第四話 血に染まる自由
その貴族の男が、ソヤラへ向かって突進した。
欲に濁った目。
伸びてくる手。
狙いが何なのか、考えるまでもなかった。
来る。
速い。
その手が、彼女の胸に触れようとしている。
ほんの数秒のことだった。
なのにソヤラには、すべてがひどくゆっくりに見えた。
世界そのものが引き延ばされたみたいに、景色も、音も、男の指先も、じわじわと近づいてくる。
あと少し。
あと少しで触れる。
その瞬間――
扉が吹き飛んだ。
重い扉が砕け散る音が、部屋じゅうを揺らした。
風が一気になだれ込み、灯りが大きく揺れる。
部屋にいた三人の身体が固まる。
首だけが、壊れた扉の向こうに立つ男へ向いた。
貴族の男が口を大きく開き、怒鳴る。
「おい、御者ッ!! 一体何をしている!? 自分が俺の大切なひとときを邪魔していると、わかっているのか!?」
壊れた扉の前に立つ男は、ぴくりとも表情を変えなかった。
「大切なひととき、だと?」
声は低く、荒く、乾いていた。
「女に無理やり手を出そうとして、それを“大切なひととき”と呼ぶのか。哀れなやつだ」
貴族の男の顔が怒りで歪む。
「黙れ……! 誰が貴様に口を挟む許可を与えた!? 貴様はクビだ! 明日からその馬鹿面を俺の前に見せるな! この不可触民のクズが! お前みたいなやつは溝の中を這っているのがお似合いなんだよ! せっかく俺が御者として雇ってやって、少しはましな人生を与えてやったというのに、このクズが!」
怒鳴り声は大きかった。
だが、その奥に混じっていたのは怒りだけではない。
弱さだった。
目の前の男は、それを一瞬で嗅ぎ取っていた。
「不可触民、と言ったな」
御者はなおも真顔のまま言った。
「お前が今から犯そうとしていたその娘も、不可触民だ。なら、どうして触れたがる?」
短い沈黙。
「言うのは一度だけだ。その娘を……放せ」
貴族の男は鼻で笑った。
「犯す、だと? くだらんことを言うな。そいつは娼婦だ。俺は金を払って、その奉仕を受けるだけだ!」
その声はなおも耳障りだった。
「不可触だの何だのに関しては、俺はこいつに昼も夜も触れてやるさ。それが貴様に何の関係がある? この醜い世界の中で、こいつは本物の美だ。俺はずいぶん気に入ってきたところなんだよ」
喉の奥で濁った笑い声が鳴る。
その貴族は、今度はソヤラの父へ視線を向けた。
「おい、クズッ!!」
「は、はっ……! はい!」
父は、主人に呼ばれた召使いのように背を丸めた。
「お前は言ったな。お前の娘は処女で、今まで一度も男に触れられたことがないと」
今度の問いには怒鳴り声がなかった。
静かで、真面目な声だった。
だからこそ、父は余計に怯えた。
「は、はい……! 間違いありません……!」
口の中の唾を飲み込みながら答える。
貴族の男は、ゆっくりと言った。
「俺は、約束した額の十倍を払おう」
そこでわざと間を置く。
「――お前の……娘の……値段として……」
父は一瞬、言葉の意味を理解できなかった。
だが理解した途端、その顔に浮かんだのは、醜く裂けた笑みだった。
「ハハハハハハハハッ!!」
こんな大金、生まれて初めて見たのだろう。
今ここで逃せば、もう二度と手に入らない。
そういう笑い方だった。
「いいでしょう!! 話は成立です!! ハハハハハハハハッ!!」
貴族の男も笑った。
「ハハハハハハハハッ!!」
二人の笑い声が重なる。
それは、少女を救おうとしている男を嘲笑い、そしてその男にほんの一瞬だけ何かを感じかけた少女をも嘲笑うような笑いだった。
ソヤラは、その男を見た。
それは彼女にとって初めての感覚だった。
助けてもらえるという希望ではない。
そんなものを、彼女は一度も持ったことがない。
けれどこれは、誰かが自分のために立ち上がってくれた、初めての経験だった。
誰かが自分のために声を上げてくれた、初めての経験だった。
それだけで、胸の奥に小さな揺らぎが生まれる。
もしかしたら。
どこかには。
自分の痛みを見ようとしてくれる誰かがいるのかもしれない。
「……ねえ」
ソヤラは震える声で言った。
「私のことは気にしないで。あなたはまだ逃げられる。私はもう、生きる希望なんてないの。全部が終わったら、自分で死ぬつもりだった。生きることなんて、ずっと前に諦めたから……」
涙が頬を伝う。
「でも、あなたはまだ生きられる。だから行って。行って、自分の人生を生きて。私みたいな人間のために、あなたの命を捨てないで……」
表情を見ればわかった。
彼女は本気でそう思っている。
自分が救われるなどと、これっぽっちも信じていないのだ。
だが御者は、彼女を見もしなかった。
その願いごと無視するように、貴族の男だけを見ている。
「逃げる、だと?」
貴族の男が嗤う。
