第3話 白い世界
白い世界だった。
空はなく、壁も見えない。足元には白い床だけがあり、それが地平線のような彼方まで途切れることなく続いている。
仁はしばらくその場に立ったまま、ゆっくりと周囲を見回した。
「……本当に何もないな」
先ほどまでいた石造りの施設とは、まるで別の場所だった。
試しに歩いてみる。
足音だけが、静かな空間へ小さく響いた。
確かに地面はある。踏み込めば硬い感触も返ってくるが、石とも土とも違い、何でできているのかはまるで分からない。
仁は歩みを止め、改めて目の前に浮かぶ文字へ視線を向けた。
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【トレーニングモード】
・対象再現 解放済み
・状態初期化 解放済み
・疲労回復 解放済み
・記録閲覧 解放済み
・解析補助 未解放
・時間操作 未解放
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「対象再現……」
何となく口にした瞬間、表示が静かに切り替わった。
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『現在、再現可能な対象は存在しません』
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「ああ、そういうことか」
仁は少しだけ苦笑した。
何を基準に「再現」するのかは分からないが、少なくとも今の自分には再現できる対象がないらしい。
考えてみれば当然だった。
ここへ来てから、人間どころか生き物一匹ともまともに遭遇していない。
「じゃあ……状態初期化」
今度は意識して口にしてみる。
直後、身体の内側を温かなものが一瞬だけ通り抜けた。
「……ん?」
仁は腕を回した。
膝を曲げ、軽く腰を落とす。
身体が軽い。
公園で二時間以上動き続け、その後も深夜まで起きていたはずなのに、筋肉に残っていた重さも眠気もほとんど感じなかった。
「本当に戻った……?」
呼吸を深くしてみても、疲労感はない。
朝、十分に眠った直後よりも調子がいいくらいだった。
仁はその場で少し考える。
ここでは好きなだけ身体を動かし、疲れたなら元へ戻せる。
もし表示されている言葉通りの機能なら。
それだけでも――。
「いや」
浮かびかけた期待を自分で止めた。
「まだ分からないな」
都合が良すぎる。
一度使えたからといって、何度でも使えるとは限らない。回数に制限があるかもしれないし、条件が存在する可能性もある。
使える機能。
使えない機能。
どこまで可能なのか。
まずは確認するべきだった。
「解析補助」
反応はない。
「時間操作」
今度はすぐに表示が現れた。
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『現在は利用できません』
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「やっぱり未解放か」
何をすれば解放されるのかも分からない。
そもそも、なぜ自分がここを使えるのかさえ分かっていない。
分からないことばかりだった。
それでも仁は、白い空間を見渡して小さく笑った。
「……十分だ」
少なくとも今分かっている機能だけでも、今まで喉から手が出るほど欲しかった環境に近い。
焦る必要はない。
分からないなら。
一つずつ確かめればいい。
◇
その後もしばらく白い空間を歩いてみたが、目立った変化はなかった。
どこまで進んでも景色は変わらず、振り返れば入ってきた巨大な扉だけが、白い世界の中にぽつんと残っている。
「今日は一度、外を見るか」
ここが何なのかも気になる。
だが、それ以上に。
自分が今どこにいるのかを確認する必要があった。
仁は扉を抜け、石造りの施設へ戻った。
振り返れば、白い空間はまだそこにある。
「消えないんだな」
少しだけ安心した。
この場所が突然なくなる可能性までは否定できないが、少なくとも今すぐ消える様子はない。
仁は来た道を戻りながら、施設の内部を改めて観察した。
崩れた棚。
壊れた台。
散乱した金属片。
人の気配はない。
最初に落ちてきた部屋や巨大な扉の周辺だけは妙に状態がいいが、それ以外の場所には長い年月が経過した痕跡がはっきりと残っている。
誰が造ったのか。
何のための施設なのか。
なぜ自分がここへ来たのか。
疑問はいくらでも浮かんだが、答えてくれる人間はいなかった。
さらに通路を進んでいくと、前方に明るい光が見えた。
「出口……?」
仁は足を速める。
近づくにつれて光は強くなり、最後には眩しさに目を細めながら外へ出た。
◇
最初に感じたのは、風だった。
湿った土と草木の匂いを含んだ風が頬を撫で、すぐ近くから鳥の鳴き声が聞こえてくる。
仁は眩しさに慣れた目を開いた。
「……森?」
