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『魔力ゼロの武術家 ~異世界を修練空間(トレーニングモード)で攻略する~』  作者: いなる


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第80話 崩し

 ブロンが再び腰を落として構えるのを見ても、ジンはその場から動かなかった。


 左肩にはまだ熱を持ったような痛みが残っており、指先まで薄い痺れが続いている。腕そのものは動くが、先ほどは拳の端が掠めただけで身体ごと吹き飛ばされた。次にまともな一撃を受ければ、もう一度立ち上がれる保証はない。


 力も。


 速さも。


 頑丈さも。


 身体そのものを比べれば、目の前の男の方が遥かに上だった。


 それでもジンは退かなかった。


 ブロンの身体が意図しない方向へ崩れた時、全身を覆う黒い魔装にも僅かな揺らぎが生じる。それが偶然ではないことは、腕を流した時も、蹴りの軸をずらした時も、そして先ほどブロン自身が地面を砕いた時にも確認できた。


 なぜそうなるのかは、まだ分からない。


 だが。


 起きることが分かっているなら、試せる。


「今度は避けるだけじゃ済まさねえぞ」


「うん」


「……」


「分かった」


「何がだ」


 ジンは左肩を一度だけ動かし、痛みが増えないことを確認してからブロンを見る。


「来ていいよ」


「てめぇ……!」


 ブロンが地面を蹴った。


 巨体が一気に間合いを潰す。


 右拳。


 ジンが半歩外れる。


 轟音とともに拳が頬の横を抜けた。


 ブロンは止まらない。


 左。


 ジンが避ける。


 さらに右。


「逃がさねえ!」


 今度のブロンは、ただ拳を振り回しているわけではなかった。ジンが右へ抜けようとすれば先に身体を寄せ、左へ動けばそちらへ足を置き、後退すればその分だけ間合いを詰めてくる。


