第79話 揺らぎ
ブロンが横薙ぎに振った拳は、また何も捉えないまま空を切った。
その軌道から僅かに外れていたジンは、拳が通過するのとほとんど入れ替わるように距離を詰めると、今度はブロンの右肩を覆う黒い魔装へ指先を軽く触れさせた。
「……」
「さっきから何してやがる!」
ブロンが振り向きざまに裏拳を放つ。
ジンは身を沈める。
頭上を黒い腕が通過した。
すぐに膝。
半歩外れる。
続いて肘。
身体の向きを変えながら抜ける。
さらに正面から拳が伸びてきた時には、もうその中心線から外れていた。
「チッ!」
ブロンはそこで足を止めず、今度はジンが逃げる方向そのものを潰すように追い始めた。右へ動こうとすれば先に回り込み、左へ抜けようとすれば身体を寄せ、距離を取らせるように腕を薙ぎながら進路を限定していく。
純粋な速度だけなら、明らかにブロンの方が上だった。二メートルを超える巨体とは思えない速度で間合いを詰め、拳を避けた先へ次の攻撃を置き続ける。
それでも、ジンは追い込まれない。
右を塞がれれば素直に左へ逃げるのではなく、その場で僅かに前へ入り、左へ圧を掛けられれば今度はブロンの懐へ寄る。腕を薙いで距離を作ろうとされれば外へ逃げず、その腕が進む方向へ沿うように身体ごと位置を変えていった。
離れすぎず、入りすぎず。
ブロンの拳や蹴りが最も大きな力を発揮する場所から、常に僅かだけ外れ続ける。
勇者はその攻防を見ながら、先ほどから感じていた違和感を少しずつ整理していた。ジンはブロンより速いわけではない。純粋な移動速度だけなら、むしろブロンの方が上だ。
それなのに、攻め続けているはずのブロンが、まるでジンの後を追わされているように見える。
「……先に動いてるのか?」
思わず漏れた声に、近くにいたアインがそちらを見た。
「何が?」
「拳が出てから避けてない」
勇者は二人の戦いから目を離さない。ブロンの肩が僅かに沈んだ時には、もうジンの身体が動き始めている。腰が回り、重心が移り、実際に拳が放たれる頃には、その軌道からすでに外れていた。
「その前を見てる。肩とか、腰とか……重心とか。拳そのものじゃない」
「ああ、多分な」
アインは特に驚いた様子もなく頷いた。
「多分?」
「本人に聞けよ。俺に聞かれても知らん」
「……」
勇者は少しだけ言葉に詰まった。
仲間だというのに、妙に他人事だった。
その時。
ブロンの右拳が、初めてジンを捉えかけた。
「――!」
黒い拳が頬のすぐ脇を通過し、その表面が僅かに触れる。
ほんの掠り。
それでもジンの頭が僅かに振れた。
「ジン!」
「捕まえたぞ!」
手応えを得たブロンが一気に踏み込む。
左拳。
腹部へ。
まともに入れば終わる。
だが、拳が届く直前にジンの右手がブロンの前腕へ触れた。
止めるのではない。
押し返すのでもない。
拳が進もうとしている方向へ僅かに力を足しながら、軌道だけを外へ流す。
「――っ?」
拳がジンの脇を抜け、その勢いに引かれるようにブロンの肩が落ちた。上体が僅かに前へ流れ、重心が想定していた位置から外れる。
ジンはその横へ抜けながら、ブロンが身体を立て直す動きを見た。
右足が地面を踏む。
腰が戻る。
肩が上がる。
身体の軸が元へ戻る。
その瞬間。
黒い魔装の表面が、僅かに波打った。
「……」
ジンの視線が止まる。
「よそ見してんじゃねえ!」
立て直した勢いのままブロンが拳を振るう。
ジンは軌道から外れたが、今度はただ避けるだけではなく、もう一度同じ現象を確かめるようにブロンの身体全体を視野の中へ置いた。
次の右拳。
ジンが前腕へ手を添える。
流す。
肩が落ち、腰が遅れ、重心が前へずれる。
ブロンがすぐに足を踏み直して身体を戻した。
その瞬間。
また、黒い表面が揺れた。
「……」
二回目。
偶然ではない。
ジンはこれまでの動きを頭の中で並べ直した。普通に立っている時、魔装はほとんど揺れない。拳を振っている時も、蹴りを放っている時も、地面へ拳を叩き込んだ時でさえ大きな乱れは見えなかった。
