第7話 修練空間
宿の部屋は静まり返っていた。
窓の外ではベルクの街にも夜が訪れ、昼間あれほど賑わっていた通りから、人の声はほとんど聞こえなくなっている。
ジンは机の前に座り、今日書き残した紙へ目を落とした。
『防護魔法――物理攻撃を遮断。身体の動き、呼吸に合わせてわずかに変化?』
『火球――熱あり。衝撃あり。普通の燃焼とは挙動が違う可能性』
『身体強化――身体能力そのものを上昇。視認できても対応が間に合わない』
そして、一番下には。
『検証が必要』
その一文が残っている。
分からないことは増えた。
だが、それでいい。
分からなかったものが、少しずつ「何を調べればいいのか分からないもの」から、「確認すべき点があるもの」へ変わり始めている。
あとは試せばいい。
「……行くか」
ジンは椅子へ深く腰を掛け直し、両手を膝へ置いた。
修練空間へ入る方法については、昨夜と今日の間に何度か試していた。
言葉を唱える必要はない。
決まった姿勢を取る必要もない。
ただ、一度身体の動きを止める。
呼吸を整える。
そして、あの何もない白い空間を明確に思い浮かべる。
それだけだった。
ただし、思った瞬間に移動できるわけではない。
意識が他へ向けば何も起こらず、数秒ほど集中を保つ必要がある。
ジンは一度、長く息を吐いた。
目を閉じる。
頭の中から宿の物音を遠ざけ、白い世界だけへ意識を向ける。
一秒。
二秒。
やがて、椅子へ触れていた感覚が薄れていった。
窓から入る夜風も。
遠くの話し声も。
自分の身体を包んでいた宿の空気さえ、ゆっくりと遠ざかっていく。
代わりに。
足裏へ、あの感触が戻ってきた。
◇
目を開ける。
白い世界だった。
空はない。
壁もない。
白い床だけが、どこまでも続いている。
「……入れた」
ジンは周囲を見回した。
やはり何もない。
音も。
風も。
人の気配も。
宿にいた時とはまるで違う静けさが、空間全体を満たしていた。
少しして、目の前へ半透明の表示が浮かび上がる。
⸻
【トレーニングモード】
・対象再現 解放済み
・状態初期化 解放済み
・疲労回復 解放済み
・記録閲覧 解放済み
・解析補助 未解放
・時間操作 未解放
⸻
ジンは表示を上から順に見た。
まだ分からない機能は多い。
特に最後の「時間操作」が何を意味するのかは気になったが、今は使えない。考えても確かめようがないものは、ひとまず後回しにする。
まず試したいものは決まっていた。
「対象再現」
声に出すと、表示が切り替わる。
⸻
【登録対象】
・実技試験官(防護魔法)
・実技試験官(火属性魔法)
・実技試験官(身体強化)
⸻
「……やっぱり」
今日戦った三人が並んでいた。
名前ではなく、自分が相手を認識していた特徴で分類されているようにも見える。
なぜ登録されたのか。
何をもって「対象」と判断しているのか。
そこまでは分からない。
ただ、一つ可能性は浮かぶ。
「実際に戦った相手……かな」
少なくとも、今登録されているのは三人とも直接戦った相手だった。
まだ三例しかない。
断定するには少なすぎる。
そのことを頭の片隅へ置きながら、ジンは表示を閉じた。
次に確認することがある。
自分の身体だ。
拳を握る。
開く。
肩を回し、腰を落とす。
一身を意識しながら、ゆっくりと右手を前へ伸ばした。
身体の一部だけを先に動かさない。
足元から頭までを、一つのまとまりとして動かす。
始まりを揃え。
終わりを揃える。
「……問題ないな」
感覚は現実と変わらない。
なら、次。
ジンはその場で腕立て伏せを始めた。
十回。
二十回。
五十回。
さらに続ける。
呼吸が次第に荒くなり、腕が重くなっていく。百回を越える頃には額から汗が落ち、筋肉にもはっきりと疲労が溜まっていた。
そこで身体を起こす。
「疲労回復」
直後。
身体の内側を温かな感覚が通り抜けた。
「……おお」
乱れていた呼吸が落ち着く。
腕に溜まっていた重さも消えた。
肩を回す。
肘を曲げる。
もう一度腕立て伏せの姿勢を取ってみても、先ほどまでの疲労は感じない。
「やっぱり戻る」
だが。
記憶は残っている。
百回以上腕立て伏せをしたことも。
何回目から身体が重くなったかも。
どこに力が集まっていたかも。
全部覚えている。
「身体の疲れだけ消えるのか……?」
ジンは立ち上がった。
まだ確定はできない。
筋肉にどんな変化が起きているのかも分からないし、「状態初期化」と「疲労回復」の違いも調べる必要がある。
それでも。
この機能だけで、できることは大きく変わる。
限界まで試す。
疲れたら戻す。
もう一度試す。
条件を変える。
また戻す。
「……すごいな、これ」
声に出してから、自分でも少し笑った。
地球にいた頃なら、一日の練習量には必ず限界があった。
筋肉が疲れる。
集中力が落ちる。
関節に負担が溜まる。
怪我をすれば、その日どころか何週間も練習できなくなることさえある。
ここなら。
少なくとも疲労については、その制限を無視できる。
そして何より。
相手がいる。
ジンは再び登録対象へ視線を戻した。
「まずは……」
一番上。
【実技試験官(防護魔法)】
そこへ意識を向ける。
「お前からだな」
表示が淡く光った。
白い床へ、静かに波紋が広がっていく。
一つ。
二つ。
重なるように輪が広がり、その中心で空間そのものが僅かに揺らいだ。
やがて。
何もなかった場所に、一人の男が立っていた。
「……」
今日。
ギルドの訓練場で戦った試験官。
顔。
体格。
服装。
身体の表面を覆う、半透明の薄い光。
見覚えのある防護魔法まで、そのままだった。
男の手には木剣が握られている。
それと同時に。
「ん?」
ジンは自分の右手を見た。
いつの間にか。
そこにも一本の木剣があった。
「これも再現されるのか」
握りを確かめる。
重さ。
長さ。
手に伝わる感触。
今日、実技試験で使ったものとほとんど変わらない。
また一つ、確認したいことが増えた。
だが。
今はそれより先にやりたいことがある。
ジンは木剣を構えた。
向かいの男も、無言のまま同じように構える。
表情はない。
こちらへ話しかけてくる様子もない。
それでも、その立ち方も。
身体の癖も。
今日見た相手によく似ている。
ジンの口元が、僅かに上がった。
今日の試験では、一度しか確認できなかった。
呼吸。
身体の動き。
そして、そのたびに揺れていた薄い光。
一回では足りない。
二回でも。
十回でも。
必要なら、もっと。
「今度は――」
ジンは相手だけを凝視せず、肩、腰、足元、防護魔法、そのすべてを視野の中へ置いた。
「お前を知る」
白い世界に。
二人の足音が、静かに響き始めた。




