沈んでいた。
湿った空気が、肌にまとわりつく。
椎名は、足音を消して歩いていた。
靴底が落ち葉を踏んでも、音は立たない。
(……整っておりますね)
敵の配置は、明らかに訓練されたものだった。
距離、視線、背後の警戒。
盗賊でも、ならず者でもない。
正規兵を解体し、別装備を与えた部隊。
それが、椎名の結論だった。
⸻
霧の向こうで、低い声が交わされる。
「……この辺りが境界線のはずだ」
「越えたら合図だ。
揉めても、国の名は出すな」
椎名は、微かに眉を動かした。
(“越えたら”……でございますか)
それは、意図的な言葉だった。
境界線を越える。
すなわち――中立侵犯。
だが、彼らはそれを
「事故」「追跡」「誤認」に仕立てるつもりなのだ。
椎名は、剣に手を置いた。
魔力は、使えない。
だが、この世界で剣を振るう者たちの動きは、
すでに身体で理解している。
(まずは――)
踏み込む。
⸻
霧が、切れた。
一人目は、振り向く前に倒れた。
喉元を叩かれ、空気が抜ける。
二人目は、剣を抜く途中で膝を折る。
関節への最短距離。
三人目は、距離を取ろうとしたが――
椎名の踏み込みの方が、速かった。
剣が抜かれることはなかった。
音も、叫びもない。
それでも、異変は伝わる。
「……何だ?」
「後ろだ――!」
霧の中で、魔力が揺れた。
火の気配。
風をまとわせる動き。
(来ますね)
椎名は、剣を抜いた。
⸻
火が、弾けた。
空気を焦がし、爆ぜる炎。
だが、椎名は――その間を通った。
熱は感じる。
だが、避けるための軌道は、すでに見えている。
風を纏った剣士が突っ込んでくる。
強化された踏み込み。
速さも、力もある。
だが――
「……甘いですね」
丁寧な声。
剣と剣が触れる前に、
椎名の刃が、相手の剣の根元を打ち抜いた。
魔力で強化された武器でも、
支点を失えば、ただの鉄だ。
剣士は、驚愕した顔のまま倒れる。
次の瞬間、後方から水の圧が来た。
刃のように圧縮された流れ。
椎名は、地面を蹴った。
水が、空を裂く。
その背後に回り込み、
術者の手首を叩き落とす。
「な、何者だ……!」
最後に残った男が、震え声で叫ぶ。
椎名は、剣を下ろしたまま答えた。
「中立公国、アルヴァリア公爵領の者でございます」
それだけ。
それ以上でも、それ以下でもない。
⸻
捕縛された者たちは、
国名を口にしなかった。
だが、装備、訓練、指揮の癖。
椎名には、どこから来たかが分かっていた。
(……これで、戻れなくなりましたね)
彼らは、境界を越えた。
中立を侵した。
それは、小さな事件に見える。
だが――
国家間では、十分すぎる理由だった。
⸻
報告を受けたラルト公爵は、即断した。
「公式発表は――
“正体不明の武装集団による越境未遂”」
「国家名は出さない」
「だが――
再発した場合は、より強い措置を取る」
それは、警告だった。
椎名は、一礼する。
「適切なご判断かと存じます」
公爵は、椎名を見据えた。
「……これで終わると思うか」
「いいえ」
即答だった。
「次は、より大きく、
より“分かりやすい形”で来るでしょう」
それは、もう
代理戦争ですらない。
⸻
その頃――
東では、アルスト王国が兵を動かし、
北では、帝国が徴発を始めていた。
西では、聖王国の聖騎士団が
「秩序回復」を掲げて国境に現れる。
どの国も、口では言う。
「中立は尊重する」と。
だが、行動は違った。
均衡は、明確に崩れ始めていた。
⸻
夜。
椎名は、執務室の窓から外を見ていた。
灯りの下で、人々が行き交う。
まだ、日常はある。
「……守れるうちは、守りましょう」
誰に言うでもなく、そう呟く。
だが、剣を置いた手は――
いつでも抜ける位置にあった。
中立を破る者が現れたなら。
次は、国同士が名を伏せなくなる。
その時こそ――
本当の戦争が、始まる。