「ここは動物園か? この獣が逃げ出せるとでも思ったか? ここは宮殿だ。誰も勝手に入れないし、俺の許可なく誰ひとり外へも出られん。しかもこの宮殿には何百もの兵がいる。逃げ場などない。お前たちは……全員……――」
そこまでだった。
貴族の男が、まだ最後の言葉を言い終える前。
本当に、その途中だった。
さっきまで、御者は扉の近くに立っていた。
貴族の男も、父も、ソヤラも、たしかにそこに彼を見ていた。
三人が一度、まばたきをする。
次の瞬間。
御者はもう、そこにいなかった。
ほんの一瞬前まで扉のそばにいたはずなのに、まるで瞬きをひとつするあいだに、彼は貴族の男の背後へ回っていた。
あまりにも速すぎた。
誰ひとり、その動きを見ることができなかった。
「死――」
その一文字を残したまま、
貴族の男の首が、床に落ちた。
胴体が遅れて崩れる。
血が噴き、部屋の空気に熱い臭いが広がった。
御者は静かに言った。
「一度しか言わないと言ったはずだ」
それから、少しだけ刀を傾ける。
「それともう一つ。お前の兵は、全員死んだ」
刀が鞘に収まる。
父もソヤラも、何が起きたのかわからなかった。
どうして、あそこからあそこへ一瞬で移れたのか。
どうして、あれほど速く人を殺せたのか。
――この男は、人間なのか。
それとも、怪物なのか。
御者の視線が、今度は父へ向く。
父は怯えた。
咄嗟にソヤラの背後へ隠れるように下がる。
「ち、近づくな、この化け物! お前、自分が何をしたかわかっているのか!? あの方はこの地の総督だったんだぞ! お前の首には賞金がかかる! 追われて、必ず殺される! 自分が何をしたのか、本当にわかっているのか!?」
「そんなこと、どうでもいい」
御者は答えた。
「いや……考える時間すら、まだないと言ったほうが正しいか。なにせ――お前がまだ生きているからな、このクズが」
父の顔色が変わる。
「ま、待て、待て……! ならこいつに聞け!」
父はソヤラの腕を乱暴に掴み、顔を引き寄せるようにして叫んだ。
「俺が一度でもお前をひどく扱ったことがあるか!? 一度でも殴ったか!? お前が嫌がることを無理やりさせたことがあるか!? 一度でも愛さなかったことがあるか!?」
恐怖で声が裏返っていた。
ここで最後に言いくるめられなければ、自分が死ぬ。
それがわかっている声だった。
ソヤラはその問いを聞いた。
そして、思い出す。
ひどく扱われたこと。
殴られたこと。
無理やり、何度も何かをさせられたこと。
愛されたことなど、一度もなかったこと。
殺されかけたこと。
売られたこと。
その全部を。
「でも……それ、全部お父さんが私にしたことじゃない」
その一言で、父は止まった。
言葉が消える。
目の色が変わる。
もうわかったのだ。
御者が自分を殺すことを。
何をしても、もう無駄だということを。
御者が一歩、近づく。
父は悲鳴を上げ、反射的にソヤラを盾のように抱え込んだ。
「た、助けてくれ!! 誰か!! 誰か助けてくれ!!」
御者が、さらにもう一歩近づく。
「や、やめろ! 殺さないでくれ! 俺は何も悪いことなんてしていない! 全部この娘が悪いんだ! こいつが生まれてさえこなければ、こんなことにはならなかった! 生まれた瞬間に母親を殺し、役立たずで、働きもせず、俺の金ばかり食い潰した! このアマを食わせるために、どれだけ金がかかったと思ってる! ソヤラ! こいつに言え、俺を助けろと! お前は最初に母親を殺して、今度は俺まで殺すつもりか!?」
ソヤラは、静かに泣いていた。
父は、彼女が泣くだけで何も言わないことに苛立ち、怒鳴る。
「何か言えよ……! 俺は……お前なんか……生まれてこなければよかったと……」
首が落ちた。
その瞬間、御者はソヤラと父の背後にいた。
父の血が、ソヤラの身体を赤く染める。
「お前の父親は、喋りすぎだ」
無表情のまま。
真剣なまま。
御者は刀を鞘へ戻した。
ソヤラは、死んだ父を見た。
その死体を見つめる。
――今の父は、とても無害に見えた。
彼女は泣くのをやめた。
自分がいま嬉しいのか、悲しいのか、それすらわからない。
ただひとつわかるのは、生まれたときから続いていた地獄が、ようやく終わったということだった。
ようやく。
本当にようやく。
彼女は自由になったのだ。
ソヤラは立ち上がる。
そして、自分を救ったその男を見る。
大きい。
とても大きな男だった。
男は彼女に尋ねた。
「人が殺されるのを見るのは、初めてか?」
純粋に不思議そうな声だった。
目の前で二人も殺されたのに、彼女はほとんど顔色を変えなかったからだ。
「うん」
ソヤラは答える。
「見るのは、これが初めて」
その返答に、男はほんの少しだけ目を細めた。
目の前で人が殺されるのを見て、ここまで平静でいられる者は少ない。
彼は、彼女を強い女だと思った。
ソヤラは彼に訊く。
「あなたの名前は?」
男は短く答えた。
「バジ」




