第52話 石の扉
武器屋から整備を終えた剣を受け取ったジンたちは、その日の昼前にはベルクの北門を出ていた。
昨日まで街の周囲に張り詰めていた空気は、魔王軍が撤退したことでかなり薄れている。街道には商人や旅人の姿が戻り始め、遠くでは荷物を積んだ馬車がゆっくりと南へ向かっていた。
「ちゃんと直ってる?」
隣を歩くアインに聞かれ、ジンは腰の剣へ手を伸ばした。
「多分」
「多分じゃ困るんだよ」
仕方なく歩きながら剣を抜き、刃を光へかざすようにして確認する。戦闘でついた細かな傷は消え、刃こぼれも綺麗に整えられていた。
「大丈夫そう」
「ならしまえ。歩きながら抜くな」
「はい」
素直に剣を鞘へ戻すと、隣を歩いていたフィナが小さく笑った。
「アインさん、完全に保護者ですね」
「誰のせいだと思ってんだ」
「ジンさんですか?」
「お前も半分くらい入ってる」
「私もですか?」
「昨日のこと忘れたとは言わせねえぞ」
そこで三人の会話が一度途切れた。
昨夜、軍用区画から逃げ出した変異個体のタスクボアについては、今朝ギルドでも冒険者たちが騒いでいた。巨大なタスクボアが柵を壊して逃げた、杭まで抜けていたらしい、と話はすでに広がっている。
ただし、誰が逃がしたのかまでは分かっていない。
なら。
「昨日は何もなかった」
アインが前を向いたまま言った。
「何も?」
「何もだ」
「分かりました」
フィナがすぐに頷く。
「俺たちは普通に休んでた」
「買い物はしたよ」
「そこはいいんだよ」
そんな話をしながら街道を進み、やがて三人は北の森へ入った。
◇
今回探すのは、ベルクを拠点に活動していた五人組の冒険者だった。
全員が中堅以上の経験を持ち、魔物の動きに異変が出始めた頃、その原因を調べるため北の森へ入っている。本来の調査範囲は森の浅い場所までだったが、最後に彼らを見た者の話では、夜になると森の奥で見えるという光について話していたらしい。
「まずは予定してた場所まで行く」
先頭を歩くアインが地図を確認する。
「そこで痕跡を探して、奥へ向かった形跡があるか確かめる」
「見つけたら追う?」
「状況次第だ。境界まで行きそうなら、一回戻る」
「了解」
「本当に分かってる?」
「分かってるよ」
「ジンさん」
今度はフィナまで横から念を押してきた。
「今回はグレドさんたちのこともありますからね」
「境界を越えないとは約束してないけど」
「だったら――」
「そういう問題じゃねえ」
何か言おうとしたジンを、アインが即座に遮った。
「今回あいつらがベルクまで来た理由を考えろ。人間側が境界を越えたこと自体を問題にしてるんだぞ」
「分かってるって」
ジンは苦笑しながら答え、そのまま森の奥へ視線を向けた。
以前ここへ来た時よりも、魔物の姿はさらに少なくなっている。
静かな森。
そう言ってしまえば聞こえはいいが、実際には少し違った。
本来ここにあるはずの気配が抜け落ちている。
鳥の声も少なく、小型の魔物が茂みを動かす音もほとんど聞こえない。三人が落ち葉を踏む音と、木々の間を抜ける風の音ばかりが妙にはっきりと耳へ残った。
「やっぱり変ですね」
フィナが周囲を見回しながら言う。
「何が?」
「魔力です」
フィナは足を止め、森の奥へ意識を向けるように目を細めた。
「以前ここへ来た時より、さらに薄くなっている気がします」
「分かるの?」
「はい。正確な量までは分かりませんけど、これだけ違えば」
ジンも周囲を見渡す。
木々の見た目そのものに、大きな異常はない。葉が一斉に枯れているわけでもなければ、地面から草が消えているわけでもない。
少なくとも、魔力そのものを感じ取れないジンの目には、まだ普通の森に見える。
「見た感じは普通だけどな」
「今は、ですね」
フィナの声は少し低かった。
