第44話 武とは
「条件?」
グレドが聞き返す。
「ああ」
ジンは剣を鞘へ戻すと、右手を前へ出して人差し指を一本だけ立てた。
「まず一つ」
そう言いながら、グレドへ向かって歩き始める。
「何があっても、絶対に文句を言わないこと」
「……」
その言葉を聞いたアインの顔が、僅かに引きつった。
「まじかよ……あいつ……」
だが、グレドはそんな反応を気にした様子もなく、むしろ楽しそうに笑った。
「いいだろう。部下にも口出しはさせぬ」
「二つ目」
ジンは中指も立てる。
二本。
それでも歩みは止まらない。
「武器は使わないこと」
「無論だ」
グレドは両腕を軽く広げた。
「素手での立ち会いを約束しよう」
ジンはさらに近づいていく。
十歩。
五歩。
三歩。
二人の距離が急速に縮まる。
「三つ目」
その頃には、ジンが右手を少し伸ばせばグレドの身体へ届くほど近づいていた。
「おいおい……」
見ているアインの方が落ち着かなくなったらしく、小さく声を漏らす。
「俺の方が足が竦むぞ……!」
「どういうことですか?」
隣のフィナが小声で尋ねる。
「フィナ」
「はい?」
「目を離すなよ」
「えっ?」
その時。
ジンが小さく息を吐き、さらに薬指を立てた。
三本。
「三つ目……」
一拍置いて。
「はぁ……本当に文句言うなよ?」
「どういう意味――」
グレドが最後まで言い終えるより早く。
ジンの右手が動いた。
◇
立てていた三本の指が、そのまま最短距離でグレドの両目へ伸びる。
「ぬぅっ!?」
グレドが反射的に上体を反らした。
速い。
指先が目の前を掠め、間一髪でかわす。
避けた。
誰もがそう思った。
だが。
上体を後ろへ逃がした瞬間、グレドの左脚だけが動かなかった。
「――?」
視線が僅かに下へ落ちる。
左足の甲。
いつの間にか。
その上へ、ジンの右足がそっと乗っていた。
踏み潰しているわけではない。
痛みを与えるほどでもない。
ただ。
足を引こうとした時だけ、それを邪魔する程度の圧。
それだけだった。
目へ伸びた指へ意識を奪われた一瞬。
視界の外で足を押さえられていた。
上半身は後ろへ逃げようとする。
だが、足はその場へ残る。
巨体の軸がずれた。
「ぬぅっ!」
グレドの身体が耐えきれず、そのまま地面へ尻もちをつく。
◇
倒された。
なら次が来る。
グレドはそう判断したのだろう。
尻もちをついた姿勢から、ほとんど間を置かず左脚を蹴り出した。
踵。
一直線。
ジンの腹へ向かう。
だが。
ジンは追撃していなかった。
「――な」
蹴りが伸びてきた瞬間、身体を僅かに外へずらす。
そのまま。
目の前へ差し出された脚を脇へ抱え込んだ。
すでにグレドは尻もちをつき、足場を失っている。
そこから脚を引かれれば、踏ん張る場所はない。
ジンは踵を脇へ固定し、両手で足首を抱えたまま後方へ身体を落とした。
グレドの巨体が僅かに前へずれる。
そのまま。
身体を反らす。
元の世界でいう。
アキレス腱固め。
複雑ではない。
だからこそ。
入るまでが速い。
「ぐあぁぁぁっ!!」
グレドの声が戦場へ響き渡った。
◇
「なっ……!」
「汚ねえぞあいつ!」
「グレド様から離れろ!」
「殺せ!」
魔族側が一斉にざわめき、何人かが前へ出かける。
「やめんか貴様ら!!」
それを止めたのは、技を掛けられているグレド本人だった。
「手を出すな!!」
「しかしグレド様!」
「俺が約束した!」
その怒声に、魔族兵たちの足が止まる。
だがジンは技を解かない。
踵を脇へ固定したまま、ほんの僅かずつ圧を加えていく。
「このまま続けていいか?」
「ぬぐ……!」
グレドが歯を食いしばる。
斬られた時とも。
殴られた時とも違う。
力を込めれば耐えられるという種類の痛みではない。
一箇所だけを正確に捕らえられ。
このまま続けば、本当にそこだけが壊れる。
それが分かる。
「……いや」
グレドは苦しそうに息を吐いた。
それから大きく一度呼吸する。
「もう十分だ」
一拍。
「またもや俺の……負けだ」
その言葉を聞いた瞬間。
ジンはすぐに力を抜いた。
足を離し、そのまま身体を起こして立ち上がる。
グレドはしばらく地面へ座ったまま、極められていた足を確かめていた。
「その足」
ジンが言う。
「壊してはいない。途中で止めてあるから」
「……確かに」
グレドは足首を何度か動かす。
痛みはある。
だが。
動く。
「少しすれば歩けそうだ」
「ちっ……」
魔族側から不満そうな声が上がった。