 短い攻防の中で。


 ブロンもまた、ジンの動きへ対応し始めていた。


 拳。


 避ける。


 蹴り。


 外れる。


 そこへ肘。


 ジンは大きく後退した。


「どうした! さっきまでの余裕はどこ行った!」


 さらにブロンが追う。


 その攻防を見ていた勇者が眉を寄せた。


「……追い詰めてる」


「まあ、向こうも慣れてくるわな」


 アインはそう答えたものの、先ほどまでのような笑いはない。フィナもジンの左肩を気にしながら、二人の動きを目で追っていた。


「ジンさん、大丈夫でしょうか」


「さあな」


「アインさん」


「大丈夫って言ってほしいのか? 俺にも分からん」


 そう答えながらも、アインはジンから視線を外さなかった。


 しばらくして。


 僅かに眉を上げる。


「……でも、あいつ」


「何です?」


「さっきから、同じ方に下がってねえか?」


 フィナが言われた方向へ視線を向ける。


 勇者もそれにつられるようにジンの足元を追った。


 一見すれば、ジンは完全に押されている。


 右を塞がれれば左へ逃げ、そこへ拳が来ればさらに後ろへ下がる。ブロンが一歩進むたびに距離を奪われ、少しずつ逃げ場を削られているようにしか見えない。


 だが。


 何度かその軌跡を追ううちに。


 勇者も気づいた。


「……違う」


「何がです?」


「追い詰められてるんじゃない」


 ブロンが進む。


 ジンが下がる。


 その方向が。


 ずっと同じだ。


「自分から、そこへ行ってる」


 アインの口元が僅かに上がった。


「やっぱそう見えるよな」


 三人の視線の先。


 そこには、先ほどブロン自身が拳を叩き込んだ場所があった。


 地面は大きく抉れ、何本もの亀裂が走っている。砕けた土はところどころで沈み込み、僅かな段差と傾斜を作っていた。


 普通に歩くだけなら、大したことのない荒れ方だ。


 まして。


 ブロンほどの身体能力があれば。


 普段なら気にする必要さえない。


 それでも。


 ジンはそこへ向かっていた。


「逃がさねえ!」


 ブロンがさらに一歩踏み込む。


 右足が亀裂の上へ乗った。


 巨体は揺れない。


 強靭な脚が荒れた地面を踏みつけ、そのまま右拳がジンの顔面へ向かう。


 ジンが外れる。


 すれ違う瞬間。


 左手がブロンの前腕へ触れた。


「またそれか!」


 ブロンは構わず押し切ろうとする。


 すでに何度も見た動きだった。


 腕へ触れ。


 拳の軌道を僅かに流す。


 それだけなら。


 踏ん張ればいい。


 ブロンの右脚へ力が入る。


 その瞬間。


 ズッ。


「――!」


 亀裂の縁が崩れた。


 右足が。


 僅かに沈む。


 ほんの数センチ。


 普段なら、それだけでブロンの巨体が崩れることなどない。


 だが。


 今は。


 右拳へすでに全身の力が乗っていた。


 その拳の向きをジンによって僅かにずらされ、身体を支えるはずだった右足まで想定より低い位置へ落ちる。


 踏ん張る場所がずれた。


 腰が流れる。


 それを戻そうと肩が開き、振り抜いた右腕の重さがさらに上体を引く。


「っ……!」


 ブロンが左足を出す。


 立て直す。


 その動きを。


 ジンは待っていた。


 右拳を外した時にはすでに左手が前腕へ触れており、そのままブロンの力を止めることなく前へ流す。ジン自身も、その動きに重なるように巨体の内側へ入り込んでいった。


 避けるために動いた身体が。


 そのまま崩しへ変わる。


 どこまでが回避で。


 どこからが攻撃の準備なのか。


 境目がない。


「……なんだ、あの動き」


 勇者の口から、思わず言葉が漏れた。


 ブロンはまだ倒れていない。


 足場が崩れ、拳を流されても、圧倒的な筋力で強引に姿勢を戻そうとしている。


 だが今だけは、右足を置き直し、腰を戻し、肩を引き、振り抜いた腕を回収する、そのすべてを一度に行わなければならなかった。


 身体のどこにも。


 完全に力を預けられる場所がない。


 そして。


 黒い魔装が。


 波打った。


 ジンは見逃さなかった。


 ――ここだ。


 ブロンが姿勢を戻し切るより早く、すでに懐へ入っている。


 そこで。


 それまでとは違う動きが始まった。


 足が地面を捉える。


 今度は。


 蹴らないためではない。


 使うために。


 踏む。


