第五話 死の淵の祝福
マーズとソヤラは、互いを見つめ合っていた。
誰も何も言わない。
ただ見つめ合う。
まばたきすら忘れてしまったみたいに。
そのとき、不意にソヤラの目からひとしずく落ちた。
――泣いているのか。
いや、泣けるはずがなかった。
息子の前で泣くわけにはいかない。
彼の前で、自分が弱く見えるのだけは嫌だった。
ソヤラは立ち上がる。
そして、まっすぐマーズを見て言った。
「この世界は、とても残酷よ。生き残るためには、戦わなきゃいけない。何も、ただでは手に入らない。欲しいなら、戦って勝ち取るしかないの」
その声は静かだった。
けれど、その静けさの奥には、何十年分もの傷が沈んでいた。
「マーズ……あなたはまだ気づいていない。もう、あなたも戦士なの。私たちみんながそう。生きるために。生き延びるために。そのためには、毎日、何度でも戦わなきゃいけない」
ソヤラはそこで一度だけ息を止めた。
「生きる権利を手に入れるためには――戦士でいなきゃいけないの」
* * *
そのころ、バジは市場にいた。
土埃の舞う通りを、仕事場へ向かって歩いている。
その背を、少し離れたところから四人の男たちが見ていた。
誰ひとり言葉は交わさない。
ただ視線だけを交わし、静かに頷く。
――ついに、その時が来た。
そう言っているような顔だった。
次の瞬間。
四人の姿は、まばたきひとつのあいだに消えていた。
あいつらは誰だったのか。
目的は何だったのか。
まだ誰にもわからない。
* * *
再び、家の中。
マーズは立ち上がると、ソヤラに抱きついた。
強く。
きつく。
逃がすまいとするみたいに。
「母さん……ごめん」
声が震えていた。
「今まで心配ばっかりかけてごめん。何度も怒らせてごめん。何度も悲しませてごめん。そんなつもりじゃなかった。本当に、そんなつもりじゃなかったんだ」
抱きしめる腕に、さらに力がこもる。
「ただ、言いたかったんだ。母さんが好きだって。すごく、大好きだって」
マーズは唇を噛む。
涙がこぼれそうになる。
「母さんがこんなに苦しいものを背負ってきたなんて知らなかった。全然知らなかった……。俺には何もできない。母さんを助けることもできない。でも、ありがとう。俺に命をくれて、こんなに愛してくれて、本当にありがとう」
そこで、とうとう声が崩れた。
「ありがとう……ありがとう……」
涙があふれる。
「ありがとう……」
泣き声は、どんどん大きく、どんどん速くなっていく。
「ありがとう……」
その涙につられるように、ソヤラの目からもまた雫が落ちた。
「ありがとう……」
その瞬間だった。
部屋の隅から、男の声が響く。
「ハハ……まるで綺麗事の物語にでも出てきそうな理想の家族だな」
マーズとソヤラの身体が凍る。
「愛し合う母親と、その息子が泣きながら抱き合う。なあ、ジョダン。どう思う?」
もうひとりの男が、ナイフを舐めながら答えた。
「ああ。だが残念だ。そんな物語は、ここでは誰にも語られない。こいつらは今、この瞬間に死ぬんだからな……」
マーズが振り向く。
怒りと恐怖が、同時に顔へ浮かんだ。
「お前ら誰だ、このクズども。どうやって入ってきた?」
問いには本気の怒りがこもっていた。
同時に、本気で知りたくもあった。
男のひとり――ヴァンが、目を細める。
「このガキが。礼儀ってもんを教えてやろうか?」
その目つきは鋭く、マーズの言葉に露骨に苛立っていた。
「黙りなさい、マーズ……」
ソヤラの声が、部屋を切り裂いた。
一瞬で静かになる。
「隣の部屋へ行って、祝福を手にしておきなさい」
無表情だった。
だが、その声は異様なほど真剣だった。
マーズの目が、ほんのわずかに揺れる。
「嫌だ。俺は行かな――」
「言う通りにしなさい!」
マーズは息を呑んだ。
こんな母を見たことがなかった。
こんなにも真剣で、こんなにも切羽詰まった母を見るのは、初めてだった。
ソヤラはマーズへ顔を向けた。
「言う通りにして。約束するから……私たちは大丈夫。きっと、なんとかなるから」
笑ってみせた。
けれどその笑みは、確信のあるものではなかった。
不安を隠しきれない、震えるような笑みだった。
ヴァンがにやりと笑う。
「ガキ、お前の色っぽい母親の言うことを聞けよ。そうすれば、少しは長く生きられるかもしれないぜ」
ジョダンも笑った。
「少しって? 一分か? 二分か? ハハハハハハ!」
ヴァンも同時に笑い出す。
「ハハハハハ!」
その下品な笑い声の中、マーズは怒りと恐怖に押されるように隣の部屋へ走った。
ヴァンはソヤラを見下ろし、舐めるように胸元から腰へ視線を這わせる。
「ガキの相手はあとでしてやる。まずはお前を終わらせてからな」
ソヤラは、そんな男たちを見ても怯えた顔をしなかった。
「ねえ……天国、行ってみたい?」
そう言って、彼女はわずかに脚を開いた。
ヴァンとジョダンの目が同時に輝いた。
口が開き、今にもよだれが垂れそうになる。
「行きたい……」
「行きたい……」
ソヤラの口元に、冷たい笑みが浮かぶ。
「なら――あの人が送ってくれるわ」
その瞬間。
ヴァンとジョダンの背後の壁が砕け散った。
轟音。
土煙。
崩れた壁の向こうに、巨大な影が立っている。
部屋の中は土埃で白く濁っていた。
その影は、まるで巨大な怪物が部屋に侵入してきたように見えた。
ヴァンとジョダンが振り向く。
驚きはした。
だが、怖がってはいない。
なんだ、この男は。
この怪物じみた気配は。
こいつは誰だ――?
