第1話 お帰り願えますか?
「貴様か、我を呼び覚ましたのは」
その第一声を聞いた瞬間、俺は思った。
終わった、と。
召喚陣の中央で紫色の炎が渦を巻き、床に敷いた山羊皮紙がぱたぱたと悲鳴みたいな音を立て、牧場の納屋に吊るしていた干し草の束が魔力風にあおられて天井付近をもさもさ揺らすなか、俺は全身の毛穴から「やらかした人間です」という看板を掲げる勢いで冷や汗を噴き出していた。
なにせ今の声は、どう考えても「近所の畑でカブを盗んだ子どもを叱るおばあちゃん」ではない。
王国史の教本に載っているような、黒い塔のてっぺんから世界中に呪いをばら撒き、気まぐれに大陸の形を変え、勇者三人と聖女五人と賢者十二人をまとめて泣かせて帰らせた、そういう存在の声だった。
俺は喉を鳴らしながら、紫煙の奥に現れるはずの姿を想像した。
たぶん背は高い。
絶対に美人。
黒いドレス。
腰まで届く銀髪。
片目だけ金色に光っている。
足元には古代竜の頭蓋骨。
背後には世界終焉の象徴みたいな月。
俺のような辺境初期村のしがない牧場主兼召喚術師など、指先ひとつで干し肉と同じ保存食に加工してしまいそうな、圧倒的かつ退廃的かつ妖艶な魔女。
そこまで覚悟を決めた俺の前で、煙が晴れた。
立っていたのは、尻尾にツノの生えた、どこからどう見ても子どもの幼女だった。
「……」
「……」
俺とその子は、召喚陣を挟んで見つめ合った。
身長は、俺の腰より少し上くらい。
黒曜石みたいな小さなツノが額の左右からぴょこんと出ていて、背中には申し訳程度の薄い翼、尻尾は細長く、先端だけハート形に近い妙なふくらみがあり、赤紫の髪は寝起きのミニドラゴンが巣穴から転がり出てきましたと言わんばかりに跳ねている。
服装は、豪奢な魔女のローブをそのまま百年くらい洗濯して、サイズだけ極端に縮めたような黒いワンピース。
顔立ちは整っている。
整っているのに、ほっぺたが丸い。
威厳はある。
威厳はあるのに、袖が長すぎて手が半分隠れている。
俺の脳内で、世界を滅ぼす大魔女と、近所の子ども会で迷子になった女児が、音を立てて衝突事故を起こした。
「……ええと」
俺は自分でもびっくりするくらい丁寧な声を出した。
「ごめんなさい。人違い、いや、召喚違いです」
「ほう?」
幼女は目を細めた。
その目つきだけは本当に怖かった。
身体は小さいのに、視線だけで家畜小屋の牛たちが一斉に黙り込み、いつもなら人の背中に頭突きをしてくる山羊のポポロまで、餌箱の陰から耳だけ出して様子をうかがっている。
「我を呼び覚ましておきながら、第一声が謝罪とはな。近頃の召喚士は礼儀を失ったと思っていたが、臆病さだけはなかなか磨かれておるらしい」
「いや、礼儀というより、純粋に事故対応ですね。俺は本日、牧場用の労働力として水汲み精霊か、できれば乳搾りに理解のある家事妖精を呼ぶ予定でして」
「我を、乳搾り妖精と間違えたと?」
「言い方を悪くするとそうなります」
「言い方を良くしてみよ」
「……将来的に牧場運営へ多角的な貢献が期待される、異界由来の高位存在をお招きしたつもりでした」
「ふむ。命乞いの才能はある」
「ありがとうございます。生きるのが仕事なので」
幼女は鼻で笑った。
その仕草だけを見ると、千年の時を生きる魔王の側近みたいで妙に迫力があるのに、足元では召喚陣の魔力に驚いたヒヨコが一羽、彼女の尻尾をミミズと勘違いしてつつこうとしている。
俺は目でヒヨコに訴えた。
やめろ。
それはたぶんミミズじゃない。
世界史に残るタイプの尻尾だ。
「貴様、名は」
「あ、俺ですか。カイ・ミルロードです。この村で牧場をやってます。牛が十二頭、山羊が七頭、鶏が三十羽くらい、あと勝手に住み着いたスライムが二匹」
「職業は」
「牧場主です」
「召喚士ではないのか」
「副業です」
「我を副業で呼んだのか」
「本業の都合で必要だったんです」
幼女の眉間に、幼女にあってはいけないほど深いしわが寄った。
俺はここで、やっと自分の置かれた状況を整理し始めた。
そもそもの発端は今朝、牛舎の裏にある貯水槽が壊れたことだった。