 地面から返ってきた力を受け、腰が回る。


 その回転は腰だけで終わらず、胴を通り、肩へ抜け、右腕へ繋がっていく。


 足。


 腰。


 胴。


 肩。


 腕。


 それぞれを別々に動かすのではなく。


 一つの螺旋へ巻き込む。


「――あっ、今の!」


 フィナが思わず声を上げた。


 勇者がそちらを見る。


「何だ?」


「……いえ」


 フィナは答えながらも、ジンから目を離さなかった。


 今の身体の使い方には。


 覚えがある。


 治癒魔法へ応用してきたものとも。


 以前、自分が杖へ力を通した時とも。


 どこか。


 同じものがある。


 だが。


 それを言葉にするより早く。


 ジンの動きが終わった。


 全身を巡った回転の終着点。


 右肘。


 ――ドッ。


 短い一撃が。


 揺らいだ魔装へ突き刺さった。


「……」


 ブロンの巨体は吹き飛ばない。


 地面も砕けない。


 先ほどまでの激しい攻防と比べれば、あまりにも小さな音だった。


 勇者は目を見開いたまま。


 動けなかった。


 全部見ていた。


 拳を避けた。


 足場が崩れた。


 ブロンの身体が傾いた。


 ジンが懐へ入った。


 肘を打った。


 その全部を。


 確かに見ていた。


 それなのに。


 どこで回避が終わり。


 いつ崩しへ変わり。


 どの瞬間に攻撃へ移ったのか。


 分からなかった。


「……何だ」


 ブロンが腹部へ視線を落とす。


「それだけか?」


 ジンは答えない。


「ハッ。何するかと思えば――」


 ピシ。


 小さな音がした。


 ブロンの笑みが止まる。


「……あ?」


 ジンの右肘が触れた場所。


 腹部を覆う黒い魔装の表面へ。


 一本。


 髪の毛ほどの細い亀裂が走っていた。


「……」


 ブロンが目を細める。


 ピシ。


 また。


 亀裂が伸びた。


「何だ……?」


 腹部から脇腹へ。


 さらに枝分かれしながら胸へ這い上がっていく。


「おい……待て」


 ブロンの表情が変わった。


 反射的に魔力を込め、乱れた魔装を立て直そうとする。


 黒い表面が一度大きく波打った。


 だが。


 亀裂は消えない。


「……?」


 もう一度。


 さらに魔力を込める。


 それでも戻らない。


 先ほど崩された右足。


 流れた腰。


 開いた肩。


 ブロン自身はすでに立っているものの、身体の各所にはまだ僅かなずれが残り、それを戻そうと力を掛け続けている。


 そこへ。


 ジンの肘が入った。


 身体が完全な状態へ戻る前に、さらに外から衝撃を加えられた。


 結果として。


 黒い魔装も。


 安定するより先に。


 もう一度乱された。


「戻れ!」


 ブロンが魔力を込める。


 黒い表面が激しく波打つ。


 ピシ。


 新しい亀裂が肩へ向かって伸びた。


「何でだ!」


 さらに魔力を増やす。


 それでも。


 亀裂は止まらない。


「何しやがった!」


 ブロンがジンを睨んだ。


「別に」


「別にじゃねえ!」


「さっきから、身体が崩れた時だけそれも揺れてたから」


 ジンはブロンの足元から腰、肩へ順番に視線を動かし、最後に黒い魔装を見る。


「だったら、その時に打ったらどうなるかなって」


「……」


 ブロンが固まった。


「……それだけか?」


「うん」


「魔装の仕組みを見切ったとか、そういうんじゃねえのか」


「知らないし」


「……」


「魔力も見えないから」


 ブロンの顔が引きつった。


 勇者も。


 言葉を失っている。


「……嘘だろ」


 少し離れた場所でグレドが呟いた。


 その隣では、セレクがブロンの身体と崩れかけた魔装を交互に見ながら、何かを確かめるように目を細めている。


「身体の均衡と……魔装の固定が連動してる……?」


 その言葉が聞こえたジンが、そちらを見る。


 眼鏡を掛けた。


 見覚えのない女の魔族。


「そうなの?」


「あなたがやったんでしょう!?」


「揺れてたから」


「だから、それが――」


 バキッ。


 大きな音が会話を遮った。


 全員の視線がブロンへ戻る。


 腹部から伸びていた亀裂が一気に胸を走り、肩から腕へ向かって広がっていく。


 ブロンが咄嗟にさらに魔力を込める。


 だが。


 もう間に合わない。


 バキバキッ――!


