第5話 魔力ゼロ
宿へ案内されたジンは、部屋へ入ると静かに腰を下ろした。
決して新しい建物ではないが、室内はきちんと掃除されている。簡素なベッドと机、それに小さな棚があるだけの部屋だったが、見知らぬ森から歩いてきたばかりの身には、それだけでも十分ありがたかった。
窓の外には、夕焼けに染まり始めたベルクの街が広がっている。
通りでは、露店から夕食らしい香ばしい匂いが漂い、仕事を終えた人々が家路を急いでいた。その中で、指先へ小さな火を灯す男がいれば、桶へ水を満たしている女性もいる。少し離れた家では、子供が起こした風を使って洗濯物を揺らしていた。
魔法がある。
ただ存在しているだけではない。
使われている。
火を起こし、水を出し、風を起こす。その光景にいちいち足を止める者はいない。
この世界では、魔法は特別な力ではない。
生活の一部なのだ。
「……すごいな」
思わず声が漏れた。
映画でも、映像でもない。
本物だった。
ジンはしばらく窓の外を眺めていたが、やがて机へ向き直った。
宿の主人に頼んで借りた紙と筆記具が置いてある。
地球にいた頃なら、こういう時はノートを開いていた。
見たこと。
気づいたこと。
分からなかったこと。
頭の中だけで考えず、一度言葉にして整理する。
やることは同じだった。
ジンは紙の一番上に、一行だけ書いた。
『まず、この世界の魔法を知る』
その文字を見ながら、少し考える。
今はまだ、何も分からない。
魔力とは何なのか。
魔法はどうやって発動するのか。
なぜ自分には魔力がないのか。
そもそも、本当にないのか。
材料が足りない状態で考え続けても、想像が増えるだけだ。
まず見る。
そこから仮説を立てる。
試せるものは試す。
結果が違えば考え直す。
地球にいた頃から、ずっとそうしてきた。
「……まあ、一つずつだな」
ジンは紙を机へ置いた。
◇
翌朝。
ジンはローディたちとともに冒険者ギルドへ向かった。
通りを歩きながら、ローディがふと思い出したように口を開く。
「そういえばジン。この国の名前も知らないんだよな?」
「……知らない」
「やっぱりか」
ローディは苦笑した。
「ここはアルディア王国。ベルクはその北部にある街だ」
「アルディア王国……」
「ああ。まあ、今はそれだけ覚えておけばいい」
「分かった」
ジンはその名前を頭の片隅へ置いた。
アルディア王国。
今、自分がいる国の名前。
それもまた、この世界について初めて知ったことの一つだった。
昨日、遠目にも大きく見えていた建物は、近くで見るとさらに立派だった。厚い木製の扉を開けた途端、中から大勢の話し声が流れ出してくる。
「おお……」
酒場に近い賑わいだった。
壁へ貼られた依頼書を眺める者。受付で職員と話している者。装備を整えながら仲間と談笑する者。
剣。
槍。
弓。
杖。
身につけているものも様々だった。
「登録なら、あっちだ」
ローディに案内され、ジンは受付へ向かった。
「新規登録ですね」
受付の女性が慣れた笑顔で応じる。
「はい」
「では、最初に魔力量を測定します。こちらへ手をお願いします」
机の上へ置かれたのは、両手で抱えるほどではないが、それなりの大きさがある透明な水晶だった。
ジンは少し興味を覚えながら、右手を乗せる。
「……」
何も起きない。
水晶は透明なままだった。
受付の女性が一度瞬きをする。
「……すみません。もう一度お願いします」
「はい」
言われるまま、もう一度手を置いた。
やはり。
何も起きない。
「……あれ?」
女性が水晶を覗き込み、今度は少し困った顔をした。
近くにいた職員が気づいて寄ってくる。
「どうした?」
「反応しないんです」
「故障か?」
「昨日までは普通に使えてましたけど……」
職員が水晶を確認し、別の者が試しに手を置いた。
淡い光が内部へ灯る。
「あ」
「動いてるな」
視線がジンへ集まった。
「もう一回、いいですか?」
「どうぞ」
三度目。
何も起きない。
念のため角度を変え。
もう一度。
結果は同じだった。
少し離れたところから様子を見ていた年配の職員が、ゆっくりと近づいてきた。
水晶を見る。
ジンを見る。
そして、もう一度水晶を見る。
「……魔力がない」
「え?」
受付の女性が振り返る。
「反応しないんじゃない」
年配の職員は眉を寄せた。
「測るものがないんだ」
近くにいた冒険者たちの声まで、次第に小さくなっていく。
「魔力ゼロ……?」
「そんな人間いるのか?」
「聞いたことないぞ」
ざわめきが広がった。
昨日から同じ違和感を覚えていたローディたちも、さすがに言葉を失っている。
そんな中で。
一番状況を分かっていないのは、ジン本人だった。
「ゼロだと、どうなるんです?」
受付の女性は少し言葉を選んでから答えた。
「普通は……生まれた時から、誰でも多少の魔力を持っています。量にはかなり個人差がありますけど、まったくないというのは……少なくとも私は聞いたことがありません」
「なるほど」
「ですから、その……」
女性は申し訳なさそうに続ける。
「魔法を使うのは、難しいと思います」
「難しい?」
