第46話 帰還
街へ戻った頃には、すでに日が傾き始めていた。
前線から戻ってきた兵士や冒険者たちは皆ひどく疲れていたが、その足取りは思ったほど重くない。負傷者に肩を貸しながら歩く者もいれば、戦いの興奮がまだ抜けていないのか、隣を歩く仲間へ身振りまで交えてグレドとの戦いを語っている者もいる。
そして。
彼らより少し早く、別のものが街へ戻っていた。
噂だった。
「来たぞ!」
門をくぐった瞬間、どこからか声が上がった。
ジンは足を止める。
「何が?」
「お前らだよ」
隣を歩いていたアインが呆れたように答えた。
改めて周囲を見れば、街道の両脇には妙に人が多い。
商人や職人、仕事帰りらしい男たちに、買い物籠を抱えた女。さらに、その間へ子供まで混ざっている。普段なら兵士や冒険者が前線から戻った程度で、これほど人が集まることはない。
しかも。
その視線が、ほとんど全部こちらへ向いていた。
「……なんか見られてない?」
「見られてますね」
フィナが小さく答える。
「なんで?」
「お前、本気で言ってんのか?」
アインがそう返した直後、通りの向こうから一人の男が人混みを抜けて駆け寄ってきた。
「あんたがジンか!」
「そうだけど」
「本当にグレドを倒したのか!?」
「倒したっていうか……退かせた」
「同じようなもんだろ!」
「結構違うと思うけど」
だが、男はもう細かい違いなど聞いていなかった。
「やっぱりそうか!」
その声へ反応するように、周囲からさらに人が集まってくる。
「おい、あいつだってよ!」
「羅針盤のジン!」
「本当に若いな!」
「グレドの盾を蹴り砕いたって聞いたぞ!」
「砕いてない」
ジンは即座に訂正した。
「え?」
「盾は壊れてない」
「でも、蹴ったんだろ?」
「蹴った」
「じゃあ大体合ってるだろ!」
「合ってないと思う」
困ったようにアインを見ると、その本人は笑いを堪えている。
「もう諦めろ」
「話変わってるんだけど」
「噂なんてそんなもんだ」
すると今度は、別の場所から声が飛んできた。
「俺は素手で盾を割ったって聞いたぞ!」
「剣持ってたよ!」
「盾ごとグレドを十メートル吹き飛ばしたんじゃないのか!?」
「そんな飛んでない!」
「お前、全部訂正するつもりか?」
「だって違うから」
「明日にはもっと増えてるぞ」
「嫌だな……」
ジンが本気で嫌そうな顔をすると、隣でフィナが笑った。
「でも、いいじゃないですか。悪い噂じゃありませんし」
「フィナの噂もあるかもしれないよ」
「私ですか?」
「巨大な魔物を一瞬で完全回復させて敵陣に放った魔獣使いとか」
「やめてください!」
「それいいな」
「アインさん!」
三人が言い合っている間にも、人は少しずつ増えていく。
その中には、普段ギルドで顔を合わせている冒険者の姿もあった。これまでなら軽く手を上げる程度だった相手が、今日は明らかに違う目で三人を見ている。
「羅針盤!」
一人の冒険者が声をかけてきた。
三人が振り返ると、男は満面の笑みで親指を立てる。
「やるじゃねえか!」
「ありがとう」
「今度、酒奢らせろ!」
「俺にも!」
アインが即座に答えた。
「お前が返事すんなよ!」
「酒だぞ?」
「俺に言ってるんだよ!」
「パーティなんだから同じだろ」
「そうなの?」
「知らん」
「知らないのに言ったの?」
フィナがまた笑う。
昨日までと同じ街だった。
同じ道。
同じ建物。
同じ店。
何も変わっていないはずなのに。
三人を見る人々の目だけが変わっていた。
ジンはその感覚がどうにも落ち着かず、無意識のうちに少しずつ歩く速度を上げていった。
◇
「疲れた……」
冒険者ギルドへ入った瞬間、ジンは大きく息を吐いた。
「グレドと戦った後より疲れてない?」
「人に囲まれる方が苦手」
「よくそれで冒険者やってるな」
「戦うのと喋るのは別だろ」
「そこは分かる気がします」
フィナが頷く。
だが。
「おい」
アインが入口のすぐ先で足を止めた。
「……こっちもか」
ギルドの中が妙に静かだった。
依頼掲示板の前にいた冒険者も、受付の職員も、酒場代わりの一角で飲んでいた者たちも。
ほぼ全員がこちらを見ている。
「帰る?」
ジンが尋ねる。
「入ったばっかりだろ」
「まだ間に合う」
「何にだよ」
そんなやり取りをしていると、奥から受付の女性が歩いてきた。
「お帰りなさい」
「ただいま」
「ずいぶんと大きな仕事をしてきましたね」
「依頼じゃなかったけど」
「それでもです」
受付の女性は三人を見回すと、少しだけ表情を改めた。
「ギルド長がお呼びです」
「……怒られる?」
