第75話 交差
ベルクを覆っていた巨大な防壁はすでに消えていたが、街に広がった緊張までは消えていなかった。
つい先ほどまで空を覆っていた半透明の膜を見上げていた住民たちは、今度は何が起きたのかを確かめようと通りへ集まり、兵士たちは人々を押し戻しながら各所を走り回っている。大きな被害こそ出ていないものの、三度にわたって街全体を揺らした衝撃は強く残っており、あちこちから状況を尋ねる声や、家族の無事を確認する声が絶えず聞こえていた。
そんな街の中央。
普段は大規模な移動や緊急時にしか使われない広場では、巨大な転移術式の準備が急速に進められていた。
「座標固定、完了!」
「魔力供給を開始します!」
複数の魔法使いが配置につき、一斉に魔力を流し込むと、石畳へ刻まれた巨大な魔法陣が端から順番に光を帯びていく。
一本の線が輝けば、それに接続した次の線が光り、その光が円環を巡りながら術式全体へ広がっていく。
やがて。
広場全体が眩い光に包まれた。
空気が僅かに歪み。
中央へ光が集まり。
次の瞬間。
そこに五人の人影が現れた。
最初に足を踏み出したのは、金髪の青年だった。
白銀を基調とした鎧を身につけ、その腰には一振りの剣が下げられている。長距離転移を終えた直後にもかかわらず、その立ち姿に乱れはなく、後ろに現れた四人も周囲の状況を確認しながらすぐに隊列を整えた。
人類最強の戦力。
魔王軍との戦い、その最前線に立つ存在。
勇者一行。
広場で待機していた兵士たちの空気が、一瞬で変わった。
だが。
勇者本人は周囲の視線には反応しなかった。
転移術式の光が完全に消えた直後、腰に下げた剣から僅かな振動が伝わったからだ。
「……」
勇者の足が止まる。
隣にいた仲間の一人が気づいた。
「どうした?」
勇者は腰の剣へ一度視線を落としたあと、街の外へ顔を向けた。
「魔族がいる」
その一言で。
周囲にいた兵士たちが僅かにざわめいた。
「近いのか?」
「それなりには」
勇者はそう答えながらも、それ以上気にした様子はなかった。
魔族の反応を感じること自体は珍しくない。
つい先ほどまで北西戦線にいたのだから、むしろ何も感じない時間の方が少ないくらいだった。
「先に状況を聞こう」
勇者が言うと、待機していた軍人がすぐに前へ出た。
「ご到着ありがとうございます。約一時間前、ベルクに対して大規模な遠距離攻撃が行われました」
「被害は?」
「現在確認されている限り、重大な被害はありません。街に残されていた古代遺跡の防壁機能が自動的に作動し、三発すべてを防ぎ切っています」
勇者が僅かに眉を上げる。
「長距離を狙撃出来るほどの大規模な攻撃を三発防いだのか」
「はい」
軍人はすぐに地図を広げ、ベルクから離れた山岳地帯の一角を指した。
「発射地点についても概ね特定できています。攻撃軌道と残留魔力、それに複数の目撃情報を照合した結果、この周辺から発射された可能性が高いと判断されています」
「敵の姿は?」
「確認されていません」
「なら、魔王軍と断定した根拠は?」
勇者が尋ねる。
軍人は一瞬だけ言葉を選んだ。
「使用されたものが大規模な魔術であったためです。現時点では、魔王軍による攻撃である可能性が高いと判断されています」
「可能性が高い、か」
「はい。ただし発射地点へ到達した部隊はまだありませんので、現地の状況は不明です」
勇者は地図を見たまま数秒考え、それから後ろの四人へ視線を向けた。
「先に確認する」
誰からも異論は出なかった。
「行こう」
五人が広場の端へ移動し、それぞれが魔力を展開すると、身体がゆっくりと地面から浮かび始める。
高位の飛行魔法。
一般的な魔法使いであれば長時間の維持すら難しい術を、五人は移動手段として当然のように使い、そのまま高度を上げていった。
「勇者様!」
軍人が下から声を上げる。
「現地部隊との連携を――」
「先に見る。後続は予定通り動かしてくれ」
「はっ!」
五人はそれだけ告げると、ベルクの上空を離れた。
速度が上がる。
街が一気に遠ざかり。
五つの影は。
光弾が飛んできた方角へ向かって真っ直ぐ飛び去っていった。
◇
その頃。
ベルクから離れた山岳地帯の先。
光弾が放たれたと推測される場所では、すでに二人の魔族が調査を始めていた。
周囲は荒れた岩と乾いた土が広がる荒野で、ところどころに低い草が生えている程度しかない。
その一角だけ。
地面の様子が明らかに違っていた。
広い範囲にわたって土が削れ、何か巨大なものが置かれていたような痕跡が残っている。地面には複数の溝が走り、その周辺には高熱に晒されたらしい黒い焦げ跡まで広がっていた。
グレドは巨大な盾を背負ったまま、その跡の一つへしゃがみ込んでいた。
「……随分派手にやったみたいですね」
指先で土を掬い、焦げた部分を軽く崩す。
「何か分かりますか、セレク様」
「今調べてるところ」
少し離れた位置に立っていたセレクは、眼鏡の位置を指先で直すと、そのまま片手を地面へ向けた。
淡い光が掌から広がり、複数の小さな術式へ分かれながら地面を這っていく。
一つは残留魔力。
一つは術式の痕跡。
さらに別のものが周囲へ残った魔力の流れを拾い、それぞれの結果をセレクの周囲へ薄い光として浮かび上がらせていった。
