第四部 第十九話――均衡の裏で蠢く影
会談から三日が過ぎた。
首都ヴァルアスは、表面上は平穏を保っている。
評議館前の広場では市が立ち、商人たちが声を張り上げ、
子どもたちが石畳を駆け回っていた。
だが、椎名の目には――
そのすべてが、薄い膜の上に成り立っているように見えた。
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「……流れが、変わりましたね」
椎名は、人気の少ない路地で足を止め、そう呟いた。
誰に向けた言葉でもない。
独り言ですら、丁寧な口調は崩さない。
数日前まで、首都に漂っていたのは
「様子見」の気配だった。
だが今は違う。
情報の動きが早すぎる。
噂が、意図的に整理されて流れている。
・中立公国が武装を強化している
・アルヴァリア公爵領が国境に兵を集めた
・どこかの国と密約を結んだらしい
――どれも、事実ではない。
だが、信じさせるには十分な粒度だった。
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アルヴァリア公爵邸。
執務室で、ラルト公爵が書類を置いた。
「……首都の商会が、急に態度を変えた」
声は低く、淡々としている。
「資材の供給が滞り始めている。
表向きは“需要増加”だが――」
「意図的な締め付けでございますね」
椎名は、即座に応じた。
「戦争の前段階では、
剣より先に、物流と不安が動きます」
公爵は、椎名を一瞥する。
「誰の仕業だと思う」
問いは短い。
部下に対する、率直な確認。
椎名は、少しだけ考え――首を横に振った。
「“誰か一国”ではございません」
「ほう」
「各国が、それぞれ少しずつ、でございます」
椎名は、机の上の地図に指を置いた。
「アルスト王国は東で兵を動かしておりますが、
それは帝国への牽制」
「カンフリークト帝国は、南下の準備をしつつ、
国内不満のはけ口を外に求めている」
「そして――」
指が、西へ。
「ルカ聖王国は、
“正義”を理由に、混乱を歓迎しております」
公爵は、深く息を吐いた。
「……中立は、嫌われるな」
「はい」
椎名は、静かに頷いた。
「戦争をしたい者にとって、
中立は邪魔でしかありません」
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その夜。
中庭で、ファルカが剣を振っていた。
まだ幼い体。
だが、動きには芯がある。
椎名は、少し離れた場所から見守っていた。
「師匠」
振り終えたファルカが、息を整えながら声をかける。
「……戦争、始まるんですか」
直球だった。
椎名は、すぐには答えなかった。
夜風に揺れる木々の音。
遠くの街の灯り。
「始めたい者は、増えておりますね」
ようやく、そう答えた。
「ですが――
始める理由が、まだ足りておりません」
「理由?」
「はい。
戦争には、正当化が必要でございます」
誰かが悪でなければならない。
誰かが先に踏み越えなければならない。
「ですので、彼らは焦っております」
ファルカは、唇を噛んだ。
「……中立公国が、その理由にされる?」
椎名は、ゆっくりと首を振った。
「されそうになった場合は――
させません」
その言葉は、静かだった。
だが、迷いはなかった。
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翌朝。
公爵領南端の監視拠点から、報告が入った。
「不審な集団を確認。
装備は軽装、統一性なし」
「盗賊……にしては、動きが良すぎます」
報告役の騎士が、言葉を選ぶ。
椎名は、目を閉じた。
(来ましたか)
「人数は?」
「十数名。
ただし、後続がいる可能性があります」
椎名は、目を開いた。
「……騎士団は、表に出さないでください」
「椎名様?」
「今回は、私が確認いたします」
それは命令ではなく、提案。
だが、公爵はすぐに理解した。
「――任せる」
短い一言。
それで十分だった。
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森の縁。
霧の中、椎名は一人、歩いていた。
気配は、すでに捉えている。
魔力の揺らぎ。
統一されていない装備。
そして――人為的に集められた殺意。
(これは、試しでございますね)
どこまで踏み込めるか。
中立公国が、どこまで許すか。
その測定。
椎名は、静かに剣の柄に手を置いた。
抜かない。
まだ。
だが、この一件が終われば――
次は、もっと露骨な手段が来る。
国同士が、
「誤認」や「事故」という言葉を捨て始める。
それを、椎名は理解していた。
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「……戦争は、避けられませんか」
小さく、丁寧に呟く。
答えは、風に消えた。
だが、心の中では――
すでに、覚悟は固まっていた。
中立とは、
最後まで均衡を保とうとする者が
最初に殴られる立場だ。
それでも。
守ると決めた。
この国を。
この人々を。