頭上には青空。
周囲には木々。
足元には土と草。
つい先ほどまでいた施設の静けさが嘘のように、そこには生き物の気配が満ちていた。
仁は振り返った。
森の中に、苔むした石造りの遺跡が佇んでいる。
崩れかけた柱。
割れた外壁。
内部で見たものとは印象がまるで違い、外から見れば何百年も放置されているようにしか見えない。
「こんな場所、日本に……」
途中で言葉が止まった。
改めて周囲を見る。
木。
草。
鳥の声。
一つ一つだけを見れば、それほど奇妙には思えない。
なのに、何かが違う。
見慣れた森に似ているのに、知らない植物が混じっている。木々の形にも僅かな違和感があり、空気の匂いまで、自分の記憶にあるものとは微妙に違っていた。
「……日本じゃない?」
言葉にしたところで。
「止まれ!」
鋭い声が飛んできた。
仁の身体が反射的に声の方向を向く。
木々の間から、二人の男が現れた。
どちらも剣を持っている。
服装も奇妙だった。
少なくとも現代日本で日常的に見かける格好ではない。革や厚手の布を組み合わせた粗末な装備に、本物らしい剣。
仁は目を細めた。
「運がいいな」
「一人だ」
二人の会話が。
分かる。
「……」
聞いたことのない言葉のはずだった。
それなのに、意味を考える必要さえなく、そのまま頭へ入ってくる。
遺跡で受けた「言語同期」。
おそらく、あれの影響だろう。
「金目の物を置いていけ」
二人は剣を見せつけるようにしながら、ゆっくりと距離を詰めてくる。
盗賊。
頭に浮かんだのは、そんな言葉だった。
仁は返事をせず、視線だけを動かした。
二人の位置。
距離。
木の位置。
足場。
剣を握っている手。
肩。
腰。
膝。
逃げ道。
相手だけを凝視するのではなく、それら全部を視野の中に置く。
「聞いてんのか!」
前にいた男が苛立ったように踏み込んだ。
剣を大きく振り上げる。
肩が上がった。
肘が開く。
身体が前へ流れる。
何をするのかが、剣が動き出す前から見えていた。
刃が振り下ろされる。
仁は強く地面を蹴ることもなく、身体全体の位置を半歩だけずらした。
剣が目の前を通り過ぎる。
「なっ――」
男の腕が伸びきるより先に、仁の手が手首へ触れていた。
強く掴む必要はない。
剣が進もうとしている方向を、ほんの少し変える。
それだけで、前へ出ていた男の身体は自分の勢いを支えきれなくなった。
「うおっ!?」
足がもつれる。
仁は肩へ手を添え、その崩れた方向を邪魔しないまま身体の向きを変えた。
男はそのまま前へ流れ、顔から地面へ転がった。
「てめぇ!」
もう一人が横薙ぎに剣を振るう。
今度も先に動いたのは剣ではなかった。
肩。
腰。
視線。
仁は刃が来る高さから身体を外し、そのまま男の懐へ入った。
「――っ!?」
男が剣を戻すより早く、仁の手が腕へ触れる。
引きながら。
身体を僅かにずらす。
男の重心が前へ浮いた。
そこへ足を添える。
「ぐっ!」
膝が崩れ、男は地面へ落ちた。
握っていた剣が手から離れ、乾いた音を立てて土の上を転がっていく。
仁はすぐに一歩離れた。
二人とも意識はある。
最初の男は顔を押さえながら呻き、もう一人も起き上がろうとしているが、体勢を崩された直後で思うように身体が動かないらしい。
骨を折る必要はなかった。
気絶させる必要も。
剣を振れない状態にできれば、それでいい。
「……相手が剣でも」
仁は地面に落ちた刃を見る。
「身体を動かしてるのは人間か」
武器そのものが動いているわけではない。
剣を振るなら。
その前に、人間が動く。
肩が。
腰が。
足が。
そこを見ればいい。
もちろん、本当に剣を扱える相手がどう動くかは分からない。
今の二人だけで判断するのは早すぎる。
そんなことを考えていた時だった。
「す、すごい……」
後ろから、別の声が聞こえた。
仁は振り返った。
少し離れた道の上に荷馬車が止まっている。
その周りには数人の男女がいて、揃って驚いた表情でこちらを見ていた。
どうやら、二人の男が狙っていたのは自分だけではなかったらしい。
先頭に立っていた青年が、恐る恐る仁へ近づいてくる。
「君……今、何の魔法を使った?」
「……魔法?」
仁は一瞬、その言葉の意味を確認するように繰り返した。
「いや」
何と答えるべきか迷った末。
「俺も、それを聞きたい」
「……え?」
青年が目を瞬かせる。
すると、その後ろにいた別の男が仁をじっと見た。
「待て」
眉間に皺が寄る。
「こいつ……魔力を使った気配がないぞ」
「気配?」
「そんなはずが……」
別の者まで仁を見る。
「何も感じない」
「魔力を隠してるのか?」
「いや、それなら少しくらいは……」
彼らの間に、ざわめきが広がっていく。
仁だけが。
何の話をしているのか分からない。
「……魔力?」
聞き慣れない言葉を口の中で転がしながら、仁は小さく首を傾げた。
それが。
吉崎仁がこの世界で初めて知った、最初の常識だった。