 黒い外殻が砕けた。


 身体から剥がれ落ちた破片は、その形を保ったまま飛び散ることなく、空中へ浮いた瞬間に輪郭を失っていく。


 黒が薄れ。


 淡い光へ変わり。


 消える。


 腹から胸へ。


 胸から肩へ。


 腕へ。


 脚へ。


 崩壊は連鎖するように全身へ広がり、ブロンの巨体を覆っていた魔装が次々と剥がれ落ちていった。


 やがて。


 最後の黒い部分まで消えた。


「……」


 戦場に。


 静寂が落ちた。


 ブロンは自分の身体を見下ろしたまま動かない。


 勇者もまた。


 聖剣を握ったまま。


 言葉を失っていた。


 自分は。


 あの魔装を。


 何度も斬った。


 聖剣へ膨大な魔力を込め、正面から斬撃を叩き込み、それでも完全には破れなかった。


 だが。


 目の前の男は。


 力で破ったわけではない。


 魔装を上回る魔力をぶつけたわけでもない。


 そもそも。


 魔装の仕組みすら知らなかった。


 勇者は改めてジンを見る。


 魔力を感じない。


 ブロンを上回るような身体能力もない。


 ついさっきも。


 拳が肩を掠めただけで吹き飛ばされた。


 なのに。


 自分が破れなかったものを。


 この青年は。


 崩した。


「……何なんだ、あいつ」


 誰に聞かせるでもなく漏れた言葉に、アインが反応した。


「それ、俺らもたまに思う」


「……」


「アインさん」


「なんだよ」


「一緒にしないでください。私は『何なんだ』とまでは思ってません」


「じゃあ何だと思ってんだよ」


 フィナは少し考えた。


「……変な人?」


「ほぼ同じじゃねえか」


「聞こえてるけど」


 少し離れたところからジンの声が飛び、二人は揃って口を閉じた。


「……」


「……」


 そのやり取りを見ていたブロンの肩が。


 小さく震えた。


「……お前ら」


 低い声に、ジンが振り返る。


「俺の前で何普通に喋ってやがる!」


「まだやるの?」


「当たり前だ!」


 ブロンが一歩踏み出そうとしたところで。


「ブロン様!」


 後方からグレドの声が飛んだ。


 ブロンが止まる。


「……何だ」


「もう十分です」


 グレドは負傷した身体を支えながら、ゆっくりと周囲へ視線を向けた。


 倒れている魔族たち。


 動けない勇者の仲間。


 人間側の兵士。


 魔族側の兵士。


 そして。


 魔装を失ったブロン。


「これ以上やっても、何も残りません」


「……」


 ブロンは答えなかった。


 長い沈黙のあと。


 今度は勇者がゆっくりと聖剣を下ろした。


「俺も、話を聞きたい」


 ブロンの目が向く。


「何?」


「さっきの話だ」


 勇者はブロンではなく、ジンを見る。


「ヴァルナ。本当にあの攻撃を、術者自身が魔術式を組まなくても行える兵器があるなら、俺たちがここで戦う理由そのものが変わる」


 ブロンが鼻を鳴らした。


「随分都合がいいな、勇者。俺の部下を倒しておいてか」


「お前も俺の仲間を倒した」


「なら続けるか?」


 勇者はすぐには答えなかった。


 一度だけ。


 周囲を見る。


 倒れた仲間たち。


 傷ついた兵士たち。


 向こう側にいる魔族も。


 似たような状態だった。


 やがて。


 勇者は首を振る。


「いや。今は真相を確かめる方が先だ」


 ブロンは何も言わなかった。


 荒れ果てた戦場を風が抜け、二人の間を薄い土埃が流れていく。


 しばらくして。


 ブロンが大きく息を吐いた。


「……気に食わねえ」


「俺もだ」


「お前は黙ってろ」


「……」


 勇者が少しだけ眉を寄せた。


 その二人を見ていたジンが、間へ声を挟む。


「じゃあ、話できる?」


 勇者とブロンが同時にジンを見る。


「……」


「……」


 二人とも。


 ほとんど同じタイミングで深く息を吐いた。


 それを見たアインが小さく笑う。


「できそうだな」


    ◇


 戦場を覆っていた張り詰めた空気が僅かに緩んだところで、ジンはようやく自分の右肘へ視線を落とした。


 服越しに軽く触れる。


「……痛っ」


 ブロンが振り返った。


「……お前、今さら何だ」


「いや」


 ジンは右肘を軽く曲げ伸ばしする。


「硬かったなと思って」


「……」


 ブロンの顔が。


 また僅かに引きつった。


 ジンはそれを気にせず、自分の肘をもう一度擦った。


 結局。


 魔装がなぜ崩れたのか。


 正確な仕組みは分からない。


 身体の均衡と魔装の固定が本当に連動しているのか、それとも別の条件が重なっただけなのか。それを一度成功しただけで断定することもできない。


 分かったのは。


 ブロンの身体が崩れた瞬間。


 魔装に揺らぎが生まれたこと。


 だから。


 その状態を作り。


 そこへ打った。


 結果として。


 崩れた。


 ただ。


 それだけだった。


 少なくとも。


 この時のジンには。


 それ以上のことは。


 まだ分からなかった。


 ――あの時の俺は、まだ魔法を知らなかった。

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