第6話 三つの敗北
「始め!」
合図と同時に、ローブ姿の男が右手を突き出した。
掌の上で膨らんだ炎が球状にまとまり、そのままジンへ向かって飛んでくる。
ジンは炎だけを追わず、術者の身体ごと視野に収めたまま半歩位置を変えた。
地面を強く蹴って跳ぶのではない。頭、肩、腰、足の位置関係を崩さないまま、身体全体が一つになって横へ移る。
一身。
火球が頬のすぐ横を通り過ぎた。
「熱っ……」
直接触れてはいない。
それでも、はっきり熱を感じた。
続けて二発目。
三発目。
男は距離を保ちながら次々と火球を放ってくる。
ジンは一つずつ軌道から外れ、そのたびに少しずつ前へ進んだ。
見ているのは火球だけではない。
腕。
肩。
視線。
呼吸。
指先。
そして、炎が生まれる直前のわずかな間。
何もないところから、完全に予兆なく飛んでくるわけではなかった。
右手が向く。
視線がこちらへ定まる。
そこから炎が膨らむ。
「……なるほど」
「近付かせるな!」
周囲から声が飛ぶ。
男もそれを分かっているのか、後退しながらさらに火球を放った。
あと数歩。
このままなら届く。
ジンが間合いを詰めようとした、その時だった。
飛んできた火球が、今までより手前で弾けた。
「――っ!」
炎とともに衝撃が広がり、ジンの身体が押し返される。
反射的に足を踏み直した際、地面の砂が大きく舞い上がった。
細かな粒が炎の中へ入り込む。
ジンの目が、そちらへ向いた。
砂は赤く燃え上がることもなく、そのまま向こう側へ散っていく。
「……?」
ほんの一瞬。
意識がそちらへ向いた。
それで十分だった。
「隙あり!」
次の火球が迫る。
「しまっ――」
胸へ直撃した。
――ドンッ!
「ぐっ!」
熱。
それと同時に、炎だけとは思えない強い衝撃が身体を叩く。
ジンは数歩押し戻され、片膝をついた。
「そこまで!」
試験官の声が響いた。
勝負は決まった。
ジンは胸元を確認しながら、ゆっくり立ち上がる。服の一部が焦げ、肌にもひりつくような痛みが残っていた。
間違いなく熱い。
だが。
それだけではない。
先ほどの爆発。
砂。
今受けた衝撃。
頭の中で、それぞれを並べていく。
(普通の火と、まったく同じではない……?)
少なくとも、薪や油が燃えている炎とは何かが違う。
何が違うのかは、まだ分からない。
魔力とやらが火そのものを作っているのか。
別の何かに、火の性質を持たせているのか。
今の一回だけでは判断できなかった。
「……もう少し見たいな」
「試験は終わりだぞ」
「あ、はい」
試験官が妙なものを見るような顔をした。
ジンの中にはまた一つ、確かめたいことが増えていた。
◇
「最後だ」
三人目の試験官が前へ出た。
これまでの二人とは違い、装備は木剣だけだった。
防護魔法らしい光も見えず、掌に炎が生まれる様子もない。
男は木剣を軽く構える。
「来い」
短い一言だった。
ジンも木剣を構えた。
「お願いします」
「始め!」
迷わず前へ出る。
一歩。
そこから間合いへ入ろうとした瞬間。
「――っ」
速い。
そう認識した時には、試験官の位置がすでに変わっていた。
消えたわけではない。
見えている。
踏み込んだ足も。
腰も。
肩も。
木剣の軌道も。
見えているのに。
間に合わない。
腹へ衝撃が入った。
「ぐっ!」
息が止まる。
ジンはすぐに身体を移しながら木剣を返したが、その時には相手はもう間合いの外へいる。
右。
今度は見えた。
木剣が来る。
避けようとする。
だが、自分の身体が必要な位置へ到達するより先に、肩へ一撃が入った。
「っ!」
体勢が崩れる。
踏み直す前に、今度は足元へ動きが入った。
払われる。
地面が近づく。
ジンは受け身を取りながら転がり、その勢いのまま立ち上がった。
試験官はもう正面にいる。
「……」
速い。
