第78話 届かない拳
「羅針盤だ」
ジンは荒れ果てた戦場へ一歩踏み込み、勇者と巨大な魔族を交互に見た。
「とりあえず、話をしに来た」
返事はなかった。
乾いた風だけが戦場を抜け、舞い上がった土埃が抉れた地面を低く這っていく。
周囲には人間も魔族も倒れ、折れた武器や砕けた岩、崩壊した巨大な土壁の残骸がそこかしこに転がっていた。魔法や魔術を受けたらしい地面は黒く焦げ、今もいくつかの場所から細い煙が立ち上っている。
その中心に。
二人がいる。
一人は金髪の青年だった。
白銀の鎧は何ヶ所も砕け、頬には乾ききっていない血が流れている。それでも手にした剣だけは放しておらず、疲労で身体を支えるのも苦しそうな状態でなお、ジンたちから視線を外していない。
あれが。
勇者。
そして、その勇者と向かい合っていたもう一人へ視線を移す。
「……でかいな」
思わず小さく漏れた。
グレドも相当大きかった。
だが、目の前の男はそれ以上だ。
背丈だけではなく、首も肩も腕も太く、骨格そのものから普通の人間とは違って見える。単純に鍛えた大男というより、身体全体が一回り、いや二回り大きく作られているようだった。
ただ。
ジンが最も気になったのは、その身体ではない。
巨体の表面を覆っているものだった。
「……」
黒い。
最初は鎧かと思った。
だが、よく見れば肩や肘、胴体の動きに合わせて表面が僅かに揺らぎ、金属とは違う光沢を返している。
以前見た魔族の技術とも違う。
フィナが使った防護魔法は半透明で、魔力を薄い面として身体の外側へ展開していた。
目の前のものは逆だ。
身体から離れていない。
肌へ直接押しつけるように密着し、何層にも重ねて圧縮したかのような濃さで、巨漢の全身を黒い装甲として覆っている。
ジン自身に魔力を感じ取ることはできない。
それでも。
これまで見てきたものと全く違うことだけは分かった。
「何だ、お前」
巨漢が言った。
低い。
声量そのものは大きくないのに、腹の奥まで響くような声だった。
「ジン」
「名前を聞いてんじゃねえ」
「ああ」
ジンは少し考えた。
「止めに来た」
「何をだ」
「これ」
片手で周囲を示す。
倒れている人々。
崩れた大地。
まだ煙を上げている戦場。
巨漢――ブロンの眉が僅かに動いた。
「ベルクを攻撃したのは、あんたたちじゃない」
今度は勇者にも聞こえるように言うと、その表情が明らかに変わった。
ブロンも目を細める。
「……何?」
「ベルクの遺跡で調べた」
ジンは二人を見ながら続けた。
「撃ち込まれた術式が記録されてた。使われた兵器の名前も」
「兵器?」
勇者が反応する。
「ヴァルナ」
「……ヴァルナ?」
「古代文明の遠隔術式投射兵装。魔力を外から供給すると、兵器側が魔術式を作って撃つらしい」
勇者の眉が寄る。
「兵器が……魔術を?」
「うん」
ジンは頷いた。
「撃つ人間が、自分であの魔術式を組めなくてもいい」
「……」
「だから、魔術が使われたってことだけじゃ、魔王軍が撃った証拠にはならない」
勇者が何も答えないまま、握っていた聖剣を僅かに下げた。
「それは――」
「勇者」
離れた場所から声が飛んだ。
倒れていた仲間の一人が、満身創痍の身体をどうにか起こしながらこちらを見ている。
「今は聞くな」
「だが」
