「森の中で生きるということです」
リリルアは瞬時に走って行って「死の花」にナイフを突き立てる。緑色の液体が飛沫をあげて吹き出し、リリルアを覆った。
花弁の形をしている脳天から顎の先まですんなりと刃物は刃を通す。苦しみに悶え暴れ始めた死の花だったが、リリルアは押さえ込むようにしてナイフを地にまで突き立てた。プニプニとした感触にきちんと流れ出る温かい血液。やがて死の花の幼体は動かなくなった。
リリルアにとって初めてまともに自前のナイフを使った機会である。徐々にだが、リリルアは自ら動き「戦う」ということの意味を理解し始めていた。
もがき、地に落ち、あられもない断末魔の奇声をあげて附す。じわりじわりと流れ出る緑色の液体が自分の手に触れる。ゆっくりと… 動かなくなる…
死だ。
これが森に厄介をもたらすものであり、人の作り出した兵器の一つだと知っていてもリリルアの心に焼きつくものがある。死の花という人造生物で森に迷い込んだものでも確かに生きたいと願っていた。
それが引導を渡したリリルアには、はっきりと理解できる。にわかに兵器だとは信じられない感触が手に残っていて、人間はとんでもないものを作っているのだと思った。
死の花… それは植物の姿をしており一度野に放たれれば自然の完全破壊を導く。自然の中に必ず存在する捕食者や寄生者の特性を感知、自動で身につけ暴れる。言うなれば生態系の頂点にいるものの力を増幅させる機械のようなものだ。
これがよく森には効く。
大概捕食者と捕食されるもののバランスや役割は保たれているものであるから、捕食者の力が急激に増幅されれば森は滅びてしまうというものだ。森は人の力が少しでも加われば滅亡の一途を辿る、至極繊細なバランスの上に成り立っているのだから。
この奇形の森に適応した死の花は、キノコの胞子を撒き散らすことによって健全な樹木の生育を妨げ、邪魔な木の子たちを捕食することを選んだわけだ。
単純な話、「死の花」とはただただ森を滅ぼすため作られた生物。
自分たちの領土拡張のため、はるか昔に資源確保のため厄介なエルフの民を滅ぼそうと考案されたのだろう。人間にとってそれに労働力を要さず、兵器のみで達成できるとすれば万々歳。
エルフの民を滅ぼし役目を終えた死の花が残骸となってここに残っていた、そして人間の必ず持つ陰の気を敏感に察知してまた稼働し始めたのだ。
リリルアはしなければならないと思って、息絶えた死の花に向かって祈りを捧げる。脅威とはいえ「作られた」この子に何の罪があろうか。
一体この子がどこへ帰るべきなのか、暗い暗い闇の深淵を見つめるようで悲しくなってくる。
人間の憎しみや悲しみは愛によっても消えない。それではどこへ帰るべき感情なのか?まだ今のリリルアに答えの出せない問題だ。
祈りを捧げた後、周りの木の子たちが怯えきっているのが分かった。
『死の花が迷い込んだ以上、俺もお前もこの森には歓迎されない。俺もすぐに後を追う、お前はすぐに立ち去れ。』
自分の体から明らかな異臭がしている。人間の糧となっている憎しみの情、それが一身に込められた緑色の血液の匂いだ。
ただ、リリルアはこれを嫌いだと言ってしまうのが億劫だと思う。
「うん… すぐに母体を探し出してこの森を救ってみせるから。」
無言のまま木の子たちの王国を立ち去るリリルアの背には悲しい歌が流れている。リリルアの着ていた服には血液の、緑色の斑点模様がついている。
彼女は死んだ死の花の幼体を小脇に抱え足早に木の子の王国を立ち去っていく。
元いた湖に戻りその水中へ死体を投げ込む。先に見た大きな影の古代魚が飛び跳ねてそれを咥え、また潜って行く。それは巨大化したピラニアのような姿だった。
ブリリアントが見つからない…
森に生きる魔物たちが騒いでいる。
動物よりも大きな知性を持つ生き物だが、この異常事態に戸惑っている。今は本能に従い、自分たちの食料となる「陰の気」を生み出す死の花の母体を守るようダンジョンを形成しているようだ。