この異世界に転生して早三年、俺は前世で実家が酪農家だった知識を活かし、初期村の外れにそこそこ立派な牧場を作り上げた。牛乳は売れる。チーズも売れる。バターは高く売れる。堆肥は畑持ちの村人に喜ばれ、牧場で働く女の子たちには毎日笑顔で「カイさんって頼りになりますね」と言ってもらえる。
控えめに言って、俺は天才だった。
さらに言えば、俺は女の子が好きだった。
人間、エルフ、獣人、妖精、言葉が通じて笑ってくれて、できれば俺のしょうもない冗談に少しだけ付き合ってくれる相手なら、種族欄の違いなど牧草の種類くらいのものだ。
そんな俺には、ひとつだけ異常な才能があった。
召喚術。
身体能力は村の鍛冶屋の娘に腕相撲で負ける程度、攻撃魔法は火花を出そうとして指先を温める程度、剣術にいたっては棒切れを振り回す犬のほうがまだ見込みがあると言われた俺が、召喚だけは異様にうまかった。
精霊界、魔界、古代英霊の眠る場所、神話の端っこの物置みたいな異界領域まで、契約条件さえ整えばだいたい呼べる。
その才能のおかげで牧場は回った。
水精霊に水路を見てもらい、土精霊に畑をふかふかにしてもらい、風妖精に干し草の乾燥具合を確認してもらう。
たまに完全な私情で、話し相手として美人の森エルフや猫耳の薬師見習いを呼んだこともあるけれど、そこは男の夢と村の娯楽不足を考慮して情状酌量してほしい。
今日もその延長線だった。
水汲み用の高位水精霊を呼ぶつもりで、ちょっと古めの召喚書を開いた。
ページの隅に「封印指定」「七大」「竜」「アスモデウス」みたいな不穏な単語が並んでいた気もするものの、寝不足の俺はそれを「水量多め」「大容量」「竜脈水」「明日も出る」くらいの牧場向け親切説明として都合よく解釈した。
そして現在、俺の納屋には、水ではなくミニドラゴン幼女が立っている。
世の中、読み飛ばしていい注意書きと、読まなかった瞬間に人生が折れる注意書きがあるらしい。
「カイ・ミルロード」
幼女が俺の名を呼んだ。
その声に、召喚陣の残り火がひれ伏すみたいに小さく揺れた。
「貴様が用いた陣は、古き竜魔女の魂魄を縛るための禁呪である。よほどの愚か者か、よほどの大器か、あるいはその両方でなければ触れぬ術式よ」
「たぶん一番目ですね」
「己で言うか」
「自覚のある愚か者は、伸びしろだけはあります」
「伸びる前に燃えることもある」
「燃やす予定ですか?」
「気分次第だ」
俺は深く息を吸った。
落ち着け。
相手は子どもの姿をしているけれど、中身はおそらく伝説級の何かだ。
こういう場合、召喚士として最も重要なのは、相手の正体を見極め、契約内容を確認し、危険なら速やかに召喚破棄すること。
俺は右手を胸の前に掲げ、できるだけ柔らかく笑った。
「ええと、すみません。俺の確認不足でご迷惑をおかけしました。こちらとしては、あなたのような高貴で偉大で、ついでに大変お小さい方を無理やり労働力にするつもりは一切ありません」
「最後に余計な刃を混ぜたな」
「気のせいです。つきましては、いったんお帰り願えますか?」
「帰れと?」
「はい。丁重に。できれば穏便に。納屋を壊さず。牛を呪わず。俺の寿命も削らず」
「ふふ」
笑った。
幼女が笑った。
小さな口元がにやりと吊り上がり、丸い頬に妙に不釣り合いな悪意の影が差す。
その顔を見た瞬間、俺の背骨の内側を冷たい手がなぞったような感覚が走った。
召喚事故に慣れている俺の勘が告げている。
この子、絶対に帰る気がない。
「召喚士よ。貴様は己が何を呼んだのか、まだ理解しておらぬようだな」
「理解したくない現実というものは、人間誰しも一つや二つ抱えております」
「ならば教えてやろう。我が名はベルベット・アスモデウス。かつて七大魔女の首席に座し、竜の血と魔の理を継ぎ、三王国を灰に変え、神殿連合の聖域を踏み荒らし、愚かな勇者どもを百年眠らせた者」
「……ベルベット、アスモデウス」
俺は口の中でその名前を転がした。
転がした結果、舌が自分のものではなくなった気がした。
知っている。
その名前は知っている。
異世界に来てから読んだ歴史書、酒場のほら話、吟遊詩人の歌、村長の古い説教、全部に微妙な形で出てくる災厄の名だ。
竜人族の魔女。
七大魔女のひとり。
世界の裏側に封じられた、触ってはいけない伝説。
俺は目の前の幼女を見た。