答えを考えるより先に、影が動いた。
一発の拳がヴァンへ。
もう一発の拳がジョダンへ。
二人はほぼ同時に腕で受け、床を滑るように後ろへ下がる。
ヴァンが口元を歪める。
「背後から襲うなんて、戦士らしくないな……バジ」
挑発だった。
だがバジは小さく笑っただけだった。
「はは。そういうくだらねえ理屈、俺は信じてねえんでな」
皮肉っぽい笑み。
余裕すらあった。
ヴァンは肩を回し、首を鳴らす。
「てっきり町へ行ったと思っていたが……ここにいるなら、計画を変えるしかないな」
その動きひとつまで、どこか気取っていて腹立たしい。
バジも首と腕を軽くほぐした。
「ああ……予定変更ってのは嫌いじゃない」
次の瞬間、ジョダンのナイフが空気を裂いた。
一直線に飛んでくる刃。
バジは片手でその軌道を払うように逸らす。
その隙を、ヴァンは見逃さなかった。
一気に間合いを詰める。
拳がバジの腹へめり込み、続けざまに顔面へ蹴りが飛ぶ。
重い一撃。
だがバジは、その脚を離さなかった。
蹴り足を掴んだまま、同じ脚へ二度、重い打撃を叩き込む。
鈍い音がした。
ヴァンの脚が、明らかに外れた。
そのあいだに、弾かれたはずのナイフが空中で弧を描き、まるで生き物のようにジョダンの手元へ戻る。
ジョダンはそれを掴み直し、迷いなくもう一度バジへ投げた。
バジはその気配に気づく。
ヴァンの脚を放し、身体を捻ってナイフを回避した。
ヴァンが一歩下がり、外れた脚を見下ろして舌打ちする。
「このクソ野郎……! 俺の脚を外しやがったな」
そう言いながら、自分の脚を掴み、力任せに元の位置へはめ直した。
骨が戻る鈍い音。
「いや……“外していた”と言うべきか?」
脚はもう、何事もなかったように元通りだった。
バジは視野を広げ、二人を同時に捉える。
次の瞬間、一気に踏み込んだ。
拳がヴァンの顔面へ突き刺さる。
ヴァンはその一撃を真正面から受けた。
だが、受けながら同じ動きの中で拳を返す。
倍の速さ。
倍の重さ。
バジの顔面へ、同じ一撃が叩き込まれた。
ヴァンが口元に笑みを浮かべる。
「どうだ? お前の力と動きを、そのままお前へ返される気分は」
バジの視界が白く弾けた。
頭の芯が揺れ、このまま地面へ倒れ込んでもおかしくないような一撃だった。
だが、次の瞬間――
「アアアアアアアアアアアッ!!」
怒号とともに、バジは意識を引き戻した。
そのまま右脚をヴァンの両脚の上から絡めるように乗せ、逃げられないように押さえつける。
体勢を崩されたヴァンが舌打ちするより早く、バジの拳が振り下ろされた。
一発。
二発。
三発。
四発。
五発。
六発。
まるで砂袋でも殴るみたいに。
いや、それよりもずっと乱暴に。
顔の形が潰れようが、骨が砕けようが構わないと言わんばかりに、容赦なく叩き込み続ける。
ヴァンの頭が床に打ちつけられ、鈍い音が何度も響いた。
血が散る。
歯が飛ぶ。
それでもバジは止まらない。
その背後へ、ジョダンが凄まじい速さで回り込んだ。
刃が閃く。
一度。
二度。
三度。
四度。
五度。
バジの背中を、何度も何度も荒々しく斬り裂いていく。
衣服が裂け、肉が開き、そのたびに鮮血が激しく噴き出した。
それでもバジは、すぐには止まらなかった。
背中を斬られながらもなお、ヴァンの顔面へ拳を叩き込み続ける。
執念だった。
怒りだった。
殺意そのものだった。
数発、さらに殴りつけてから、ようやくバジは振り向く。
その勢いのまま、ジョダンの身体を掴んだ。
そして、そのまま地面へ叩きつける。
