第45話 羅針盤
魔王軍の姿が森の向こうへ消えてからも、すぐに武器を下ろす者はいなかった。
本当に退いたのか。
森の中で態勢を立て直し、再び戻ってくるのではないか。
そんな疑念がまだ残っているのだろう。兵士たちは槍や剣を構えたまま、魔王軍が消えた北の森を見つめ続けていた。
戦闘が止まったことで、かえって周囲の静けさが耳につく。
荒い呼吸。
誰かが鎧を動かす音。
負傷者を運ぶ足音。
それ以外は、何もない。
やがて、見張り台から大きな声が上がった。
「魔王軍、後退を続けています!」
その場にいたほとんどの人間が一斉に顔を上げる。
「北へ向かっています! こちらへ戻る動きはありません!」
数秒。
誰も反応しなかった。
まだ、その言葉を信じていいのか分からない。そんな空気だった。
だが。
「……勝った」
誰かが小さく呟いた。
その一言をきっかけに、戦場全体を覆っていた緊張が一気に弾けた。
「勝ったぞ!」
「街を守った!」
「魔王軍が退いたぞ!」
あちこちから声が上がり、兵士たちは互いの肩を叩き合う。力が抜けたようにその場へ座り込む者もいれば、武器を放り出して仰向けに倒れる者までいた。
無理もない。
戦いが始まった時、人間側にはほとんど勝ち目が見えていなかった。
魔法を使えば使うほど魔力は減り、周囲からの回復も追いつかない。それに対して魔族側は必要な瞬間、必要な場所へだけ魔力を使い、消耗を抑えながら戦い続けていた。
さらに、その後ろにはグレドがいた。
街の戦力を集めても止められるか分からない相手。
その男が、今はもういない。
「……終わったんですね」
フィナが力の抜けた声で言った。
「今日のところはな」
アインが答える。
「また来ますかね」
「来るだろ」
「即答ですね……」
「グレドも『今日の進軍は取りやめる』って言ってたからな。二度と来ないとは言ってねえ」
「ですよね……」
フィナが小さく息を吐く。
ジンは二人の会話を聞きながら、まだ森の向こうを見ていた。
頭に残っているのは、グレドが戦いの合間に話したことだった。
人間側が境界を越えた。
双方が立ち入らないと決めていた土地へ、調査隊が入った。
そして、その頃から魔物の動きまで変わり始めている。
「ジンさん?」
フィナに呼ばれ、ジンはようやく視線を戻した。
「何考えてたんですか?」
「グレドが言ってたこと」
「調査隊の話ですか?」
「うん」
ジンは少しだけ考える。
「あれ、本当だと思う?」
フィナはすぐには答えず、一度森へ目を向けた。
「分かりません。でも……」
それから。
「嘘をついているようには見えませんでした」
「俺もそう思う」
アインが会話へ入る。
「少なくとも、あいつは自分が知らないことまで適当に喋るタイプじゃねえ。答えられないことには、普通に答えなかったからな」
「四天王の名前とか?」
「ああ」
アインは腕を組んだ。
「だから余計に面倒なんだよ」
「何が?」
「本当に人間側が何かやってる可能性が出てきた」
「……」
ジンは黙った。
もしグレドの話が事実なら、今回の魔王軍の進軍は単純な侵略ではない。
人間側にも原因がある。
あるいは、何かを知っていて、それを隠している者がいる。
「まあ、その辺は俺たち三人で考えてても仕方ねえ」
アインが言った。
「今は――」
そこで言葉が止まる。
「どうしたの?」
「……いや」
アインはジンではなく、その後ろを見ていた。
フィナも同じ方向へ視線を向け、少しだけ顔を引きつらせる。
「ジンさん」
「うん」
「後ろ」
ジンが振り返る。
「……」
人がいた。
たくさん。
兵士。
冒険者。
魔法使い。
さっきまで負傷して座り込んでいた者まで、いつの間にか三人の方を見ている。
「何?」
ジンが尋ねる。
誰も答えない。
「……何?」
もう一度聞くと、一人の兵士が恐る恐る口を開いた。
「あんた……」
「うん」
「何者なんだ?」
「……」
ジンは無言でアインを見る。
「聞かれてるぞ」
「なんで俺見るんだよ」
「こういうの苦手」
「知るか!」
周囲から笑いが起こった。
少し前まで命を奪い合っていた場所とは思えない。
だが、質問した兵士はまだ納得していなかった。
「いや、本当に何者なんだよ。グレドだぞ?」
「そうだ!」
別の冒険者も加わる。
「バルドでも近づけなかったんだぞ!」
「セイルの魔法だって防ぎ切った!」
「それをお前……何したんだ、あれ?」
「蹴った」
「それは見れば分かる!」
また笑いが起きる。
「魔法か?」
「使ってない」
「身体強化は?」
「してない」
「じゃあ、なんでグレドが飛ぶんだよ!」
「それ説明すると長い」
「そこを説明しろよ!」
ジンが本気で困ったような顔をしていると、アインが横から肩を叩いた。
「諦めろ。しばらく質問攻めだ」
「嫌だな」
「英雄ってそういうもんだろ」
「英雄じゃない」
「今日だけは諦めろ」
その時だった。
「おい」
少し離れたところから声が飛んできた。
街の防衛を指揮していた軍の指揮官だった。
兵士たちがすぐに左右へ分かれ、道を開ける。
指揮官はその間を進み、ジンの前まで来ると、一度だけ森の方角を確認した。魔王軍が戻ってこないことを確かめるように。
それから、ジンへ向き直る。
「礼を言わせてくれ」
「……俺に?」
「お前以外に誰がいる」
そう言うと、指揮官は深く頭を下げた。