袖が長い。
尻尾がヒヨコに狙われている。
背伸びしても干し草棚の二段目に届かなそう。
「……本物ですか?」
「疑うか」
「確認作業です。牧場でも、牛を買うときは歯と蹄と乳の張りを確認します」
「我を牛扱いするな」
「魔女を買った経験がないので比較対象が牛しかなくて」
「よし、貴様の死因候補に踏み潰しを追加しておく」
「できれば老衰だけに絞ってください」
俺は額の汗を袖で拭った。
最悪だ。
召喚したのがただの悪魔なら、交渉次第で帰せる。
高位精霊なら供物を積めば機嫌を直してくれる。
幽霊系なら塩と聖水と近所の神父を呼べば何とかなる。
七大魔女はどうすればいい。
村の困りごと掲示板にも「伝説の魔女を間違えて呼んだ場合」なんて項目はない。
「わかりました」
俺はできるだけ誠実にうなずいた。
「ベルベット様。大変恐縮ですが、召喚破棄を行います。これは追い返すというより、正式な手続き上の帰還案内です。お帰りの際には粗品として牧場特製チーズをお持ちいただけます」
「ほう、チーズ」
「熟成三か月です」
「悪くない」
「では、円満解決ということで」
俺はすばやく詠唱に入った。
召喚破棄の呪文は得意だ。
呼んだ相手と話が合わなかったとき、呼んだ相手が思ったより巨大だったとき、呼んだ相手が俺の顔を見るなり「前世の借金を返せ」と叫び出したとき、あらゆる場面で俺を救ってきた頼れる退去手続きである。
「境界の灯よ、契約の糸をほどけ。名を還し、影を還し、魂の道を異界へ――」
召喚陣が白く光った。
成功の兆しだ。
ベルベットの足元に帰還の門が開き、紫煙が渦を巻く。
俺は胸の奥で小さく勝利の拳を握った。
よし。
帰る。
帰っていただける。
明日の朝には、俺は壊れた貯水槽を眺めながら「昨日は変な夢を見たな」と笑い、昼には水精霊を正しく呼び、夕方には牧場娘たちに「カイさん、今日も大変でしたね」と労われ、夜にはチーズを肴に自分の危機回避能力を褒める。
そんな平和な予定表が、俺の脳内にやさしく広がった。
「――契約破棄。帰還せよ!」
光が弾けた。
納屋の中を風が抜け、干し草が舞い、鶏たちが抗議の鳴き声を上げる。
煙が薄れた。
ベルベットは、まだそこにいた。
小さな足で召喚陣の中央に立ち、長すぎる袖を揺らし、尻尾の先で床をとん、と叩きながら、実に楽しそうに俺を見上げていた。
「……あれ?」
「終わりか?」
「いまのは予行演習です」
「ほう」
「本番いきます」
俺はもう一度詠唱した。
さっきより声を大きく、発音を丁寧に、帰ってほしいという祈りを限界まで込めた。
白い光。
風。
干し草。
鶏の抗議。
煙。
幼女。
「……」
「終わりか?」
「納屋の湿気で術式が乱れた可能性があります」
「便利な納屋だ」
「場所を変えましょう」
「逃がすと思うか?」
「お散歩の提案です」
「却下だ」
俺は三度目の詠唱を始めようとして、口を閉じた。
ベルベットの足元から、黒い魔力が染み出していた。
それは水でも影でも煙でもなく、文字そのものが液体になったような奇妙なもので、召喚陣に刻まれた俺の術式をなぞり、食べ、組み替え、まるで古い契約書の上から新しい条件を書き足していく税務署の悪魔みたいな正確さで広がっていく。
「な、なにしてるんですか」
「契約の穴を塞いでおる」
「穴は塞がないでください。換気してください」
「貴様の術式は見事だ。召喚士としての器だけなら、我を呼び覚ます資格がある」
「褒められているのに胃が痛い」
「惜しむらくは、頭の中身が牧草と下心で詰まっている点よ」
「牧草は仕事で、下心は人生の潤いです」
「どちらも燃えやすい」
ベルベットが小さな右手を上げた。
袖の奥から白い指先が覗き、その指が空中にちょんと触れる。
たったそれだけで、俺の召喚陣が悲鳴を上げた。
床に描いた円がぐにゃりと歪み、白い線が黒紫の光に塗り替えられ、契約の中心にあった俺の名の隣へ、勝手にベルベット・アスモデウスの名が刻まれていく。
俺は慌てて膝をつき、床に手を伸ばした。
「待って待って待って! 何を書き足してます!? 契約書に本人確認なしで追記するのは王都の商業組合でも禁止されてますよ!」
「安心せよ。我は王都の商業組合に所属しておらぬ」