母体が生き長らえば魔物たちは食糧に事欠かないだろう。大きな晩餐会でも催すようだ、この状況は魔物たちの本能的欲望に火をつけた。
例えば水とパンだけで生活できるとしても、もっと美味しいものが提示されれば美味しいものを保護しようとするであろう人間と行動を同じくする。
木の子の王国を抜け出すとそこはまた異世界のようであった。光は地に届かず、リリルアも眠気に襲われているというのに妙な活気がある。
緑色に輝く異質な胞子の群れとキノコのものより強い悪しき魔力の匂い。
光が差せば影が伸びていくように、魔物たちの存在はどうしてか森にとって必然だったのかもしれない。
リリルアはゆっくりとナイフを構えながら、森の奥へと進んで行く。魔物たちにはリリルアが死の花の母体を倒そうとしていることが分かったらしく襲いかかってくる。
一つ目に羽の生えた魔物。全ての生殖活動を介し生殖するという子鬼の魔物。魔法を使うものもあるのだが、ここにいるものはそこまで用意周到でなく直接攻撃をしてくれたのでリリルアにも退けることができた。
その中気付いたのは魔物に血液がなく、死ねば煙となって大気に帰るということだ。人間の作り出した魔力という力の産物だったのかもしれない。
やがて、際立った風貌の魔物に出会う。それは食肉植物が二足歩行をしているような姿で、ハエトリ草に似ている。
森の魔物の代表格だろう。それは人語を解した。
『お前、なぜここにいる。お前、人間。ここにいるべきじゃない。』
「いま森には闇の根が根付いています、それを絶やさなければお前も死んでしまうよ。」
『それは違う、お前の言うのは大きな花のことだろう。あれは死と憎しみを生むから俺たち、嬉しい。お腹いっぱいなれる。消えるのはお前の方だ! 立ち去レ!』
「その大きな花は森を滅ぼすため生まれたものです。お前がそれを保護するというのなら、木の子たちは生き絶えやがてお前も滅びてしまう。欲望に身を任せてはならない、それはお前のことまで蝕んでいってしまうから。」
『ウルサイウルサイ! 人間の分際で変なことを言うナ! 俺たちは今幸せダ!」
ハエトリ草の魔物はリリルアに向かって長い蔦を伸ばす。捕らえようとする。
この蔦に捕まってしまえば最期、粘液を絡めつけられ捕食されてしまうだろう。リリルアはきっちり伸ばされた蔦を全て切り落とした。
植物に痛みはないのだろうか、と思っていたが相手は魔物。切り落としたところからは散り散りになった粘液が飛び散りハエトリ草の魔物は鈍い悲鳴をあげた。
『イタイ… イタイ… ママ! ママ!』
人間のリリルアに魔物の表情は読み取ることができない。ただ声だけを聞く。
ーーエルフの一族は自分が殺されそうという状況になっても、相手を殺すことを良しとしない。
その言葉がリリルアの脳裏をよぎったが今は死の花の母体へとたどり着き、その息の根を止めるべきだ。悲痛な叫びをなんとか振り払おうとする。
ーー森の中では食うも食われるもないんだよ。
それが彼女に勇気を与える、次々と伸ばされる無数の蔦を処理しつつ、懐へと飛び込む。後ろへ走り、体を回して遠心力の勢いに乗せ脳天にナイフを突き立てた。
また体重を乗せて魔物の体を倒し地に伏せる。木の子の国で死の花が生き絶えたように、ハエトリ草の魔物も生き絶えた。しかし、他の魔物のように大気へ帰らない。
生物の頂点に立つものには悲しい運命が待っている。他のものが得るような安らぎを簡単に得ることができない。
リリルアにも薄々分かっていたことだが、これで実感する。
リリルアに唯一できるねぎらいの言葉。
「お前は魔物じゃなくて生き物だね… 森のお母さんのところへ帰るんだよ。」
リリルアが寂しい目をする。
すぐに魔物は苗床となり、キノコの胞子に飲まれていった。ここからまた立派なキノコが芽吹くだろう。それは森の力となる。
悲しい跡を心の内に残しつつハエトリ草の魔物を後にしてしばらく歩くと、巨大な花が蕾の先からしきりに呼吸をしている。
それは一つの城ほどに大きい。
見つけた、これが死の花の母体だ。