第2話 伝説の魔女、牛に負ける
「今日よりこの牧場は、我が復活拠点となる!」
朝日が牧場の屋根を金色に撫で、牛舎の奥からミルカたちの呑気な鼻息が聞こえ、鶏小屋では卵を産んだばかりの雌鶏が世界に偉業を成し遂げた英雄みたいな声で鳴き散らかしている平和な朝、俺の納屋の中央では、尻尾とツノの生えた幼女が干し草の山の上に仁王立ちになり、長すぎる袖をばさりと広げながら、初期村の牧場としては過去最大級に迷惑な支配宣言を行っていた。
ちなみに、その干し草は昨日の夕方、俺が腰を痛めかけながら積み直した冬越し用の大事な備蓄である。
「復活拠点ってなんですか。うちは牧場ですよ。牛乳とチーズとバターで生活してる慎ましい事業所ですよ。世界征服の支店登録をした覚えはありません」
「黙れ、カイ・ミルロード。我は七大魔女が一角、竜魔女ベルベット・アスモデウス。かつて王国を灰へ変え、聖域を踏み荒らし、愚者どもの祈りを闇の底へ沈めた存在。ならば我が足を置いた土地はすなわち我が領地、我が領地に立つ建物は我が砦、我が砦に蓄えられたチーズは我が朝食である」
「最後だけ急に規模が小さくなるの、伝説としてどうなんですか」
「チーズを侮るな。昨夜の熟成三か月はなかなか見込みがあった」
「俺の備蓄を丸ごと食べた感想が上から目線なの、胃にくるなあ」
俺が全身から疲労を滲ませながら見上げる先で、ベルベットは小さな胸を張っていた。本人は玉座に座る魔王のつもりなのだろう。実際には干し草の山から時折ふわふわ落ちてくる葉っぱが髪に絡み、尻尾の先には昨夜のうちにどこかで拾ったらしい藁くずが巻きつき、背中の小さな翼は寝癖のように片方だけ上を向いている。俺の目には、世界を滅ぼしかけた伝説より、朝から全力で悪役ごっこをしている親戚の子に近かった。
そんな俺たちを見守っていたのは、牧場で働いてくれている村娘のリナ、卵の回収を手伝う粉屋の次男坊トム、野菜を納品に来た畑のおばさん、ついでに野次馬根性だけで現れた村長である。みんな口を半開きにしてベルベットを眺めていたものの、その目に宿っている感情は恐怖でも畏敬でもなく、「カイがまた面倒なものを呼んだぞ」という、三年かけて育まれた諦めに限りなく近い温度だった。
「カイさん」
最初に口を開いたのはリナだった。栗色の髪を布でまとめ、牛乳缶を片手に抱えた彼女は、俺とベルベットと干し草の山を順番に見比べたあと、ものすごく慎重な声で尋ねてきた。
「その子、迷子ですか?」
「違います」
「親戚の子?」
「違います」
「じゃあ、また変な召喚ですか?」
「当たりです」
「当たりなんですね……」
リナの視線が、俺の右手の甲に浮かぶ竜翼と魔女帽子の紋章へ落ちた。俺は反射的に手を背中へ隠したものの、村長がひょこひょこと近づいてきて、老眼のわりに嫌なところだけ見逃さない目つきで俺の背後を覗き込んだ。
「おお、契約印じゃな。カイ坊、また妙な娘っ子と縁を結んだか」
「村長、言い方に人聞きの悪さを混ぜないでください。この子は娘っ子というより、災厄指定の古代存在でして」
「はっはっは、元気があってよろしい。小さい子はよく大げさな設定で遊ぶもんじゃ」
「村長、たぶん遊びじゃないです。俺の寿命とか村の地形とかに関わる系です」
「カイ坊は昔から話を盛る癖があるのう」
「昔を知らないでしょう、俺がこの村に来たの三年前ですよ」