だが、自分の意図した動きではなく、外から姿勢を崩された時だけ違う。そこから身体を戻そうとした瞬間、黒い魔装の表面に僅かな揺らぎが生じる。
「……そういうことか」
「あ?」
ブロンが動きを止めた。
「何がだ」
「まだ分からない」
「は?」
「でも、何かある」
ジンは黒い魔装を見た。
なぜ揺れるのかは分からない。魔力がどこからどこへ流れているのかも、どうやってあれほどの密度で身体へ固定しているのかも知らない。魔術式を使っているのか、それとも魔族特有の別の技術なのか、それさえ今のジンには判断できなかった。
ただ、同じ現象はすでに二度起きている。
身体が意図しない方向へ崩れ、その状態から立て直そうとした瞬間に魔装が揺れる。それが偶然なのかどうかを確かめるには、もう一度同じ状況を作ればいい。
「もう一回」
「……何?」
「確認したい」
ブロンの眉間に深い皺が寄った。
「てめえ……」
ジンは軽く片手を上げた。
「来て」
「舐めんなァ!」
怒声と同時にブロンが突っ込んだ。
右拳。
ジンが外れる。
左。
今度は内側へ。
そこから蹴り。
ジンは逃げずに一歩入った。
脚が伸びきる前に手を添える。
膝より少し下。
止めない。
そのまま流す。
「っ!」
想定していた位置より僅かに脚が先へ出たことで、ブロンの巨体が傾いた。すぐに軸足を強く踏み、腰を引き戻して姿勢を立て直す。
その瞬間。
魔装が。
確かに揺れた。
「……やっぱり」
「何がやっぱりだ!」
ブロンの怒声が荒野へ響いた。
当たらないことだけでも腹が立つ。
だが、それ以上に気に入らないのは、目の前の男がこの戦いをただの殴り合いとして見ていないことだった。
触れる。
流す。
崩す。
その後に必ず何かを確かめる。
しかも一度で終わらず、同じ状況を意図的に作り直している。
まるで自分を使って何かを調べているようだった。
「グレド!」
とうとうブロンが、離れた場所にいるグレドへ叫んだ。
「こいつ、前もこんなんだったのか!」
負傷したまま座り込んでいたグレドが、一瞬だけ返答に迷った。
「……だいたいそんな感じでした!」
「先に言え!」
「言ったでしょう! 妙な人間だって!」
「妙じゃ分からねえんだよ!」
「俺だって全部は分かってませんよ!」
「使えねえな!」
「今それ言います!?」
「グレド」
隣にいたセレクが静かに名前を呼ぶ。
「……すみません」
一瞬で敬語に戻ったグレドを見て、アインが思わず吹き出した。
「仲良いな、あいつら」
「今そこですか?」
フィナが呆れたように返す。
勇者だけは笑っていなかった。
ただ避けているだけではないことは、もう分かっている。同じように触れ、同じように流し、同じように身体を崩したあと、ジンは必ず何かを確認していた。
勇者の視線が、ジンからブロンの全身を覆う黒い魔装へ移る。
自分はあれを何度も斬った。聖剣へ魔力を込め、正面から叩きつけ、何度も傷をつけた。
それでも、完全には破れなかった。
「……破るつもりなのか?」
勇者が呟く。
「多分な」
アインが答えた。
「できるのか?」
「知らん」
勇者が思わずそちらを見る。
「知らない?」
「あいつが何考えてるかなんて、俺に聞くなよ」
「……仲間なんだろ?」
「仲間だからって全部分かるわけねえだろ」
「……」
勇者は何も返せなかった。
「でも、何かは見つけたと思います」
フィナが口を挟む。
「なぜ?」
「最初は触って確認していただけでしたけど、今は同じ状況を自分から作ってます。腕を流した時も、蹴りを崩した時も、その後に必ずあの黒いものを見ていますから」
フィナは戦う二人を目で追った。
「多分、同じ変化が起きるか確かめてるんだと思います」
勇者も改めてジンを見る。
視線は拳だけを追っていない。ブロンの腕、肩、腰、脚、地面、距離、そして全身を覆う魔装まで、一ヶ所へ意識を固定することなく広く視野の中へ置いている。
勇者は妙な感覚を覚えた。
自分には聖剣がある。
膨大な魔力もある。
それでも、魔装を完全には破れなかった。
なら。
あの男は。
一体何をする。
◇
「もういい」
ブロンが低く言った。