「なぜそう思うんですか」
「こういう呼ばれ方って大体怒られるから」
「ジン、お前の元いたところどんな場所だったんだよ」
「普通だよ」
「絶対普通じゃねえだろ」
受付の女性は笑いを堪えながら首を振る。
「今回の戦闘について、お話を聞きたいそうです。軍からも担当者が来ています」
その言葉に。
アインの表情から少しだけ笑みが消えた。
「軍も?」
「はい」
「……なるほどな」
先ほどまでの軽い空気が、ほんの少し変わる。
ジンにも理由は分かった。
「グレドの話?」
「多分な」
アインが小さく答える。
三人は受付の女性に案内され、そのままギルドの奥へ向かった。
◇
通された部屋には、すでに三人の男が待っていた。
一人は冒険者ギルドの長。
もう一人は、先ほどまで街の防衛を指揮していた男――防衛隊長のルーセル。
そして最後の一人は、ジンの知らない男だった。
年齢は四十代ほどだろうか。
整えられた軍服を着ており、胸元にはいくつかの徽章が並んでいる。服装を見る限り、ルーセルよりも明らかに階級は上だった。
「来たか」
ルーセルが三人を見る。
「まず座ってくれ」
三人が席につくと、軍服の男が口を開いた。
「私はこの地域の防衛を担当しているレオン・ハルヴァートだ」
低く、落ち着いた声だった。
「今回の件については、すでに報告を受けている」
レオンはそのままジンを見る。
「グレドを退けたそうだな」
「はい」
「礼を言う。君たちがいなければ、状況はさらに悪化していた可能性が高い」
「俺だけじゃないです」
「報告にもそう書かれている」
レオンは僅かに笑った。
「羅針盤、だったな」
三人がほんの少し反応する。
もう軍にまで名前が伝わっている。
「はい」
今度はアインが答えた。
「いい名だ」
「ありがとうございます」
「ただし」
レオンの表情が元へ戻る。
「今日君たちを呼んだ理由は、感謝を伝えるためだけではない」
やはり。
アインが僅かに身を乗り出した。
「グレドと話した内容についてですね」
「ああ」
レオンはルーセルを一度見てから続ける。
「報告では、戦闘の最中にグレド本人からいくつかの情報を得たとある」
「俺が聞きました」
「確認したい。できる限り正確に話してくれ」
アインは頷くと、グレドとの会話を順番に説明していった。
北の森。
そのさらに奥。
人間と魔族の双方が立ち入らないと決めていた境界。
そこへ人間の調査隊が侵入したこと。
そして同じ頃から、境界周辺で魔物の動きが変わり始めたこと。
話が進むにつれ、レオンの表情は少しずつ険しくなっていく。
「グレドは確かに『人間の調査隊』と言ったのだな?」
「言いました」
「所属は?」
「そこまでは聞けませんでした。ただ、人間側が境界を越えたとはっきり言ってました」
「証拠については?」
「ある、と」
レオンはそこで黙り込んだ。
その反応を見て、ジンが尋ねる。
「心当たりあります?」
「……ない」
返答は短かった。
「少なくとも、私の管轄ではそのような調査隊を派遣していない」
その一言で、部屋の空気が変わる。
ギルド長も腕を組んだ。
「こちらにも記録はない。北方へ向かった冒険者についてはある程度把握しているが、境界を越えるような調査依頼は出していない」
「じゃあ」
フィナが戸惑ったように二人を見る。
「グレドさんが嘘を?」
「その可能性も否定はできない」
レオンが答える。
だが。
アインはすぐには頷かなかった。
「……なんか違う気がするんだよな」
「理由は?」
「感覚です」
「感覚か」
「はい。ただ、あいつは答えられないことには普通に答えなかった。四天王の名前を聞いても教えなかったし、魔王についても余計なことは喋らなかった」
アインは机の上で指を組む。
「そんな奴が、わざわざ調査隊の話だけ作るかなって」
レオンはその意見を否定しなかった。
「私も同じ点を懸念している」
「というと?」
「私が知らないからといって」
レオンはそこで一度言葉を切る。
「人間側の誰も知らないとは限らない」
部屋の中が静かになった。
ジンがゆっくり尋ねる。
「もっと上の人が動かした可能性がある?」
「あるいは」
レオンが答える。
「軍とは関係のない者たちが、独自に動いたか」
ギルド長が低い声で続けた。
「どちらにせよ、ろくな話ではないな」
◇
「もう一つあります」
それまで黙っていたフィナが口を開いた。
全員の視線が集まる。
「今日の戦闘で、気になったことがありました」
「何だ?」
「魔力です」
フィナは少し考えながら、言葉を選ぶ。
「セイルさんだけではありません。戦闘後、何人もの魔法使いを診ましたが、皆さん魔力の戻りが遅かったんです」