ベルベットの眉間がぴくりと動いた。いやな予感がした。伝説の魔女を親戚の子扱い、迷子扱い、ごっこ遊び扱い。普通ならここで怒りの魔法が爆発して納屋の屋根が吹き飛び、俺の借金項目に「屋根修理代」が追加されるところである。
「愚かなる民草どもよ」
ベルベットは干し草の山の頂上で腕を組み、背中の小さな翼をぴんと広げた。
「我を見て、なお凡俗の幼子と同じ枠へ押し込めるとは、無知とはここまで愛らしくも罪深いものか。よかろう、特別に我が魔力の片鱗を見せてやる。畏れよ、ひれ伏せ、可能ならば供物としてチーズを捧げよ」
「要求が昨日からずっと乳製品に寄ってるんですよね」
「黙って見ておれ」
ベルベットが片手を掲げた途端、納屋の空気がわずかに震えた。紫色の魔力が彼女の指先に集まり、床に落ちた藁くずがふわりと浮き、干し草の山がざわざわと波打つ。俺は思わず一歩退いた。相手は力が百分の一以下とはいえ、七大魔女の一角だ。魔力の片鱗という言葉が本当なら、納屋の一棟くらいは塵になるかもしれない。
「見るがよい。我が深淵の息吹を」
ベルベットの指先から、ぽふん、という音がした。
鶏小屋の扉が、ぱたん、と閉まった。
干し草が、少し舞った。
リナの前髪が、そよ、と揺れた。
世界は無事だった。納屋も無事だった。俺の腰に巻いた作業用エプロンの紐だけが、なぜかほどけた。
沈黙が降りた。
村長が顎ひげを撫でた。
トムが鶏小屋のほうを見た。
畑のおばさんが腰に手を当てた。
「今の、便利ねえ。鶏小屋の扉、いつも閉め忘れるから助かるわ」
「違う!」
ベルベットが顔を真っ赤にして叫んだ。
「今のは深淵の息吹であって、鶏小屋自動開閉術ではない!」
「ベルベット様、実用性のある魔法は尊いですよ。うちみたいな牧場だと特に」
「貴様まで同じ目で見るな!」
「いえ、俺は心から感心しています。鶏小屋の扉が遠隔で閉まるの、普通に助かります」
「助かるな! 畏れよ!」
畏れるべき対象は、別の方向から現れた。閉められた鶏小屋の中で何かが騒ぎ始め、すぐに扉の隙間から、怒りに燃える雌鶏たちの目がいくつも光った。卵を産んだ直後の雌鶏は、自分の仕事場の環境変化にとても厳しい。ましてや外から謎の魔力で扉を閉められたとなれば、彼女たちにとってそれは侵略行為であり、牧場鶏自治領への宣戦布告である。
「カイさん、鶏たち怒ってます」
「見ればわかります」
「止めなくていいんですか」
「止めたい気持ちはあります。命を賭けてまで間に入りたい気持ちはありません」
鶏小屋の扉が内側から押され、隙間が開き、そこから白、茶、黒、斑模様の鶏たちが次々と飛び出してきた。群れの先頭にいるのは、うちの鶏小屋で最も気性が荒い雌鶏、通称マダム・コッコである。彼女は過去に村の猟犬を追い回し、トムの弁当から豆パンだけを奪い、俺の召喚した下級悪魔を三分で泣かせた実績を持つ、牧場内序列で俺より上に位置する疑惑のある強者だった。
「なんじゃ、あの鳥どもは」
「うちの鶏です」
「我を睨んでおるぞ」
「ベルベット様が扉を閉めたからです」
「深淵の息吹と言うたであろう!」
「鶏に術名は通じません」
マダム・コッコが首を低くし、地面を蹴った。ベルベットは干し草の上で鼻を鳴らし、尊大に顎を上げる。
「羽虫風情が。我を誰と心得る」
「コケェェェェッ!」
「待て、鳴き声に殺意があるぞ」
鶏の群れが干し草の山を囲んだ。世界を震え上がらせたらしい竜魔女ベルベット・アスモデウスは、村の雌鶏十三羽に包囲され、干し草の頂上で目だけを泳がせた。俺は助けるべきだとわかっていた。わかっているのに、頭の奥で「七大魔女、牧場初日に鶏に包囲される」という見出しが勝手に組まれ、王都の瓦版に載った場合の挿絵まで想像してしまったせいで、口元がどうしようもなく緩んだ。