「そいつが何者かも分からない。情報の出所も、正しいかどうかも確認できていない」
男は一度ブロンたちへ視線を動かした。
「魔族と示し合わせている可能性もある」
ジンもその男を見る。
ほんの一瞬。
何かが引っかかった。
だが。
言っていること自体はおかしくない。
むしろ、これだけの戦闘をした直後に突然現れた見知らぬ男から「全部勘違いだった」と聞かされて、そのまま信じる方がおかしい。
だから。
今はそれ以上考えなかった。
「……分かった」
勇者は短く答えた。
ただ。
聖剣を握る手からは、先ほどまであった迷いのなさが消えている。
「とにかく」
ジンはブロンへ視線を戻した。
「もう戦う理由はない」
「ある」
即答だった。
「あるの?」
「ああ」
ブロンは周囲に倒れている魔族たちへ一度視線を向け、それから勇者を見る。
「こいつらが俺の部下をやった」
続けて、自分の周囲を顎で示した。
「俺もこいつらをやった」
「……」
「お前が来る前の話だ」
「でも、元々は勘違いなんだろ」
「それで?」
ジンが黙った。
ブロンが一歩前へ出ると、その巨体を受けた地面が低く鳴る。
「戦場に立って、互いに武器を振った」
さらに一歩。
「今さら勘違いでしたで終われると思うか?」
「思うけど」
「……」
ブロンが止まった。
後ろではアインが額へ手を当てている。
「お前なぁ……」
「だって勘違いなんだろ?」
ジンは周囲を見た。
「じゃあ、これ以上続ける意味ないじゃん」
「そういう話じゃねえ」
「そういう話だと思うけど」
ブロンのこめかみに太い血管が浮いた。
少し離れた場所では、負傷したグレドが隣にいる眼鏡の女へ小さく声を掛けていた。
「……あの男です」
「あれが?」
「はい。以前、戦場で会った人間です」
女はジンを遠目に眺める。
「……随分、普通に見えるけど」
「俺も最初はそう思いました」
グレドは短く答えた。
「でも、妙な男です」
当然、その会話はジンには聞こえていない。
ジン自身も、眼鏡を掛けた女が誰なのか知らなかった。
目の前のブロンだけを見ている。
「そこを退け」
「嫌だ」
「次はお前から潰すぞ」
「それは困る」
「なら退け」
「それも困る」
ブロンの右手がゆっくり握られ、太い指の関節が一つずつ音を立てた。
「死ぬぞ」
「だろうね」
「……あ?」
「まともに食らったら」
ジンはブロンの拳を見る。
大きい。
自分の顔よりも遥かに大きく、黒い装甲に覆われたその拳で殴られれば、防御したところで意味があるとは思えない。
「一発で終わると思う」
勇者が僅かに眉を寄せる。
ブロンも数秒。
黙った。
「……分かってて立ってんのか」
「うん」
「なら退け」
「嫌だって」
「そうか」
ブロンの腰が僅かに落ちた。
その変化を見た瞬間。
ジンの視界が広がった。
拳だけではない。
肩。
肘。
腰。
膝。
足。
重心。
全部を一度に視野の中へ置く。
「なら――」
地面が爆ぜた。
「退け!」
二メートルを超える巨体が、一瞬で距離を消した。
勇者の表情も変わる。
速い。
先ほど自分と戦っていた時と変わらない。
疲労しているはずなのに。
まだ出る。
ブロンの右拳が、ジンの顔面へ向かって伸びた。
「ジン!」
フィナの声が飛ぶ。
だが。
拳が完成するよりも前に。
ジンの身体は。
すでに半歩。
横へずれていた。
――ブォン!