「この街を救ってくれたこと、感謝する」
「いや」
ジンは少し困ったように頭を掻く。
「俺だけじゃない」
指揮官が顔を上げる。
「最初に戦った人たちもいたし、アインが時間を稼いでくれた。フィナもタスクボアを回復してたし」
「そこだけ聞くとフィナが何したのか全然分かんねえな」
「私もできれば説明したくありません」
アインとフィナが続けて答える。
指揮官の口元が僅かに緩んだ。
「そうだな。三人ともだ」
少し間を置いて、今度は三人をまとめて見る。
「そういえば、お前たちは三人で活動しているのか?」
「基本は」
アインが答える。
「パーティか」
「ああ」
「名前は?」
「……」
三人が止まった。
ジンがアインを見る。
アインがフィナを見る。
フィナがジンを見る。
「何だ?」
指揮官が不思議そうに尋ねる。
「いや」
アインが頭を掻いた。
「そういや、人前で名乗ったことなかったなと思って」
「決めたの最近だしね」
「そうでしたね」
いつの間にか、周囲にいた冒険者たちまで耳を傾けている。
「それで?」
一人が聞く。
「何ていうパーティなんだ?」
アインがジンを見る。
「お前言えよ」
「俺?」
「お前が決めただろ」
「三人で決めたじゃん」
「最後に決めたのお前だろ」
「ジンさんでいいんじゃないですか?」
フィナまで乗ってくる。
「……分かった」
ジンは一度二人を見る。
それから、周囲に集まった兵士や冒険者たちへ視線を戻した。
「羅針盤」
「……らしんばん?」
「うん」
ジンが頷く。
「俺たちのパーティ名」
一瞬、周囲が静かになった。
「羅針盤か」
指揮官がゆっくりその名を繰り返す。
「変わった名前だな」
「俺のいたところの言葉だから」
「どういう意味なんだ?」
「方角を示す道具」
ジンは答えた。
「道に迷った時に、進む方向を教えてくれる」
「なるほど」
指揮官が少しだけ笑った。
「お前たちらしい名前だ」
「そう?」
「ああ」
指揮官は周囲を見回した。
疲れ切った兵士たち。
負傷した冒険者たち。
崩れた戦列。
それでも守られた北門。
「今日、この街が進む方向を失わずに済んだのは、お前たちのおかげだからな」
「……」
ジンは少し困った顔をした。
「そういう格好いい意味で付けたわけじゃないんだけど」
「言わなきゃ分かんねえんだから黙っとけ」
アインが小声で言う。
「でも」
「黙っとけ」
◇
「羅針盤!」
突然、誰かが声を上げた。
三人が振り返ると、少し離れたところにいた兵士がこちらへ手を振っている。
「ありがとな!」
すると今度は、別の場所からも声が飛んできた。
「羅針盤! 覚えたぞ!」
「次に魔王軍が来た時も頼むぞ!」
「勝手に次を予約するな!」
アインがすぐに怒鳴り返す。
「依頼料払え!」
「そこなの?」
「大事だろ!」
フィナが笑った。
今、その名前を知ったのは、この場にいる数十人だけだった。
だが、戦いが終われば皆がここに残り続けるわけではない。
兵士は街へ戻れば上官へ報告し、冒険者は酒場で今日見たことを語る。商人がその話を耳にすれば、荷物と一緒に別の街へ持っていく者もいるだろう。
そうして話は人から人へ渡り、そのたびに少しずつ形を変えていく。
グレドという魔族を退けた三人組。
ほとんど魔法を使わず、見たこともない技で戦った男。
その男と共に戦った、道具を操る男と回復魔法使いの少女。
語る者によって話は大きくなり、時には本当にはなかったことまで混ざるかもしれない。
それでも。
一つの名前だけは残る。
やがてベルクから遠く離れた土地でも、その名を知る者が現れることになる。
――羅針盤。
それが、三人のパーティ名が初めて人々の記憶へ刻まれた日だった。
◇
「で」
歓声が少し落ち着いた頃。
ジンは地面へ倒れている巨大なタスクボアの前にしゃがみ込んでいた。
「どうする?」
「何が?」
アインが尋ねる。
「これ」
「……」
三人が揃って視線を落とす。
そこにいるのは、先ほど戦場を走り回った変異個体のタスクボアだった。
グレドに突進を流され、そのまま地面へ転ばされ、最後には首元へ槍を突きつけられたものの、致命傷らしいものは負っていない。
それどころか。
「ブフッ」
妙に元気そうだった。
「……」
「……」
「……」
三人と一頭の間に、何とも言えない沈黙が流れる。
最初に口を開いたのはフィナだった。
「食べるんですよね?」
「その予定だった」
アインが答える。
「一緒に戦ったのに?」
「魔物だぞ」
「でも、一緒に戦いましたよ?」
「突っ込ませただけだ」
「回復までしました」
「お前がな」
「私がです」
フィナは自分で言ってから、もう一度タスクボアを見る。
ジンも見る。
アインまでつられるように見る。
「ブフッ」
タスクボアも三人を見る。
また沈黙。
「……食いづらくなったな」
アインが言った。
「うん」
ジンも頷く。
「私、もう無理です」
「お前らさあ……」
アインは両手で頭を抱えた。
「じゃあ何のために捕獲したんだよ!」
ジンはタスクボアの鼻先へ目を向ける。
向こうもこちらを見ている。
「……逃がす?」
「この街の前で?」
「駄目?」
「駄目に決まってんだろ!」
その日。
魔王軍を退けたベルクでは、戦勝の歓声から少し遅れて。
一頭の巨大な猪をどうするかという、妙に平和な議論が始まった。