「カイ」
「はい」
「笑っておらぬか」
「そんなことありません。俺はいま、極めて深刻に家禽類との外交問題を考えています」
「助けよ」
「え?」
「聞こえなかったのか。助けよ」
「ベルベット様、畏れよって言った直後に助けを求めるの、流れとしてかなり急です」
「戦略的撤退の補助を命じておる!」
俺は両手を叩きながら鶏たちの間へ入り、マダム・コッコと目を合わせないように細心の注意を払いながら餌箱へ麦を撒いた。鶏たちは不満げに鳴きつつ、食欲という最強の停戦条約に従って散っていった。ベルベットは干し草の山から慎重に降り、足元に残っていた一羽のヒヨコに尻尾をつつかれて、今度は本気で小さく跳ねた。
「なんじゃこやつ! 尻尾を狙ってくるぞ!」
「ヒヨコです。たぶんミミズだと思われてます」
「我が竜尾をミミズ扱いとは、なんたる無礼」
「この牧場では、無礼より餌かどうかが重要視されます」
リナが笑いをこらえきれず肩を震わせ、トムは「強そうなのに鶏には弱いんだな」と余計な感想を漏らしてベルベットに睨まれ、畑のおばさんは「小さいのに元気でいいねえ」と完全に近所の子どもを見る顔になった。俺はこのままでは七大魔女の精神が鶏小屋前で粉々になると判断し、とりあえず牧場案内という名目で場を移すことにした。
「ベルベット様、ここに居座るなら、うちの仕事と生活の流れを知っておいたほうがいいと思います。復活拠点にするにしても、まず拠点運営の基本からです」
「七大魔女たる我に雑役をさせる気か」
「そんなつもりはないんですけど、一応牧場経営主ですので……牛がいつ乳を出して、餌がどれくらい必要で、井戸水をどこから引いて、チーズ棚の湿度をどう保つかくらいは知っておかないと、復活どころか朝食のチーズが尽きます」
チーズという単語が効いた。
ベルベットは不満そうに唇を尖らせたあと、長い袖を揺らしながら干し草の葉を髪から払った。
「よかろう。貴様の牧場とやらを見てやる。我が拠点にふさわしいか、七大魔女の目で見極めてくれる」
「ありがとうございます。見極めの前に、頭に刺さってる藁を取ってもいいですか」
「触るな。自分で取れる」
「反対側です」
「……取れ」
俺が藁を取ると、ベルベットは何事もなかったように歩き出した。歩幅が小さいため、本人の威厳ある行進は、周囲から見ると子どもが大人の後ろを一生懸命ついてくる姿に近い。俺は速度を落としつつ牛舎へ向かい、途中で水桶、餌場、堆肥置き場、干し草倉庫、チーズ熟成小屋の説明をした。ベルベットは最初こそ「ふん」「くだらぬ」「人間どもの営みよ」と鼻を鳴らしていたものの、チーズ熟成小屋だけは扉の前でやけに真剣な顔をした。
「ここに昨夜の丸いやつが生まれるのか」
「生まれるというより、作って育てます」
「育てる……チーズを……」
「妙な感動をしないでください。食べ尽くしたら育つ前に終わりますからね」
「復活後は、この小屋を三倍にする」
「いま復活計画が乳製品増産計画に変わりましたね」
牛舎に入ると、独特の温かい匂いと、干し草を噛むのんびりした音が俺たちを迎えた。うちの看板牛ミルカは、白と茶の斑模様がきれいな雌牛で、性格は温厚、食欲は魔王級、気に入らない相手には鼻息で圧をかける。初めて会う人間には大抵一度だけ品定めをするようにじっと見るのだけれど、ベルベットを見たときのミルカは、威圧されるどころか、長すぎる袖の揺れに興味を示した子牛みたいな顔になった。
