第41話 提案
グレドが動いた。
ただ一歩。
前へ出ただけだった。
それだけで、周囲の魔族兵たちの動きが変わる。
「下がれ」
低い声だった。
怒鳴ったわけではない。
それでも、その声は戦場の喧騒を抜けて直属の兵たちへ届いた。
前線に出ていた魔族兵たちは即座に距離を取り、倒れている仲間を回収しながら後退を始める。
「……止まった?」
フィナが杖を構えたまま呟く。
「いや」
アインはグレドから目を離さない。
「あいつが止めた」
人間側にも戸惑いが広がった。
追撃しようと前へ出かけた冒険者を、この街の防衛を指揮する軍の指揮官が腕で制する。
「待て!」
魔族側の意図が分からない以上、ここで不用意に追えば罠の可能性もある。
人間側も動きを止める。
そうして、ほんの少し前まで魔法と魔術が飛び交っていた場所に、奇妙な空白が生まれた。
その中央へ。
グレドが一人で歩いてくる。
右手には長槍。
左腕には大盾。
巨大な身体を黒い鎧で覆いながらも、その歩みに無駄な力みはない。
「……」
ジンは自然と、その足元を見ていた。
重いはずの装備。
それでも歩幅は乱れず、身体の上下動も小さい。
いつでも止まれる。
いつでも動ける。
「やっぱ上手い」
「今そこかよ」
アインが呆れたように言った。
グレドは両軍の中間まで来ると足を止め、長槍の石突きを地面へ下ろした。
ゴッ。
重い音が響く。
「これ以上、無駄に兵を削る必要もあるまい」
人間側から返事はない。
グレドもそれを気にする様子はなく、そのまま続けた。
「戦える者を出せ」
この街の防衛を統括している軍の指揮官の眉が僅かに動く。
「……何?」
「三人まで受けよう」
一瞬。
意味を理解するまでに間があった。
そのあとで、ざわめきが広がる。
「三人……?」
「三人のうち、一人でも俺を退かせれば」
グレドはまっすぐ人間側を見る。
「今日の進軍は取りやめる」
「本当か!」
兵士の一人が思わず声を上げた。
グレドはそちらへ顔を向けることなく答える。
「俺の言葉に二言はない」
軍の指揮官が険しい表情のまま問い返す。
「こちらが負けた場合は」
「この街を明け渡してもらう」
ざわめきが止まった。
さっきまで騒がしかった北門前が、一瞬だけ静まり返る。
あまりにも大きな条件だった。
グレドはその反応を見ても表情を変えず、軍の指揮官だけを見ている。
「無論、拒むのならば構わん」
一拍置く。
「その場合は、軍として攻める」
選択肢など、ほとんど残されていなかった。
人間側はすでに魔力を大きく消耗している。
このまま軍勢同士の戦闘を続ければ、北門前の防衛線がどこまで持つか分からない。
対して。
グレド一人を退けることができれば、少なくとも今日の戦いは終わる。
「……」
軍の指揮官が周囲を見回す。
だが、簡単に名乗り出る者はいなかった。
当然だった。
グレド直属の兵ですら、あれだけの強さを持っていた。
その兵たちを率いている本人が、弱いはずがない。
「俺が行きます」
沈黙を破って、一人の男が前へ出た。
この街の防衛部隊の中でもひときわ頑丈な体格を持ち、手には幅広の剣を握っている。
「バルド……」
「指揮官殿」
バルドは前を見たまま言う。
「俺に行かせてください」
軍の指揮官は少しだけ迷った。
それでも、やがて頷く。
「……分かった」
そして。
「無理だと思ったら、すぐに退け」
「分かっています」
バルドが前へ出る。
歩きながら身体へ魔力を巡らせると、淡い光が全身を包んだ。
「身体強化か」
ジンが呟く。
冒険者の採用試験でも見た。
ただ、あの時とは明らかに違う。
魔力が全身へ均等に流れ、筋肉や関節を包み込むように力を底上げしている。
「どれくらい上がる?」
ジンが尋ねる。
アインはバルドを見たまま答えた。
「個人差はあるけど、あれなら二割くらいは上がってるはずだ」
「二割?」
「力も速さもな。十分でかいぞ」
「なるほど」
力。
速度。
持久力。
それら全部が同時に二割上がる。
数字だけなら小さく聞こえる。
だが、戦闘では、その差がそのまま攻撃の速さや重さ、踏み込みの深さとして現れる。
それでも。
「……」
ジンはバルドではなく、グレドを見ていた。
身体強化を目の前にしても。
何も変わらない。
構えすら取っていない。
「この街の防衛部隊、バルド」
「グレドだ」
二人が向かい合う。
合図はなかった。
先に動いたのはバルドだった。
「おおっ!」
地面を強く蹴り、一気に間合いを詰める。
身体強化された踏み込みは速い。
普通の兵士なら。
反応するより先に斬られている。
だが。
カンッ!
「くっ!」
バルドの足が止まった。
剣の間合いへ入る、その直前。
グレドの槍先が、すでに腹の前へ置かれていた。
突いたわけではない。
大きく振ったわけでもない。
ただ。
そこに置いた。
それだけ。
だが、ここから一歩踏み込めば、自分から槍へ刺さることになる。
バルドが右へ回る。
穂先もついてくる。
左へ切り返す。
それでも、槍先は腹の前から消えない。
長い槍を扱っているとは思えないほど、グレドの動きは小さかった。
「近づけない……」
兵士の一人が呟く。
「槍を大きく動かしてない」
ジンが答える。
「必要な分だけ動かしてる」
バルドも理解したのだろう。
無理に間合いへ入るのをやめる。
狙いを変えた。
「なら!」
幅広の剣を振り上げ、そのまま槍へ叩きつける。
甲高い金属音が響いた。
だが。
「なにっ?」
槍は折れない。
傷すらついていない。
柄の表面を、薄い黒光りが覆っている。
「魔術……」
アインが呟いた。
「武器にも流せるのか」
「たぶん」
ジンはグレドの腕から槍へ続く黒い光を見る。
「槍まで身体の一部みたいに扱ってる」
人間の身体強化とは違う。
全身へ流し続けているわけではない。
必要な場所。
必要な瞬間。
今は槍。
だから、そこへだけ魔力を集中する。
バルドがもう一度剣を振る。
今度は槍そのものを弾き飛ばすつもりで、横から強く叩きつけた。
だが。
グレドは逆らわない。
槍を僅かに引く。
バルドの剣が空を切る。
「――っ」
込めた力の行き先を失い、バルドの身体が前へ流れる。
その瞬間。
グレドの槍が返った。
穂先が一直線に腹へ伸びる。
速い。
だが、それ以上に。
無駄がない。
直撃する寸前。
バルドの胸元で魔道具が激しく光った。
訓練や模擬戦で使われる、衝撃を肩代わりする防護具。
光が一気に膨らみ。
砕ける。
「ぐっ!」
衝撃を完全には消しきれなかった。
バルドの身体が大きく後ろへ吹き飛び、地面を二度転がって止まる。
「バルド!」
フィナが真っ先に駆け出した。
すぐに身体を確認する。
「息はあります!」
防護具がなければ。
腹を貫かれていた。
グレドは追わなかった。
槍を静かに引き戻し、元の位置へ立つ。
まるで。
最初から一歩も動いていなかったように。
「一人目」
魔族側から声が上がる。
人間側の空気が重くなった。
バルドは弱くない。
むしろ。
この街の防衛部隊では上位に入る戦士だった。
それでも。
一度も。
剣の間合いへ入れなかった。




