第18話 ひとつ進む
午後。
リュミエール・インダストリーズの役員会議室には、柔らかな陽射しが差し込んでいた。大きな窓の向こうには、灰色の建物と古びた道路が続くムゴッサの街が広がっている。
長い会議机の一番奥。
セイジは、静かに窓の外を見ていた。
淡い水色を基調にした王子服。銀糸の刺繍が陽の光を拾い、肩や袖口で細かくきらめいている。
まだ二十歳。
白い肌。長い睫毛。まっすぐ通った鼻筋。薄い唇。
少年らしい繊細さを残したその顔は、光の中ではひどく儚く見えた。
少し伏せた瞳には、消えてしまいそうな危うさがある。
けれど。
目だけは強かった。
以前より。
ほんの少しだけ。
深くなっていた。
ロイヤル・フラグメントの七人。
ミレーヌ。
バルド。
会社の役員たち。
全員が席についている。
セイジは煙草を灰皿へ置いた。
「これからの会社の方針を話すから、聞いてくれ」
普段より少し低い声だった。
エリオットたちも、ふざけずにセイジを見る。
「まず、孤児院はせん」
会議室が静かになった。
ノエルが少し目を見開く。
「やめるの?」
「あぁ」
セイジは迷わず頷いた。
「ここの子供は外に住むからや。雨降ったら凌げるとこ、自分で見つけて行きよる。飯欲しかったら取りに行く。寝るとこ欲しかったら勝手に探す」
レオンが腕を組んだ。
「連れて帰っても逃げるしな」
「そういうことや」
セイジは煙草を指先で転がす。
「こっちが『ここに住め』言うて建物作っても、アイツらが住みたい思わんかったら意味ない」
誰も反論しなかった。
実際に。
何度も逃げられている。
「ほんで学校」
セイジが続ける。
「これも作らん」
今度はセシルが口を開いた。
「学校も?」
「あぁ」
「でも読み書きできた方がいいだろ」
「ええに決まっとる」
「じゃあ何で?」
セイジは少しだけ眉を寄せた。
「アイツら、学校行く時間あったらスリしたり、運び屋やったりしよるやろ」
会議室が静かになる。
「勉強して何年後かに金になる言われても、今日の飯欲しい奴には響かへん」
エミールが静かに頷く。
「生活の優先順位が違う」
「そうや」
セイジは短く答えた。
「正しいもん置いたら、みんな勝手にそこへ集まる思っとったらアホや」
窓から差し込む光が、セイジの横顔を照らした。
その顔は。
やはり。
異様なほど綺麗だった。
髪は光を受けて淡く透け、長い睫毛の影が頬へ落ちる。
ただ。
今までのような、触れれば壊れそうな美しさだけではなかった。
何かを知って。
何かを諦めて。
その上で。
次を選ぼうとしている男の顔だった。
「これまでは」
セイジがゆっくり言う。
「考えて、動いて、人集めて、仕組み作ったら、どうにかなることもあった」
少しだけ間を置く。
「でも、ここは違う」
ミレーヌがセイジを見る。
「助けようとしても、助けられたいとは限らない」
「あぁ」
「こちらの正解が、向こうの正解とは限らない」
「あぁ」
セイジは小さく息を吐いた。
「やから、慈善事業にする」
エリオットが顔を上げる。
「会社で?」
「あぁ」
「俺らが何でも直接やるんやない」
セイジの声は落ち着いていた。
「飯配っとる奴がおるなら、そこに金出す。子供助けとる団体がおるなら支援する。医療やっとる奴がおるなら設備に投資する」
「現地でずっとやっとる奴に、続けられる金と信用を渡す」
ルシアンが小さく頷いた。
「その方が届くかもしれない」
「そう思う」
ミレーヌも微笑んだ。
「良い判断だと思います」
バルドも静かに頭を下げる。
「直接抱え込まれるより、継続性も高いかと」
「そういうことや」
セイジは椅子にもたれた。
「俺らが全部やろうとせんでええ」
その言葉を口にした自分自身に。
ほんの少しだけ。
驚いた。
以前なら。
もう少し。
自分で何とかしようとしたかもしれない。
けれど。
今は違う。
できないものは。
できない。
通じないやり方は。
捨てる。
諦めることと。
見捨てることは。
違う。
セイジは。
それを少しずつ覚え始めていた。
「昼はそれでいく」
セイジが言う。
「会社としては、慈善団体、医療、食料支援、子供の保護をやっとるとこを探す。信用できるか全部調べる」
ミレーヌがすぐにノートを開いた。
「一覧を作ります」
「頼む」
エミールも続ける。
「会計と支出の透明性も確認する」
「あぁ」
エリオットが言った。
「俺たちも現地の団体見て回るか」
「それはやる」
セイジが頷く。
「金だけ放って終わりにはせん」
その横顔に。
また光が差した。
白く。
眩しく。
それでも。
もう。
ただ綺麗な王子には見えなかった。
*
その日の夕方。