「こやつがミルカか」
「はい。うちで一番よく乳を出してくれる子です。村の子どもたちからも人気で、俺より誕生日を覚えられてます」
「牛ごときが我より大きい顔をしておる」
「体格は確実に大きいですね」
「黙れ」
ベルベットはミルカの前に立ち、背筋を伸ばして魔女らしい威圧の視線を向けた。ミルカはもぐもぐと干し草を噛みながら、その小さな来訪者を見下ろした。数秒後、ミルカは何の遠慮もなく、ベルベットの長い袖をはむっと口に含んだ。
「ぬおっ!? 離せ、獣!」
「ミルカ、だめだめ、それは餌じゃない」
「カイ! この牛、我の袖を食おうとしておる!」
「新しい干し草と間違えたんだと思います。色が黒いから熟成感もありますし」
「我の衣に熟成感を見出すな!」
俺がミルカの口から袖を外すと、今度はベルベットの尻尾がゆらりと揺れた。ミルカの目がそちらへ向く。俺はまずいと思った。ミルカは揺れるものに弱い。過去には村長の白い髭を草と勘違いして吸い込みかけたこともある。
「ベルベット様、尻尾を上げてください」
「なぜ我が牛ごときに尾の位置を気遣わねばならぬ」
「噛まれます」
「竜魔女の尾を噛む牛などおるものか」
ミルカが尻尾の先をはむっといった。
「おった!」
ベルベットが悲鳴を上げ、ミルカが「なにこれ食べられるの?」みたいな顔で尻尾を軽く引き、ベルベットは床の藁を蹴りながら小さな体で踏ん張った。世界を滅ぼしかけた魔女が、うちの牛に負けている。俺の内心ではその一文が鐘の音みたいに鳴り響いた。笑ってはいけない。笑えば俺の命かチーズ庫か、あるいは両方が危ない。俺は頬の筋肉を全力で押さえ込み、真面目な牧場主の顔を作った。
「ミルカ、離しなさい。ベルベット様は餌じゃない。たぶん」
「たぶんとはなんじゃ!」
「いえ、ミルカ基準だと判断が難しいので」
「カイ、貴様いま笑いをこらえておるな」
「こらえてません。これは牛舎の湿気で顔が歪んでいるだけです」
「顔面まで湿気に弱いのか、貴様は」
ようやく尻尾を取り戻したベルベットは、頬を膨らませながら俺を睨んだ。俺は機嫌を直してもらうべく、乳搾り用の低い椅子と清潔な桶を用意した。
「せっかくなので、乳搾りを見ますか? やってみると意外に奥が深いんですよ。力加減と角度と牛への挨拶が大事で、乱暴にすると嫌われます」
「我が牛に嫌われることを気にするとでも?」
「嫌われると蹴られます」
「……手順を述べよ」
意外と素直だった。ベルベットは俺の説明を聞き、低い椅子に腰かけ、袖をどうにか肘のあたりまでたくし上げようとした。袖が長すぎて手元が見えず、尻尾が椅子の脚に絡み、ミルカが横目でその様子を眺める。俺は横で、世界史の教本を書いた人たちにこの光景を見せたら何人くらい筆を折るだろうと考えていた。
「まず、ここを優しく握って、上から順番に力を送る感じで」
「こうか」
「もう少し柔らかく」
「七大魔女に柔らかさを求めるな」
「牛乳は威厳で出ません」
ベルベットが挑戦した。ぴゅ、と細い白い線が桶の縁に当たった。本人は一瞬だけ目を輝かせたものの、すぐに咳払いして尊大な顔に戻る。
「ふむ。仕組みは理解した。なんとも原始的な作業よ」
「原始的でも毎朝必要です」
「魔力で効率化できる」
「え、待ってください、乳搾りに攻撃魔法みたいな構えを取らないでください」