「この状態が続いたら、どうなるのかは私にも分かりません」
「土地が死に始めてる、か」
ジンは以前、南西の森で出会った女魔族の言葉を思い出した。
土地が死に始めている。
奪われている。
あの時はまだ、その言葉の意味がよく分からなかった。
今も答えが出たわけではない。
それでも、少なくとも一つだけは分かる。
何かが。
悪化している。
「やっぱり原因を見つけないとな」
「そうですね」
フィナも頷く。
「そのためにも、まずは冒険者の方たちを探しましょう」
「ああ」
先へ進み始めたアインを追い、二人も再び森の奥へ入っていった。
◇
一時間ほど進んだところで、先頭のアインが足を止めた。
「この辺りだ」
地図と周囲を交互に確認する。
「消息を絶った連中が、本来調べる予定だった場所」
三人もその場で立ち止まり、周囲へ視線を巡らせた。
木々。
低い草。
積もった落ち葉。
所々に露出した岩。
ぱっと見ただけでは、特に変わったものは見当たらない。
「痕跡探し?」
「ああ。人間がここにいた証拠なら何でもいい。足跡、焚き火、切った枝、捨てた物。その辺だ」
「分かった」
三人は互いに離れすぎない範囲で、周囲を分担して探し始めた。
ジンも地面と木々を視野に入れながら歩いていくが、数日前の痕跡となれば簡単には見つからない。地面には獣や魔物のものらしい足跡がいくつも重なり、その上へ落ち葉まで積もっている。
しばらくして。
「アイン」
「ん?」
「これ?」
ジンが一本の木を指差した。
幹に浅い傷が入っている。
アインが近づき、顔を寄せて確認した。
「……刃物だな」
「自然についた傷じゃない?」
「多分違う」
傷は二本。
斜めに交差するようにつけられている。
「冒険者がつけた?」
「可能性は高いな」
アインはすぐに周囲の木々も探し始めた。
すると少し離れた場所に、同じ形の傷が見つかる。
「目印か」
フィナも戻ってきた。
「進んだ方向を残していたんでしょうか?」
「多分な」
二つ目の印は、最初に見つけたものより北西側にあった。
そこからさらに探す。
三つ目。
少し奥に四つ目。
同じ印は、点々と森の奥へ続いていた。
「予定範囲を越えてるな」
アインが地図を見る。
「やっぱり光を見に行った?」
「その可能性が高い」
ならば、彼らがどちらへ向かったのかは分かる。
三人は木へ刻まれた印を追い、そのまま森の奥へ進むことにした。
進むほど木々は太くなり、頭上を覆う枝葉も増えていく。昼間にもかかわらず周囲は少しずつ薄暗くなっていったが、それでも印は途切れない。
「ここにもあります」
フィナが新しい傷を見つける。
さらに奥へ。
もう一つ。
その次も。
同じ印が続く。
そして。
「待って」
ジンが足を止めた。
「どうした?」
「これ」
木の幹を指差す。
今までと同じ、交差した二本の傷。
だが。
アインが近づき、指先で削れた部分へ触れる。
「……新しいな」
樹皮の内側が、まだ完全には乾いていない。
「他より?」
「ああ」
その言葉に、フィナの表情が変わった。
「じゃあ……誰か生きている可能性が?」
「ある」
アインはすぐに周囲へ視線を巡らせ、腰の武器へ手を伸ばした。
「ここからは警戒して進むぞ」
二人も頷く。
少なくとも。
少し前まで。
誰かがここにいた。
三人は武器へ意識を向けたまま、さらに森の奥へ進んだ。
◇
それからしばらく進んだところで。
木の印が。
突然途切れた。
「……ないな」
アインが周囲の木を一本ずつ確認する。
ジンとフィナも手分けして探したが、これまで続いていた二本の傷はどこにも見つからない。
「ここから先に行ってない?」
「それなら、引き返した痕跡があるはずだ」
「途中から別の目印に変えたとか?」
「分からん」
フィナも周囲を見ながら少し先へ進む。