「あんな卑怯な真似しやがって……」
だが。
人間側も似たような顔をしていた。
勝った。
それは分かる。
ただ。
喜んでいいのか。
驚けばいいのか。
誰も判断がついていない。
◇
やがてグレドはゆっくり立ち上がった。
極められていた足へ少しずつ体重を乗せる。
まだ僅かに痛むらしく、一度だけ眉が動いた。
それでも問題なく立てることを確認すると、改めてジンを見る。
「一つ聞きたい」
「何?」
「いつも」
グレドは自分の左足へ一度視線を落とした。
「今のような奇襲を使うのか?」
「必要に応じて」
ジンはあっさり答えた。
「あんたと真正面から殴り合うなんて、自殺と一緒だ」
「……」
「勝つために必要なことをしただけ」
グレドが苦笑する。
「俺としては、真正面から殴り合いたかったのだがな」
「嫌いなんだよ」
「何が?」
「競うの」
ジンは改めてグレドを見る。
体格が違う。
背丈も。
腕の太さも。
純粋な筋力も。
何もかも違う。
「まず、この体格差」
自分とグレドを交互に見る。
「対等じゃないだろ」
「……まあな」
「対等じゃないなら」
ジンは続けた。
「やれること全部やって、その差を埋めるしかない」
グレドの眉が僅かに上がる。
「武人かと思ったが」
一拍。
「そうではなかったのか?」
「武人?」
ジンはその言葉を少し考える。
「たぶん」
僅かに首を傾げた。
「あんたの思う武と、俺の思う武が違う」
「なら」
グレドの表情から笑みが消えた。
「お前にとって、武とは何だ」
その問いに。
周囲が静かになった。
人間側も。
魔族側も。
さっきまで騒いでいた者たちまで口を閉じる。
ジンは少しだけ考えた。
そして。
「自分にできることを」
答えた。
「全部引き出すこと」
「全部?」
「うん」
ジンは頷く。
「やれることがまだ残ってるのに」
一度、言葉を切る。
「それを使わずに負ける」
ゆっくり首を振った。
「それだけは嫌だ」
グレドは何も言わず聞いている。
「やれることがあるなら、全部やる」
武器があるなら使う。
地形が使えるなら使う。
相手の癖が分かったなら。
それも使う。
「卑怯だと言われても?」
「必要なら」
ジンは迷わず答えた。
「ずいぶんと余裕のない考え方だな」
グレドが言う。
「そうかも」
ジンも否定しない。
「でも」
少しだけ視線を落とした。
「俺は武を、競うためのものだと思ってない」
「……」
「生き残るためのものだと思ってる」
そして。
もう一度グレドを見る。
「本当に何も手立てがなくなるまでは」
一拍。
「諦めちゃ駄目だ」
グレドは何も言わなかった。
数秒。
静かな時間が流れる。
「生き残るための手段、か」
やがてグレドが小さく笑った。
「俺も少し、本質を忘れていたのかもしれんな」
「あんたは強いからな」
「何?」
「身体もでかい」
「力もある」
「真正面から戦って、それで勝てる」
ジンは肩を竦める。
「俺のは」
少し考えてから続ける。
「弱い側が生き残るための知恵なのかもしれない」
「……」
グレドはその言葉を聞き。
しばらく黙っていた。
◇
人間側も。
魔族側も。
誰も口を挟まなかった。
ただ二人の会話を聞いている。
数秒の沈黙のあと。
「ま、まあ」
最初に口を開いたのはアインだった。
「とりあえず決着ってことでいいんだよな?」
「フッ」
グレドが笑う。
「そうだな」
極められた足をもう一度軽く動かし、それからジンへ視線を戻す。
「味わったことのない戦いだった」
一拍。
「技も」
さらに。
「考え方も」
その声に悔しさはほとんどない。
むしろ。
楽しそうだった。
「まさか俺が二度も敗北するとはな」
グレドは笑う。
「このような戦いもあるのだな」
「まだやるとか言わないよな?」
ジンが念のため尋ねる。
「これ以上負けては、俺の沽券に関わる」
グレドは楽しそうに笑った。
「一度帰って鍛え直すさ」
そして。
真正面からジンを見る。
「ジンとやら」
「何?」
「次は負けぬぞ」
ジンも少し笑う。
「じゃあ次は」
一拍。
「真正面から殴り合おう」
「お前」
グレドの目が丸くなる。
次の瞬間。
豪快な笑い声が戦場へ響いた。
「死ぬぞ?」
「やっぱやめとく」
「ハハハハハ!」
しばらく笑ったあと。
グレドはその笑みを残したまま、魔族軍へ振り返る。
空気が変わる。
さっきまで笑っていた男の声が、再び軍を率いる者のものへ戻った。
「全部隊!」
大きく息を吸う。
「撤退せよ!」
その声が。
戦場全体へ響き渡った。