「もっと悪い!」
「召喚契約とは本来、呼び出した者が主で、呼び出された者が従となる。ここまでは正しいな」
「はい」
「ところが、召喚された側の魔力が召喚者を圧倒的に上回る場合、契約の主導権は容易に反転する」
「初耳なんですけど」
「教本に載っておる」
「読んだ本には『初心者でもできる楽しい召喚生活』って書いてありました」
「その著者を墓から呼べ。説教してやる」
「説教だけで済みます?」
「気分次第だ」
黒紫の光が一気に強くなった。
俺の右手の甲に、焼き印みたいな熱が走る。
「熱っ、熱い! これ熱いやつ! 契約印!? 勝手に契約印ですか!?」
「貴様は我を呼び覚ました。肉体は不完全、力は百分の一にも満たぬとはいえ、こちらの世界に再び足をつけるには器が要る。召喚陣を開いた貴様は、まこと都合のよい錨でな」
「人間を港の設備みたいに言わないでください!」
「喜べ。貴様は七大魔女ベルベット・アスモデウス復活の第一歩に選ばれたのだ」
「選考辞退します!」
「不採用通知は我が出す側だ」
右手の甲に小さな紋章が浮かんだ。
竜の翼と魔女の帽子を組み合わせたような、妙に可愛いくせに禍々しい印。
それを見た瞬間、俺は自分の自由が小さな足音を立てて遠ざかっていくのを感じた。
ベルベットは満足げにうなずき、召喚陣の外へ一歩出た。
たった一歩。
それだけで納屋全体の空気が変わった。
干し草の匂い、牛の息づかい、鶏の羽音、朝から積み上げた仕事の気配、その全部を、小さな暴君の存在感がぎゅっと握り潰したような圧がある。
俺は床に手をついたまま、なんとか笑顔を作った。
「ええと、ベルベット様」
「なんだ、我が召喚士」
「その呼び方、上下関係がよくわからないんですけど」
「わかりやすくしてやろう。貴様は我の召喚士であり、器であり、下僕であり、牧場の所有者であり、寝床と食事を用意する係だ」
「肩書きが増えるほど地位が下がっていく不思議」
「まずは腹が減った」
「話の切り替えが王様より横暴」
「チーズを出せ。熟成三か月のものだ」
「帰還の粗品だったんですけど」
「帰らぬゆえ、滞在の手土産として受け取ってやる」
「受け取る方向だけは揺るがないんですね」
ベルベットは俺の顔を見上げ、これ以上ないほど悪い笑みを浮かべた。
幼女の姿をした伝説の竜魔女。
力は本来の百分の一以下らしい。
その百分の一以下に、俺の召喚破棄は歯が立たなかった。
俺は右手の契約印を見つめた。
それから、納屋の隅で震えている鶏たちを見た。
牛舎のほうでは、いつも呑気な牛のミルカが「この家、大丈夫?」みたいな目で俺を見ている。
大丈夫ではない。
まったく大丈夫ではない。
俺の牧場スローライフは、今まさに小さな竜の足に踏まれて、ぐにゃりと形を変えようとしていた。
「カイ・ミルロード」
「はい」
「我はこの世界を知る必要がある。土地、食料、魔力の流れ、人間どもの勢力、そして貴様の牧場の収益状況」
「最後だけ急に現実的」
「復活には資金が要る」
「伝説の魔女も経理からは逃げられないんですね」
「まずはここを我の拠点とする」
「俺の牧場なんですけど」
「よい牧場だ。牛がいる。鶏がいる。チーズがある。下僕もいる」
「最後の家畜分類だけ訂正してもらえます?」
「では、カイ」
「はい」
「我にお帰り願えると思ったか?」
俺は口を開き、閉じた。
言えることは山ほどあった。
予定が狂ったとか、俺は水精霊を呼びたかっただけとか、幼女にこき使われる人生は前世の職場だけで十分だとか、そもそも七大魔女がチーズに釣られるなとか。
その全部を飲み込み、俺は牧場主として、召喚士として、そして何より生存本能に忠実な一人の男として、深々と頭を下げた。
「いえ、歓迎いたします。ベルベット様」
「うむ。よい心がけだ」
「ところで、チーズは一切れでいいですか?」
「丸ごとだ」
「お帰り願えますか?」
「願えぬ」
こうして俺の牧場に、ミニドラゴンが住み着いた。
初期村でのんびりハーレム生活を満喫していたはずの俺は、この日から、尻尾とツノの生えた小さな暴君にこき使われることになる。
ちなみに熟成三か月のチーズは、丸ごと消えた。
俺の自由と一緒に。