拳が空気を押し潰すように通過し、その風圧でジンの髪が大きく揺れる。
「――!」
ブロンの目が動いた。
かわされた。
なら。
止まらない。
振り抜いた右拳を引くより早く左腕を下から突き上げ、顎を砕く軌道でアッパーを放つ。
だが。
ジンはすでにそこにもいなかった。
大きく跳んだわけではない。
後ろへ逃げたわけでもない。
身体全体が僅かに横へ流れ、拳が鼻先を通り過ぎる。
「チッ!」
ブロンはさらに踏み込んだ。
右。
左。
蹴り。
肘。
巨体から次々と放たれる攻撃は、一発ごとに空気を鳴らし、地面へ僅かな振動を伝える。
どれも。
まともに受ければ終わる。
だからジンは受けない。
それでも、大きく逃げることはなかった。
後退だけを続ければ、いずれ追い詰められる。
まして相手の方が速い。
ジンはブロンの攻撃に合わせ、必要なだけ位置を変え続けた。
右へ。
左へ。
時には前へ入り。
斜めへ抜ける。
地面を強く蹴り込むような動きはほとんどなく、頭も肩も腰も脚も、どこか一ヶ所だけが先に動くことがない。
身体全体が。
一つのまとまりとして位置を変える。
ブロンからすれば。
起こりがない。
確かに動いている。
なのに、動き始めた瞬間を掴めない。
気づいた時には。
そこからずれている。
「……なんだ、あの動きは?」
勇者が思わず呟いた。
速い。
それだけなら理解できる。
勇者自身、高速戦闘には慣れている。
身体強化。
飛行魔法。
加速系の魔法。
速度を上げる方法なら、いくらでも知っている。
だが。
目の前の男は違う。
速く動くために力んでいない。
地面を強く蹴り飛ばすこともなければ、上体を先に倒して加速を作ることもない。
頭。
肩。
腰。
脚。
それらがほとんど同時に移動し、姿勢を崩さないまま身体全体が横へ流れていく。
まるで。
映像の途中だけが。
何枚か抜け落ちているように見える。
「気持ち悪いよな、あの動き」
近くから声が聞こえた。
勇者が振り向く。
先ほどジンと一緒に現れた男――アインが、戦闘を眺めながら腕を組んでいる。
「そうですか?」
隣ではフィナが眼鏡の位置を直した。
「見てみろよ。あれだけ動いてんのに、上半身がほとんどブレてねえ」
「確かに」
二人が話している間にも、ブロンの拳がジンの頭部へ迫る。
ジンが僅かに横へ流れれば拳は空を切り、その動きが終わる前には次の蹴りに合わせて位置を変えている。
避ける。
次へ繋ぐ。
また避ける。
その間に明確な区切りがない。
「でも」
フィナが小さく言った。
「綺麗ですよね」
「綺麗?」
「はい」
ブロンが右拳を振る。
ジンがその外側へ滑る。
すぐに左拳。
今度は内側へ。
相手が動けば、それに合わせて位置が変わる。
「なんというか……」
フィナは少し考えた。
「魔族の方と、踊っているみたいです」
「ダンスねえ」
「相手の動きにずっと合わせていますから」
「向こうは殺す気だけどな」
「それはそうですね」
勇者は二人を見る。
またジンを見る。
ブロンの右。
避ける。
左。
避ける。
膝。
身体をずらす。
裏拳。
頭の位置だけではなく、身体全体が軌道から外れる。
「あ」
アインが言った。
「今のは危なかったな」
「かなり近かったですね」
「指二、三本分くらいか?」
「それくらいだと思います」
「結構ギリギリだな」
「いつもあんな感じじゃないですか?」
「まあな」
勇者はもう一度、二人を見た。
そして。
荒れ狂う拳の中にいるジンを見る。
なんでこいつら。
こんなに落ち着いてるんだ?
「クソが!」
ブロンが吠えた。
振り抜いた拳をそのまま地面へ叩き込む。
轟音。
大地が大きく砕け、土と石が一斉に跳ね上がった。
視界が瞬間的に茶色へ染まる。
拳で捉えられないなら。
視界ごと潰す。
ブロンはすぐに顔を上げた。
「――!」
いない。
ついさっきまで。
正面にいたはずの男が消えている。
「こっち」
横から声がした。
ブロンが振り向く。
すぐそばに。
ジンが立っていた。
攻撃する距離。
にもかかわらず。
剣は抜いていない。
拳を構えてもいない。
代わりに右手を伸ばし、ブロンの腕を覆う黒い装甲へ指先を軽く触れさせていた。
「……?」
ブロンの眉が寄る。
「何してやがる」
ジンは答えない。
触れていたのは。
ほんの一瞬。
すぐに手を離し、ブロンの腕を覆う黒いものへ視線を落とす。
硬さ。
表面。
触れた時の感触。
殴るためでも。
掴むためでもない。
ただ。
確かめるために触れた。
ブロンには。
その方が気味が悪かった。
「……てめえ」
拳が横薙ぎに振るわれる。
だが。
ジンの身体は。
また。
滑るように。
その軌道から消えた。