数歩歩いたところで。
「アインさん」
「何だ?」
「これ……」
地面へ落ちていた何かを指差した。
布だった。
泥に汚れ、一部が大きく裂けている。
アインが拾い上げ、表裏を確認する。
「冒険者のもの?」
「多分な」
そのすぐ近くには、落ち葉が大きく乱れた場所も残っていた。
何度も踏み込まれたように土が露出し、所々が深く抉れている。
「戦った?」
ジンが尋ねる。
「かもしれない」
アインはその場へしゃがみ込み、地面に残る跡を順番に確認していった。
「足跡が多い。人間だけじゃないな」
「魔物?」
「そこまでは分からん」
三人でさらに周囲を調べる。
折れた枝。
蹴り飛ばされたようにめくれた土。
何か重いものを引きずったような跡。
そして。
「血です」
フィナの声が低くなった。
木の根元。
黒く乾いた染みが残っている。
三人の表情が変わる。
「量は?」
「少ないです。これだけでは重傷だったかどうかまでは分かりません」
「先へ続いてる」
ジンが少し離れた地面を指差す。
小さな血痕が。
森の奥へ向かって、点々と残っていた。
「追うぞ」
アインがすぐに立ち上がる。
ここからは木の印ではなく、血の跡を追った。
一つ。
その先にもう一つ。
さらに奥へ。
ただ、進むほど血痕の間隔は少しずつ広がっていく。
そして。
ついに。
見えなくなった。
「……」
三人が周囲を見回す。
その時だった。
「何か聞こえませんか?」
フィナが足を止める。
三人とも口を閉じた。
風が枝葉を揺らす音。
遠くで葉が擦れる音。
その奥に。
別の何かが混じっている。
低く。
一定の間隔で。
ごく僅かに続いている。
「……音?」
ジンが耳を澄ませる。
違う。
耳だけで聞いている感じではない。
足裏。
脚。
そこから身体へ。
微かな震えが伝わってくる。
「振動だ」
ジンは地面へ視線を落とした。
「向こうから来てる」
三人はその方向へ進み始める。
最初は意識しなければ分からないほどだった振動が、歩くにつれて少しずつ強くなる。
木々の間を抜け。
さらに進み。
やがて。
突然。
森が開けた。
「……何だ、これ」
アインが足を止めた。
木々に囲まれた小さな空間。
その中央に。
石造りの建造物があった。
建物と呼ぶには小さい。
人が数人入れば、それだけでいっぱいになりそうな大きさしかなく、窓らしいものも見当たらない。外壁の半分ほどは蔦に覆われ、長い年月を森の中で過ごしてきたことが分かる。
それでも。
自然にできたものではない。
四角く切り出された石材。
規則正しく組まれた壁。
そして正面には。
閉ざされた石の扉。
「遺跡……?」
フィナが小さく呟いた。
ジンは答えなかった。
目の前の建造物を。
じっと見ている。
「ジン?」
アインに呼ばれて。
ようやく口を開いた。
「……似てる」
「何が?」
「俺がこの国に来て最初に発見した遺跡」
二人の表情が変わった。
「遺跡に行ったことがあるんですか?」
「うん」
ジンはゆっくりと建造物へ近づいていく。
最初にいた遺跡には長い通路があり、いくつもの部屋があり、奥には固定された黒い端末まであった。
それと比べれば。
目の前の建造物は。
あまりにも小さい。
「同じものじゃない?」
「分からない」
ジンは石壁の前まで近づく。
そこで。
表面に刻まれた溝へ目が止まった。
「……」
細い線。
複雑に繋がった形。
完全に同じではない。
それでも。
どこか。
見覚えがある。
「やっぱり似てる」
ジンが無意識に手を伸ばしかけた。
「待て」
アインがその腕を掴む。
「何?」
「何じゃねえ。いきなり触るな」
「調べないと分からないよ」
「まず周りを見ろ」
「……はい」
三人は先に建造物の周囲を確認することにした。