「心配いらぬ。我が魔力制御は完璧だ」
「さっき鶏小屋の扉しか閉まりませんでしたよね」
「あれは余興だ」
ベルベットの指先に紫の光が灯った。俺は止めようと手を伸ばしたものの、彼女はもうミルカの周囲に小さな魔法陣を展開していた。魔法陣は美しかった。古代文字が滑るように回転し、空気中の水分がきらきら光り、牛舎の薄暗さの中に幻想的な輝きが満ちる。これが牛乳に関係していなければ、俺は素直に感動したと思う。
「開け、白き豊穣の門」
「言い方!」
ミルカの乳から、牛乳が噴水みたいに飛び出した。桶は一瞬で限界を迎え、白い弧を描いた牛乳が俺の顔面、髪、服、首元、ついでに魂の奥まで叩きつけられた。視界が真っ白になる。鼻に牛乳が入る。口にも入る。絞りたてで温かい。味はいい。味を評価している場合ではない。
「止めて! ベルベット様、止めてください! 俺がチーズになる!」
「む、思ったより勢いが出たな」
「思ったよりで済む白さじゃないんですよ!」
「カイ、貴様、雪原の精霊みたいになっておるぞ」
「牧場主です! さっきまでは!」
ベルベットが慌てて魔法を止めると、牛舎には牛乳まみれの俺、何事もなかったようにもぐもぐしているミルカ、桶の周囲にできた白い水たまり、そして自分の失敗を認めたくなくて遠くを見る小さな竜魔女だけが残った。ミルカは俺の袖をぺろりと舐めた。たぶん牛乳がついているからだ。情けなさで涙が出そうだった。
「ベルベット様」
「なんだ」
「今の作業名、何でしたっけ」
「白き豊穣の門だ」
「うちでは牛乳テロと呼びます」
「貴様の命名は風情がない」
「風情より床掃除が先です」
そのとき、牛舎の入口から柔らかな声がした。
「カイさん、朝の水路確認に来ました……って、どうして全身牛乳まみれなんですか?」
現れたのは、森エルフのセシリアだった。淡い緑の髪を肩のあたりで結び、耳の先が朝日に透けている彼女は、俺がよく牧場の薬草畑管理の相談相手として召喚している穏やかな美人である。その隣には、水色の半透明な髪を揺らす水精霊ルルが浮かび、さらに後ろから、猫耳の薬師見習いミャロが薬草籠を抱えて顔を出した。いずれも俺が普段からお世話になっている召喚仲間であり、同時に俺の「異世界生活、悪くないなあ」と思わせてくれる精神的支柱である。
その三人の視線が、牛乳まみれの俺から、低い椅子に座ったベルベットへ移った。
沈黙。
セシリアが口元に手を当てる。
ルルが水滴みたいな目を丸くする。
ミャロの猫耳がぴんと立つ。
「カイさん」
「はい」
「ついに子どもまで……?」
「違う! 違います! この世のあらゆる違うを集めて山にしたくらい違います!」
俺は牛乳を垂らしながら全力で否定した。牛乳が床にぽたぽた落ちるたび、俺の尊厳も一緒に落ちていく気がした。
「セシリアさん、落ち着いてください。この子は子どもではなく、正確には七大魔女の一人で、竜人族で、昨日うっかり召喚した結果、契約主導権を奪われて、いま俺の牧場を復活拠点にすると宣言している危険存在です」
「カイさん」
「はい」
「言い訳が複雑すぎるときって、大抵やましいことがあるって、森の長老が言っていました」
「森の長老、今すぐ呼んで反論したい」
ルルがふわふわ近づき、ベルベットを観察した。
「小さいですね」
「小さいと言うな、水の気配を纏う者よ。我はベルベット・アスモデウス、七大魔女が一角、竜魔女にして古き災厄の継承者である」