セイジたちはムゴッサ警察署へ向かった。
ジムはいつもの机で書類を見ていた。
その横。
バリーは。
酒を飲んでいた。
「また飲んどんか」
「夕方だからいいの〜」
「勤務中やろが」
「細かいねぇ〜」
ジムが顔を上げる。
「どうした」
セイジは椅子を引くと、どさっと座った。
「報告」
「何の」
「孤児院と学校」
バリーが少しだけ眉を上げる。
「あら〜」
セイジは煙草に火をつけた。
「やめる」
ジム。
「そうか」
バリー。
「早かったねぇ〜」
「うるさいわ」
ジムが椅子にもたれる。
「理由は」
「孤児院作っても住まへん。学校作っても来ぇへん」
「……」
「アイツら、自分らで生きる方法もう持っとる。良い悪いは別としてな」
ジムは黙って聞いている。
「学校行くよりスリする。運び屋する。ギャングの手伝いする。その方が今日金になる」
セイジが煙を吐く。
「せやから、建物置くだけじゃ何も変わらん」
ジムの表情が少しだけ緩んだ。
「その通りだ」
セイジ。
「やっぱりな」
ジムは煙草を咥えた。
「学校なんか、この国じゃ金持ちしか行かない」
ロイフラが黙る。
「毎日学校へ行けるのは、今日の飯を心配しなくていい家の子供だ」
セイジが目を細める。
「……」
「給食代も払えない奴の方が多い」
ジムは淡々と続けた。
「教科書も買えない。家に帰っても飯がない」
「だから子供も、当たり前に盗むことを覚える」
誰も笑わなかった。
バリーが酒瓶を持ったまま、のんびり口を開く。
「夢みたい気持ちも分かるよぅ〜」
セイジが横を見る。
「何がや」
「子供が学校行って〜、勉強して〜、友達作って〜、大きくなって〜」
バリーは少し笑った。
「でもねぇ、ここでは勉強はいらないのよ」
会話が止まる。
「文字読めなくても運び屋できるし〜、計算できなくても盗めるし〜、学校行かなくてもギャングには入れるし〜」
いつもの調子だった。
けれど。
言っていることだけは。
笑えなかった。
「今日食えれば、それでいいって子供の方が多いからねぇ〜」
セイジは、しばらく何も言わなかった。
ジムが続ける。
「子供だけの問題じゃない」
「大人もそうだ」
「犯罪で食える街なら、犯罪はなくならない」
「……あぁ」
「学校を作る前に、学校へ行く意味がある街にしなきゃならない」
セイジは。
しばらく黙って二人を見た。
ジムは、この街の現実を綺麗な言葉に変えない。
無理なものは無理だと言う。
足りないものは足りないと言う。
それでも。
投げない。
バリーは。
酒を飲んでいる。
言い方も軽い。
ふざけてもいる。
けれど。
見ているものは。
ジムと同じだった。
夢みたいな話を笑いながら。
その下にある現実からは。
一度も目を逸らしていない。
二人とも。
この街を上から見ていない。
地下から。
ずっと。
人が盗むところも。
子供が薬を運ぶところも。
飯を食えないところも。
腐った仕組みも。
全部見た上で。
それでも。
今日、何ができるか。
誰を助けられるか。
何を止められるか。
毎日。
考えて。
動いている。
セイジには。
それが分かった。
だから。
信用できた。
「……その通りやったわ」
ジムが顔を上げる。
「何がだ」
セイジは二人を見る。
「おっちゃん等が、この国で一番マトモやと思う」
バリーが目を丸くする。
「え〜、おじさん?」
「あぁ」
「酒飲んでるけど?」
「それ差し引いてもや」
「失礼だねぇ〜」
セイジは少し笑った。
「勝手に信用させてもらうわ」
ジムの眉が動く。
「勝手だな」
「あぁ」
バリーが酒を一口飲む。
「裏切ったらどうするの〜」
「知らん」
「知らないの?」
「その時考える」
ジム。
「雑だな」
「信用する時くらい雑でええやろ」
バリーが笑った。
「王子様、変なとこ豪快だねぇ〜」
「やかましい」
セイジは煙草を灰皿へ押しつけた。
「昼は会社で慈善事業に回る。現地でやっとる奴らに金と信用出す」
ジムが頷く。
「それがいい」
「でも」
セイジの目が。
少しだけ変わる。
「それだけじゃ無理やろ」
ジムも。
同じ目になる。
セイジは。
ゆっくり立ち上がった。
ロイヤル・フラグメントも。
一人。
また一人。
立つ。
セイジは窓の外を見る。
夕暮れのムゴッサ。
遠くでは。
また。
どこかから煙が上がっていた。
昼の光は。
もう。
ほとんど消えている。
セイジは小さく息を吐き、扉へ向かった。
その背中を。
最後の夕陽が照らした。
淡い水色の王子服が。
金色の光の中で揺れる。
昼の顔。会社を率いる王子。
そしてこれから、夜の顔へ変わる。
セイジが振り返った。
「行くぞ」
「おう!!!!」