年配の職員が首を振った。
「魔力が本当にゼロなら、無理だろう」
「ああ、そういうことか」
ジンはあっさり頷いた。
「……それだけ?」
受付の女性が思わず聞き返した。
「それだけって?」
「いえ……」
もっと落ち込むと思っていたのだろう。
だが、ジンからすれば昨日まで存在すら知らなかったものだ。
使えないなら仕方がない。
それよりも。
使える人間が目の前に大量にいる。
なら、まずそちらを見ればいい。
「実技試験は受けられますか?」
「……受けるんですか?」
「そのために来たので」
職員たちは顔を見合わせる。
やがて年配の職員が頷いた。
「本人が希望するなら問題ない。魔力量だけで冒険者になれるかどうかを決めるわけじゃないからな」
「じゃあ、お願いします」
◇
ギルドの訓練場には、いつの間にか普段より多くの人間が集まっていた。
「本当に魔力ゼロだって?」
「測定器が全然反応しなかったらしい」
「それで実技受けるのかよ」
珍しいものを見るような視線がジンへ集まっている。
当の本人は、あまり気にしていなかった。
目の前にいる試験官の方が気になる。
向かい合った男が木剣を構えた。
その身体の表面には、薄い光の膜が浮かんでいる。
「……それ」
ジンが思わず見る。
「防護魔法だ」
試験官が答えた。
「実技試験だからな。多少の打撃なら、これで受けられる」
「へえ……」
半透明。
身体の輪郭は普通に見える。
昨日街で見た生活魔法とも違う。
ジンの視線が自然とそこへ吸い寄せられた。
「おい」
「はい?」
「俺じゃなくて魔法ばっかり見るな」
「あ、すみません」
「……変なやつだな」
試験官は呆れたように息を吐き、木剣を構え直した。
「いいか。勝敗だけを見る試験じゃない。動き、判断、武器の扱いも見る。危険だと思ったらこっちで止める」
「分かりました」
「では――始め!」
合図と同時に、ジンは間合いへ入った。
力任せには振らない。
まずは普通に。
相手の肩口へ木剣を打ち込む。
――ガッ。
「……」
手に返ってきた感触に、ジンの眉が僅かに動いた。
人体を打った感触ではない。
木剣は薄い光へ触れたところで止まり、身体まではほとんど届いていない。
「硬いな」
「どうした。その程度か?」
試験官が笑う。
ジンは答えず、もう一度木剣を振った。
横。
斜め。
今度は突き。
角度を変える。
強さも少し変える。
結果はほぼ同じだった。
薄い膜が揺れ、そのたびに打撃を受け止める。
「……なるほど」
「何がなるほどだ!」
試験官の木剣が飛んできた。
ジンは身体全体を僅かに移し、刃筋から外れる。
一身。
足だけを先に逃がすのではなく、頭から足元までを一つの位置関係のまま動かす。
地面を強く蹴ったようには見えない。
身体そのものが、すっと横へ滑った。
「……?」
試験官が一瞬だけ眉を寄せる。
その間にも、ジンは見ていた。
木剣。
肩。
腰。
足。
呼吸。
そして。
身体を覆う、薄い光。
「……」
胸が膨らむ。
吐く。
薄い光が、ごく僅かに揺れた。
もう一度。
吸う。
吐く。
また。
「一定じゃない……?」
思わず声に出た。
「何?」
防護魔法は、ただ固まった膜として存在しているわけではない。
少なくとも、そう見える。
呼吸の変化と。
身体の動きと。
光の揺らぎ。
何かが連動している。
「面白いな……」
「試験中だぞ!」
「あ」
気づいた時には遅かった。
試験官の木剣が肩へ叩き込まれる。
バシッ!
「っ!」
防護魔法のないジンの身体に、衝撃がそのまま通った。
足元が崩れ、数歩分後ろへ流される。
「一本!」
見ていた冒険者たちから声が上がった。
「終わったな」
「そりゃそうだろ」
ジンは肩へ手を当てながら身体を起こした。
「……痛い」
当然だった。
当たれば痛い。
相手だけは防護魔法を使っているのだから、条件としてはこちらの方がずっと不利だ。
だが。
頭の中に残っていたのは、そのことではなかった。
打たれる直前。
試験官が大きく動いた時。
防護魔法の光も変化していた。
「……」
もう一度見たい。
一回だけでは分からない。
たまたま呼吸と重なっただけかもしれない。
「負けたのに笑ってるぞ」
誰かが呟いた。
ジンは自分が少し笑っていることに気づいた。
「……一つ、分かったかもしれない」
「かもしれない?」
試験官が怪訝そうな顔をする。
「まだ一回だから」
「……何の話だ?」
ジンは答えなかった。
一回では足りない。
同じ現象がもう一度起きるか。
条件を変えても同じなのか。
確認しなければ。
分かったとは言えない。
◇
「第二試合!」
次の試験官が訓練場へ入ってきた。
今度はローブを纏った若い男だった。
男が右手を上げると、その掌の上へ小さな炎が灯る。
「今度は魔法使いか」
「魔力ゼロ相手じゃ、さすがに終わりだろ」
周囲が再びざわつく。
ジンは木剣を握り直した。
肩はまだ痛む。
だが。
それ以上に。
目の前の炎が気になっていた。
「準備は?」
「大丈夫です」
試験官が右手を前へ出す。
「では――始め!」
炎が膨らんだ。
次の瞬間。
火球が、ジンへ向かって放たれた。