「カイさんの親戚ではないのですか?」
「違います!」
「カイさんが隠していた娘さんでもないのですね?」
「もっと違います!」
ミャロが薬草籠を抱え直し、俺を半目で見た。
「カイ、あんた女好きなのは知ってたけど、さすがに守備範囲が広すぎるにゃ」
「ミャロ、その言い方は俺の社会的生命に爪を立てています。俺は女好きです。それは認めます。エルフの耳も、猫耳も、水精霊の涼しげな雰囲気も大好きです。そこは一切ごまかしません。けれど、この子に対してそういう気持ちは一滴もない。見てください、俺は牛乳まみれです。やましい人間はもっと身だしなみに気を使います」
「牛乳まみれの変態って可能性もあるにゃ」
「可能性を広げないで!」
ベルベットが、にやりと笑った。
あの笑みだ。
昨夜、契約を強制延長したときと同じ、相手の弱みを見つけて尻尾でつつく気満々の顔だった。
「ふむ。カイよ、ずいぶん慌てておるな」
「ベルベット様、お願いします。ここは誤解を解く場面です。あなたが一言、我は伝説の魔女であってカイとは健全な召喚契約関係にある、と言ってくださればすべて丸く収まります」
「なるほど」
「ありがとうございます」
「我はこやつの契約者であり、寝床と食事を共有する仲である」
「言い方ァ!」
セシリアの笑顔が凍った。
ルルの周囲の水気がすうっと冷たくなった。
ミャロの尻尾が不機嫌そうに左右へ揺れる。
俺は牛乳まみれのまま両手を広げた。
「違います! 寝床を共有というのは、同じ家の別の部屋という意味で、食事を共有というのは昨夜俺のチーズを丸ごと奪われたという被害報告で、契約者というのは俺が望んで結んだものではなく、むしろ帰還呪文を三回失敗した結果の強制的な法的事故です!」
「カイさん」
セシリアが静かな声で言った。
「私は、カイさんが召喚術を生活に役立てる姿勢を尊敬していました」
「過去形やめてください」
「まさか、こんな小さな子まで家に連れ込むなんて」
「だから連れ込んでない! 向こうが居座ったんです!」
「我を家に招いたのは貴様であろう」
「召喚陣の事故です!」
「そして昨夜、我にチーズを与えた」
「脅迫に近い接待です!」
「さらには今朝、我に牧場を案内し、牛舎で二人きりになった」
「牧場案内のどこを切り取っても業務です!」
「白き豊穣の門まで開いたな」
「その術名、今だけは封印してください!」
ミャロが一歩下がった。
「カイ、あんた……」
「ミャロ、その哀れみと軽蔑が混ざった目はやめて。俺の心が猫じゃらしみたいに折れる」
ルルが水の玉を作り、俺の頭から牛乳を洗い流してくれた。ありがたい。ありがたいのに、その顔は心なしか冷たい。
「カイさん、不潔です」
「牛乳のせいですか、それとも疑惑のせいですか」
「両方です」
「水精霊の浄化が心にしみる」
俺は必死に説明を続けた。七大魔女という存在、昨日の召喚事故、主導権を奪われた契約、復活拠点宣言、鶏に包囲された件、ミルカに尻尾を噛まれた件、牛乳噴水事件。話せば話すほど内容が荒唐無稽になり、俺自身も途中から「これを信じろというほうが無理では」と思い始めた。セシリアたちは少しずつ事情を飲み込んでくれたものの、ベルベットは横から絶妙に余計な補足を挟み続けた。
「ちなみに我は昨夜、こやつの家に泊まった」
「空き部屋です!」
「朝食も要求した」
「要求というより命令でした!」
「こやつの右手には我の印がある」
「強制契約印です!」
「我の尾を見て、なかなか良い形などと考えておったな」