先ほどまで声に滲んでいた苛立ちが消えている。代わりに腰を深く落とし、ジンから目を離さないまま右腕を大きく引いた。
「避けるのが上手いのは分かった」
「どうも」
「褒めてねえ」
全身を覆う魔装が、さらに濃さを増していく。
「だがな」
ブロンの視線がジンではなく、その足元へ落ちた。
「避ける場所がなけりゃ――関係ねえだろ」
その意図に気づき、ジンの視線も地面へ動いた。
次の瞬間。
ブロンの拳が大地へ叩き込まれる。
轟音。
地面が爆ぜた。
拳を中心に大きく陥没し、そこから走った衝撃が円状に周囲へ広がる。
土が跳ねる。
石が浮く。
足場そのものが揺れた。
「――っ!」
ジンが避けようとした場所まで崩れる。
踏もうとした地面が沈み、重心を移そうとした瞬間に足元が横へずれた。
今までは攻撃そのものを避けていた。
だが今回は、避けるために使う地面ごと壊された。
ジンの姿勢が初めて大きく崩れる。
その瞬間。
ブロンが来た。
「もらった!」
黒い拳が迫る。
姿勢はまだ戻っていない。
正面からは避けきれない。
ジンは咄嗟に腰と肩をまとめて捻り、身体の中心だけを拳の軌道から外した。
直撃は避ける。
だが。
完全には間に合わない。
拳の端が左肩を掠めた。
それだけで。
ジンの身体が浮いた。
「ジン!」
数メートル吹き飛ばされ、肩から地面へ落ちる。
一度。
二度。
転がる。
最後に右腕をつき、どうにか止まった。
「……っ」
左肩が熱い。
指先まで痺れている。
本当に掠っただけだった。それでも腕全体に力が入りにくく、肩の奥には鈍い痛みが残っている。
アインの表情から先ほどまでの笑みが消え、フィナも何も言わないままジンの状態を確かめるように身体を僅かに前へ出した。
勇者は息を呑んだ。
やはり。
そういうことだ。
ジンはブロンより頑丈なわけではない。身体能力で上回っているわけでもなく、圧倒的に速いわけですらない。
ただ、これまで当たっていなかった。
それだけだった。
一度でもまともに近い形で受ければ、こうなる。
ブロンがゆっくりとジンへ近づいていく。
「なるほどな」
拳を一度振り、感触を確かめる。
「やっぱりてめえ、身体そのものは大したことねえ」
ジンは左肩を押さえながら立ち上がり、腕を前、横とゆっくり動かした。
「……痛い」
「当たり前だ」
「掠っただけなんだけどな」
「次はちゃんと当ててやる」
「それは困る」
ブロンが笑う。
「さっきまでの余裕はどうした?」
「最初からないけど」
「……」
ブロンの眉間にまた皺が寄った。
ジンはそれを気にせず、もう一度左肩を回した。痛みも痺れも残っているが、動かせないほどではない。
そして。
今ので。
また一つ見えた。
ブロンが地面へ拳を叩き込んだ瞬間、足、腰、肩、腕と全身の力が右拳一点へ集まり、そのまま地面へ叩きつけられていた。攻撃そのものは完全にブロンの意図した動きだったが、地面を砕いた直後、その反動で身体がほんの僅かに前へ流れている。
その瞬間だけ。
黒い魔装の表面が、確かに波打った。
ジンはブロンの身体と、それを覆う魔装をもう一度見た。
まだ理由までは分からない。姿勢が崩れることそのものが原因なのか、力の向きが変わることなのか、それとも身体へ魔力を固定するために何かしら一定の状態が必要なのか。そこまでは判断できないが、同じ現象はもう何度も確認している。
なら、偶然として扱う理由はない。
身体が崩れた瞬間、魔装にも揺らぎが生じる。
それが分かったのなら、自然に崩れるのを待つ必要もなかった。
次は、自分でその瞬間を作ればいい。
ブロンが再び腰を落とし、黒い魔装に覆われた拳を構えた。
その正面で、ジンは今度は動かなかった。肩から余計な力を抜き、両腕も自然に下ろしたまま静かに立つ。
「……?」
ブロンの眉が僅かに動く。
さっきまで避け続けていた男が、今度は自分から待っている。
ジンはブロンの拳だけではなく、その肩も、腰も、脚も、重心も、全身を覆う魔装もまとめて視野の中へ置いた。
次に見るべきものは、もう決まっている。
だから今度は。
ブロンが来るのを。
静かに待った。