レオンの眉が動いた。
「戦闘で消耗したからではないのか?」
「もちろん、それもあります。でも……それだけでは説明しづらいです」
「どういうことだ?」
フィナは机の上で両手を軽く重ねた。
「人の身体には、一度に扱える魔力量があります。でも、使って減った魔力は身体の中だけで元へ戻しているわけではありません。周囲にある魔力を取り込み、自分が扱える形へ整えることで、少しずつ回復していきます」
全員が黙って聞いている。
「だから普通なら、戦っている最中でも少しずつ魔力は戻っているんです。もちろん、使う量の方が多ければ最後には魔力切れになります。でも今回は」
フィナは僅かに眉を寄せる。
「その戻り方そのものが遅かったんです」
「周囲の魔力が薄い?」
ジンが尋ねる。
「可能性はあります」
「やっぱり森と同じか」
「はい」
フィナは頷いた。
「以前受けた調査依頼でも、森の奥へ進むほど周囲の魔力が薄くなっているのは確認していました。あの時も魔法自体は使えましたけど、使った後の戻りが明らかに遅かったです」
「それについては、こちらにも報告がある」
ギルド長が口を挟む。
「ここ数ヶ月、北方を中心に似た報告がいくつか上がっていた。魔物の生息域がずれた、魔力の戻りが以前より遅い、場所によって周囲の魔力が薄く感じる――どれも当時は別々の異変として扱っていたがな」
「では、数ヶ月前から始まっていた?」
レオンが尋ねる。
「いや」
ギルド長は首を振った。
「報告が上がり始めたのがその頃というだけだ。実際にいつから始まった現象なのかは、まだ判明していない」
「……なるほど」
レオンが低く呟いた。
「だから魔王軍はあれだけ長く戦えたのか?」
ルーセルが尋ねる。
「それについては、少し違います」
フィナが答えた。
「人間が主に使うのは魔法です。自分や周囲の魔力を使って、必要な現象を起こす。大きな力を出しやすい代わりに、その分どうしても消費量も増えます」
セイルが作り出した巨大な氷塊。
あれほどの現象を一度に生み出すなら、当然、大量の魔力が必要になる。
「一方で、魔族が使っていたのは魔術です。大きな現象を起こすというより、魔力そのものをどこへ、どの程度、どう流すかを細かく制御していました」
ジンはグレドの戦いを思い出す。
槍。
盾。
鎧。
全部を同時に強化していたわけではない。
盾で受ける瞬間には盾へ。
槍を使う瞬間には槍へ。
必要な場所へ。
必要な瞬間だけ。
魔力を集中させていた。
「つまり」
アインが腕を組む。
「俺たちは魔力をバカスカ使って、向こうは節約しながら戦ってた」
「言い方は悪いですけど……大体そうです」
「じゃあ魔族が強かったっていうより、こっちが勝手に先に息切れしてた部分もあるのか」
フィナは少し困ったような顔をした。
「……両方だと思います」
「だよな」
ジンが笑う。
「グレド普通に強かったし」
「お前は嬉しそうに言うな」
その一言で、張り詰めていた空気がほんの少しだけ緩んだ。
だが。
レオンだけは笑わなかった。
「ここ数ヶ月、似た報告が続いていたということは」
レオンはギルド長を見る。
「少なくとも今日突然始まった異変ではない」
「そうなる」
「……少しずつ、か」
その言葉に。
ジンは引っかかった。
少しずつ。
気づかないほど。
ゆっくりと。
何かが変わっている。
森から魔物が逃げてきた。
周囲の魔力が薄くなった。
使った魔力の回復が遅くなった。
そして。
その少し前には、人間の調査隊が境界を越えたという。
今はまだ、それぞれ別々の出来事に見える。
だが。
「時期」
ジンが呟いた。
「何?」
アインが見る。
「全部、いつからなのか調べた方がいいんじゃない?」
レオンの視線もジンへ向く。
「魔力が薄くなり始めた時期。魔物の生息域が変わり始めた時期。それと、その調査隊が北へ行った時期」
「……」
「もし近かったら」
ジンはそこで言葉を止めた。
まだ。
根拠はない。
だから。
決めつけることはできない。
「何か繋がってるかもしれない」
部屋の中が静かになった。
やがて。
ギルド長が椅子から立ち上がる。
「調べてみる価値はあるな」
「こちらでも記録を洗おう」
レオンも頷いた。
「ルーセル。周辺の監視所にも問い合わせを」
「了解した」
ルーセルが短く答える。
「ギルドでは?」
アインが尋ねる。
ギルド長はすぐには答えず、僅かに表情を曇らせた。
「北へ向かった冒険者と、南へ向かった部隊の消息は」
一度。
言葉を切る。
「いまだ掴めていない」