床が揺れた。
ヴァンもジョダンも地面へ転がる。
バジは立っている。
だが息は荒かった。
口を開き、獣のように大きく呼吸している。
今にも半分死にかけているように見えた。
少し離れた台所のあたりから、その戦いを見ていたソヤラの身体が震える。
怖かった。
助けが来たのに、なお怖かった。
* * *
そのころマーズは、隣の部屋へ飛び込んでいた。
だが、そこに逃げ場はなかった。
一人の男が寝台の上に寝そべっている。
もう一人は、その横に立っていた。
まるで、マーズがここへ逃げ込んでくるのを最初から知っていたみたいに。
まるで、ここで待ち伏せしていたみたいに。
寝台にいた男が上体を起こし、軽く手を振る。
「Hola, ¿cómo estás? 俺はアロンソ」
横に立っていた男が、即座に怒鳴った。
「違うだろうがッ!!」
ものすごい勢いだった。
本気で苛立っている。
「お前はアロンソじゃない! その異国の商人から聞きかじった言葉をいちいち使うな! 恥ずかしいんだよ!」
寝台の男は、あからさまに不満そうに頬を膨らませた。
「えー。空気読めないやつだな、お前……」
それから肩をすくめる。
「わかったよ。俺はイルコ。よろしくな、ちびっこ」
マーズは二人を見た。
驚きと恐怖で、喉が乾く。
「お前たち、誰なんだ……俺たちに何の用がある?」
立っていた男――ビヌが、真顔で答えた。
「お前たちに何が欲しいか、だと?」
鼻で笑う。
「はっ。お前たちみたいな貧乏人が、俺たちに差し出せるものなんて何もない。俺たちは暗殺者だ。お前たちの死を望む誰かに雇われただけだ」
その言い方に、感情はほとんどなかった。
ただ、事実だけを告げている。
「お前たちがそいつらに何をしたのかは知らない。だがヴァンがこの仕事を引き受けた以上、俺たちは最後までやる」
ビヌは剣を抜いた。
「安心しろ、ガキ。お前が悪いわけじゃない。この世界が呪われてるんだ」
刃先が、まっすぐマーズの首を指す。
「だから――せめて、お前には速い死をやる」
ビヌが一気に踏み込んだ。
速い。
狙いは首だった。
一息で、綺麗に切り落とすつもりなのがわかった。
マーズは、自分が死ぬのだと思った。
なのに剣は、やけにゆっくり見えた。
首元へ近づいてくる刃。
そのあいだに、これまでの人生が断片のように脳裏をよぎる。
剣が近づく。
あと少しで届く。
あと少しで、すべてが終わる。
その瞬間。
景色が変わった。
気づけばマーズは、何もない場所に立っていた。
見渡す限り、白。
地面もない。
空のようでもある。
だが、空ですらない。
何もかもが、白だけで満たされていた。
その白の中に、小さな子どもがいた。
マーズより、さらに幼い。
まだ這うことしかできないような赤子だった。
四つん這いに似た姿勢で、じっとマーズを見ている。
全身から、ひどく穏やかな気配が溢れていた。
優しい。
温かい。
それなのに、人間ではないと、ひと目でわかった。
マーズはその子のところへ歩いていく。
そして、まるで兄が弟を抱き上げるみたいに、そっとその赤子を抱き上げた。
そのまま歩き出す。
どこへ向かっているのか、自分でもわからない。
ただ、まっすぐ前へ進んでいく。
マーズは腕の中の赤子を見下ろした。
青い肌。
黒い髪。
黄金の瞳。
人ではない。
それだけは、はっきりとしていた。
マーズは無表情のまま訊く。
奇妙なほど静かな顔だった。
「お前は……誰なんだ?」
赤子は、ほんの少しだけ瞬きをした。
そして答える。
「……神」