「考えてません! ヒヨコに狙われそうとは思いました!」
「ふふ、必死よのう」
「あなたが火をつけて、俺が水を運んで、あなたがまた油を注いでるんです!」
ベルベットは心底楽しそうだった。鶏に包囲された屈辱も、牛に尻尾を噛まれた怒りも、俺が社会的に追い詰められている光景によって綺麗に上書きされたらしい。伝説の魔女というものは、世界を滅ぼす前にまず身近な男の評判を焼き払うところから始めるのかもしれない。
それからしばらく、俺たちは牛舎の床掃除をした。牛乳を水で流し、藁を取り替え、ミルカに追加の餌をやり、ベルベットの袖と尻尾についた牛乳をルルが水球で洗った。ベルベットは「我に掃除をさせるな」と文句を言いながらも、セシリアが「拠点を清潔に保つのも支配者の務めでは?」と穏やかに言うと、むっとした顔で小さな箒を持った。箒が体格に合わず、ほとんど槍みたいになっていたため、トムが「ちびっこ兵隊みたいだ」と笑って蹴られかけた。
昼前になると、ベルベットは牧場の柵に腰かけ、鶏小屋を警戒しながら牛舎のほうを見ていた。ミルカは相変わらず呑気にもぐもぐしている。マダム・コッコは砂浴びをしながら、ときどきベルベットへ鋭い視線を送る。セシリア、ルル、ミャロは俺に対して完全な疑いを解いたわけではなさそうだったけれど、ベルベットが本当にただの子どもではないこと、そして俺が被害者寄りの立場であることだけは、かろうじて認めてくれたらしい。
「ベルベット様」
「なんだ、牛乳男」
「その呼び名は心に残るのでやめてください。今日の牧場案内、どうでした?」
ベルベットは腕を組み、尻尾をゆっくり揺らした。ヒヨコが反応したため、慌てて尻尾を自分の膝の上に避難させる。
「牛は無礼、鶏は野蛮、村人は鈍く、召喚仲間とやらは貴様を見る目にやや問題がある」
「最後はあなたの発言が主な原因です」
「されど、食料はあり、魔力の流れも悪くなく、土地は広く、チーズは育つ。騒がしく、泥臭く、我の知る玉座や塔とはまるで違う場所よ」
「お気に召しませんでしたか」
ベルベットは少しだけ目を細めた。朝の支配宣言のときとは違う、どこか遠くを見ているような顔だった。
「この牧場、なかなか退屈せぬな」
俺はその言葉に、喜ぶべきか絶望するべきか判断できなかった。少なくとも「退屈しない」は、七大魔女にとって居座る理由になり得る。つまり俺の牧場は、牛乳とチーズを生産する場所から、伝説の魔女をもてなす危険施設へと、本人の許可なく事業転換を始めている。
ベルベットは柵から降りると、俺のほうを振り向いた。
「カイ。昼食はなんだ」
「パンと野菜スープと、少しだけチーズです」
「少しだけ?」
「昨夜、誰かが丸ごと食べたので」
「ふむ。では今日は作れ」
「チーズは一日で完成しません」
「ならば未来のチーズを前借りせよ」
「チーズに金融概念を持ち込まないでください」
俺が頭を抱える横で、ミルカがのんびり鳴き、鶏たちが土を蹴り、セシリアたちがまだ少し冷たい目で俺を見ながらも昼の支度を手伝い始めた。ベルベットはその中心で、まるで最初からここが自分の領地だったみたいに胸を張って歩いている。
世界を滅ぼしかけた竜魔女は、牛に負け、鶏に包囲され、牛乳で俺を白く染め、ついでに俺の女性関係を焼け野原寸前まで追い込んだうえで、ほんの少しだけこの牧場を気に入り始めていた。
俺の平和な牧場生活は、まだ二日目にして完全に別ジャンルへ突入していた。