グレドは立ち上がり、その様子を邪魔しないよう少し距離を取る。
しばらくして。
セレクが僅かに眉を寄せた。
「魔術が使われたのは間違いないわね」
「こちらのものですか?」
「それを調べてるの」
「分かりました」
すぐに黙り、グレドは周囲の警戒へ戻った。
セレクは浮かんでいる解析結果を一つずつ確認していく。
残っている魔力。
術式の構造。
展開された順番。
使われた魔力量。
どれも大規模でありながら、不自然なほど整っている。
「……妙ね」
小さく漏れた声に、グレドが振り返った。
「何かありましたか?」
「綺麗すぎる」
「綺麗?」
「術式がよ」
セレクは空中に浮かぶ光の一部を指で動かし、別の解析結果と重ね合わせた。
「魔術っていうのは、どれだけ同じ術を使っても完全には同じにならないの。構築する人間――まあ、人間じゃなくてもいいけど、術者ごとに魔力の流し方や組み立て方に癖が出る」
「筆跡みたいなもんですか?」
「そうね。それに近い」
セレクはさらにいくつかの術式痕を拡大する。
「でも、これはほとんどない」
「癖が?」
「ええ」
大量の魔力を扱った痕跡が残っている。
複雑な術式が組まれた形跡もある。
なのに。
そこに術者らしさがない。
「精度が高いというだけじゃないんですか?」
「違うわ」
セレクは即座に否定した。
「上手い術者ほど無駄は減るけど、それでも癖までは消えない。むしろ熟練すればするほど、自分にとって効率のいい組み方へ寄っていくから特徴が出ることもある」
グレドが地面に残る痕跡へ視線を落とす。
「じゃあこれは?」
「……誰かが一度作った完成形を、そのまま何度も再生したみたい」
セレクはそう言ってから、自分でも違和感があるのか小さく首を傾げた。
「少なくとも、誰かがその場で一から組み上げた術式には見えないわね」
「そんなことできるんですか?」
「知らない」
「セレク様でも?」
「知らないものは知らないわよ」
「それもそうですね」
グレドは素直に引いた。
セレクは再び地面へ視線を落としたものの、解析結果を見ても新しい情報は増えない。
魔術。
それも極めて大規模。
だが。
魔王軍で使われている術式には一致しない。
少なくとも。
自分が知っているものには。
「報告が必要ね」
セレクが立ち上がる。
「魔王様に?」
「他に誰がいるのよ。こんなの黙って帰ったら私が怒られるわ」
「俺も怒られそうですね」
「あなたはついてきただけでしょ」
「一緒にいたってだけで巻き込まれる時あるんですよ」
「日頃の行いじゃない?」
「セレク様にだけは言われたくないですね」
「何か言った?」
「何も」
グレドはすぐに前を向いた。
その時。
セレクの動きが止まった。
「……」
何かを感じ取るように顔を上げる。
グレドもその変化に気づいた。
「どうしました?」
「来る」
短い一言で。
グレドの雰囲気も変わった。
「何がです?」
セレクは返事をせず、遠くの空へ目を向ける。
まだ何も見えない。
だが。
感じる。
大きな魔力反応が複数。
それも。
高速で近づいている。
そして。
その中に。
嫌というほど覚えのある反応が一つ混じっていた。
「この感じ……」
セレクが小さく息を吐く。
「勇者ね」
「……マジですか」
グレドの声から、普段の丁寧さが少しだけ抜けた。
「こんなタイミングで?」
「だから今来るんでしょうね」
セレクはすぐに周囲へ視線を走らせた。
「ここを離れるわよ」
「向こうが見逃してくれると思います?」
「思わない」
「ですよね」
グレドは背負っていた巨大な盾へ手を掛けた。
「それでも逃げます?」
「戦うために来たわけじゃないもの」
「俺もです」
「じゃあ走りなさい」
「もう遅い気がするんですが」
グレドが空を見る。
今度は。
見えた。
遠方の空に、小さな影が浮かんでいる。
一つ。
その後ろにもう一つ。
さらに三つ。
合計五つ。
最初は点にしか見えなかったそれらが、凄まじい速度で大きくなっていく。
「……間に合いませんね」
「そうね」
セレクは逃げることを諦めたのか、解析用に展開していた術式の数を減らし不足の事態に対応できるだけの余力を残した。
グレドも背中から巨大な盾を下ろし、地面へ強く突き立てる。
五つの影は止まらない。
一直線に。
こちらへ向かってくる。
やがて。
先頭を飛ぶ人物の姿まで見える距離へ入った。
金色の髪。
白銀の鎧。
腰に下げられた剣。
その姿を確認した瞬間、グレドは盾を構えながら小さく息を吐いた。
「本当に勇者じゃないですか」
「だから言ったでしょ」
「疑ってたわけじゃないですよ」
「じゃあ何」
「来てほしくなかっただけです」
五つの影が。
速度を落とし始めた。
向こうも。
こちらを見つけている。
セレクは何も言わず、近づいてくる勇者一行を見上げた。
グレドも盾の陰から視線を外さない。
人間側は。
魔王軍の攻撃だと疑っている。
魔族側は。
自分たちのものではない魔術を調べに来た。
だが。
その事情を。
今の時点で。
互いに知るはずもなかった。
そして。
両者の距離は。
もう。
言葉が届くところまで縮まっていた。