入口らしいものは正面の石扉だけで、横へ回っても窓はなく、裏側にも別の出入口は見つからない。
そして。
建造物の側面まで回ったところで。
フィナの足が止まった。
「……これ」
地面に。
いくつもの荷物が散乱していた。
背負い袋。
水筒。
泥にまみれた外套。
そして。
折れた剣。
アインがすぐに外套を拾い上げる。
「探してる連中のものだ」
「分かるの?」
「ここ」
外套の一部を見せる。
ギルドの印が入っていた。
「……」
冒険者たちは。
ここまで来ていた。
三人の視線が、自然と建造物へ戻る。
「中にいる?」
ジンが尋ねる。
「可能性はある」
アインが正面へ回り、石扉を調べ始めた。
「でも、どうやって開けたんだ?」
取っ手はない。
鍵穴もない。
押せば動くような構造にも見えない。
分厚い石の板が。
ただ。
壁の中へ埋め込まれているように見える。
ジンもその横へ近づいた。
そして。
「これ」
扉の脇。
石壁の一部に。
淡い光が走っていた。
細い線がいくつも繋がり、規則的な模様を作っている。光が明滅するたびに、森の中で感じていた振動が足元から伝わってきた。
フィナが息を呑む。
「光……」
アインも目を細めた。
「これだったのか」
夜になると。
森の奥で光る。
消息を絶った冒険者たちが、本来の調査範囲を越えてまで確認しようとしたもの。
ジンは光る模様を間近で見つめた。
「触るなよ」
「まだ触ってない」
「今から触ろうとしてただろ」
「うん」
「やめろ」
「はい」
今度は素直に手を引く。
だが。
視線は光から離さない。
強く。
弱く。
再び強く。
石壁の上を走る淡い光が、一定の間隔で明滅している。
ように見える。
「……変だな」
「何がですか?」
フィナも光へ目を向けた。
「この光り方」
「一定に見えますけど」
「完全には同じじゃない」
アインも少し近づく。
「そうか? 俺には同じに見えるぞ」
「少しずつ違う」
ジンは黙って明滅を追う。
強い光。
短い間。
弱い光。
次は少し長い。
その次は。
また短い。
一見すると同じことを繰り返しているように見える。
だが。
完全な反復ではない。
「何かの規則がある?」
ジンが小さく呟いた。
もう少し見れば。
何か分かるかもしれない。
そう思った。
次の瞬間。
足元から伝わっていた振動が。
止まった。
「……」
三人が同時に動きを止める。
石壁を走っていた光も。
消えた。
「……止まった?」
アインの手が剣へ伸びる。
数秒。
何も起こらない。
森の音だけが戻ってくる。
そして。
ゴッ。
石の内側から。
重い音が響いた。
三人の視線が。
同時に扉へ向く。
ゴゴゴゴゴ――。
地面が震え始めた。
「ジン」
「触ってない」
「分かってる!」
閉ざされていた石扉の中央に。
細い隙間が生まれる。
その隙間が。
ゆっくりと。
広がっていく。
左右へ。
長い年月、森の中で閉ざされていた石の扉が動き始めた。
開いた隙間から。
冷たい空気が流れ出す。
三人はすぐに武器を構えた。
やがて。
重い音とともに。
石扉が完全に開く。
その先にあったのは。
巨大な地下迷宮ではなかった。
狭い石造りの空間。
奥行きもそれほどない。
壁際には、用途の分からない装置がいくつか並んでいる。
そして。
その中央。
石の床に。
一人の男が倒れていた。
「……!」
フィナが真っ先に動いた。
「待て!」
アインもすぐにその後を追う。
ジンだけは。
ほんの一瞬。
扉の前に残った。
開いた先を見つめる。
壁。
床。
奥にある装置。
石材の組み方。
刻まれた溝。
どれも。
自分が最初にいた遺跡と似ている。
同じ系統のもの。
そう思える。
なのに。
何かが違う。
「……何のための遺跡なんだ?」
答える者はいない。
ジンも遅れて二人を追い。
開いた石の扉を越えた。