だが、それだけではない。
ジンの目には動きそのものが見えていた。
何をするのかも、ある程度は分かる。
それなのに。
自分の身体が、その答えを実行するまでの時間が足りない。
また試験官が踏み込んだ。
ジンは今度こそ先に位置を変えようとした。
それでも。
首元へ木剣が添えられる方が早かった。
「終わりだ」
静寂が落ちる。
ジンは数秒その木剣を見てから、力を抜いた。
「……参りました」
試験官も木剣を下ろす。
「いい目をしてる」
「目?」
「最後の方は、こっちが何をするか見えてただろ」
「まあ……多少は」
「それでも身体がついてこなきゃ意味がない」
男は自分の腕を軽く叩いた。
「身体強化を知らないなら、なおさらだ」
「身体強化……」
「魔力で身体能力そのものを底上げする。速さも、力もな」
ジンは試験官の身体を見る。
見た目だけなら。
それほど極端な違いはない。
だが実際に向かい合えば、性能そのものが違った。
読むことはできる。
予測もできる。
それでも、動き出してから対応していたのでは間に合わない。
「……なるほど」
今度の「なるほど」は、先ほどとは少し意味が違った。
答えが分かったわけではない。
むしろ。
新しい問題が、はっきり見えた。
◇
実技試験を終えて訓練場を出ても、周囲のざわめきはしばらく続いていた。
「本当に魔力ゼロだったんだな」
「でも防護魔法相手に結構動いてたぞ」
「火球もかなり避けてなかったか?」
「最後は全然だったけどな」
好き勝手な声が聞こえてくる。
ジンは特に気にせず、打たれた肩を軽く回していた。
「大丈夫か?」
ローディたちが駆け寄ってくる。
「ああ。痛いけど、大丈夫」
「三戦全部負けたぞ」
「そうだな」
ローディは少し言いづらそうに続ける。
「……落ち込んでないのか?」
「なんで?」
「なんでって……」
ジンは少し考えてから答えた。
「思ったより収穫が多かったから」
「収穫?」
「うん」
防護魔法。
火球。
身体強化。
どれも初めて見た。
どれもまだ分からない。
だが、まったく分からなかった昨日よりは、見るべきものが増えている。
「負けた理由も、少し分かってきたし」
「……全部負けたのに?」
「負けたから分かったこともあるだろ」
「……」
ローディたちは顔を見合わせた。
どうやら、いまひとつ納得できないらしい。
ジン自身は。
少し楽しくなっていた。
◇
宿へ戻ったジンは、部屋へ入るなり机へ向かった。
昨日借りた紙を広げ、筆記具を手に取る。
まず、今日見たことを順番に書き出す。
『防護魔法――物理攻撃を遮断。身体の動き、呼吸に合わせてわずかに変化?』
疑問符をつける。
一度見ただけだ。
断定はできない。
次。
『火球――熱あり。衝撃あり。普通の燃焼とは挙動が違う可能性』
これにも。
『要検証』
と付け加える。
最後に。
『身体強化――身体能力そのものを上昇。視認できても対応が間に合わない』
そこでペンが止まった。
ジンは三つの記録を見比べる。
昨日まで。
魔法というものを知らなかった。
今日。
実際に受けた。
防がれた。
負けた。
その結果。
疑問が増えた。
「……いいな」
小さく笑う。
分からないものがある。
なら。
試せばいい。
ジンは紙の一番下へ、最後の一行を書き加えた。
『検証が必要』
筆記具を置く。
そして椅子へ身体を預け、目を閉じた。
頭に浮かべるのは。
あの白い世界。
疲労を気にする必要がなく。
失敗しても。
何度でもやり直せる場所。
今日見た動き。
受けた攻撃。
防がれた感触。
どこまで再現できるのか。
何回繰り返せば、分かるのか。
「……試すか」
ジンは静かに意識を集中させた。
白。
何もない世界。
その光景が、徐々に意識の奥へ広がっていく。
そして次の瞬間。
ジンは再び、修練空間に立っていた。




