第2話 もう一つの時間
落ちている。
その感覚だけは、はっきりと分かった。
耳元では風を切る音が続いているのに、辺りは上下も左右も分からないほどの暗闇で、伸ばした手も何にも触れない。どれだけ落ちても壁にぶつかることはなく、地面へ近づいている気配すらなかった。
「っ……!」
仁は反射的に身体を丸め、いつ来るか分からない着地の衝撃に備えた。
だが、一秒。
二秒。
さらに待っても、その瞬間は訪れない。
「どうなってる……」
そう呟いた直後だった。
足裏に、硬い感触が返ってきた。
「――っ」
仁は咄嗟に膝を緩めて衝撃を逃がした。
しかし、身構えていたほどの衝撃はない。
高いところから落ちたはずなのに、まるでほんの数十センチ上から降りたような軽さだった。
「……?」
慎重に身体を起こし、周囲を見回す。
そこは、薄暗い石造りの部屋だった。
天井は高く、円形に続く壁は巨大な石材で造られている。だが、積み重ねて作られたようには見えない。目を凝らしても継ぎ目らしいものがほとんどなく、一つの巨大な塊をそのまま削り出したようだった。
「地下……?」
口にしたものの、すぐに違和感を覚える。
空気が違う。
温度も、匂いも。
それ以上に奇妙なのは、音だった。
自分の呼吸と衣擦れ以外、何も聞こえない。
車も。
配管も。
人の足音も。
つい先ほどまでいた住宅街の気配が、完全に消えていた。
仁は足元へ視線を落とした。
床も土やコンクリートではない。淡い色をした石のような素材で、長い年月を経ているように見える部屋にもかかわらず、目立ったひび割れはほとんどなかった。
「誰かいるのか?」
声が円形の部屋へ響く。
返事はない。
代わりに仁の目を引いたのは、部屋の中央付近に設けられた黒いものだった。
壁からせり出すように固定された、板状の設備。
形だけなら大きな黒板にも見えるが、石でも木でもなさそうだった。表面には傷一つなく、光を鈍く映すほど滑らかだ。
「……何だ、これ」
仁は周囲を確認してから、その黒い面へ近づいた。
触れていいものなのかは分からない。
だが、他に手掛かりもない。
慎重に右手を伸ばす。
指先が表面へ触れた。
その瞬間だった。
「――っ!」
黒かった表面に、白い光が走った。
何もなかったはずの場所へ、文字らしきものが次々と浮かび上がる。
見覚えのない形だった。
日本語でも。
英語でもない。
少なくとも仁が知っているどの文字とも違う。
それなのに。
『言語同期を開始します』
「……は?」
読めた。
いや。
読めた、という感覚とも少し違う。
形を見て意味を考えたわけではない。知らない文字を見ているはずなのに、そこに何が書かれているのかだけが、ごく自然に頭へ入ってくる。
表示が切り替わった。
『対象を確認』
『同期率 〇%』
『言語情報を更新』
「待て、何を――」
言い終わる前に、頭の奥が急に熱くなった。
「っ……!」
耳鳴りがする。
視界が僅かに揺れ、仁は黒い面から手を離した。
何かが流れ込んでくる。
言葉。
文字。
意味。
自分でも何を理解しているのか分からないまま、大量の情報だけが頭の中を通り過ぎていく。
仁は目を閉じ、額を押さえた。
だが、それも長くは続かなかった。
数秒ほどで熱は引き、耳鳴りも消えていく。
「……」
恐る恐る目を開ける。
黒い面には、新しい文字が浮かんでいた。
『同期完了』
その下に。
『ようこそ、第七補助研究区画へ』
「……読める」
今度は、先ほどよりはっきりしていた。
知らない文字だという認識はある。
形にも見覚えはない。
それでも意味が分かる。
「第七……補助研究区画?」
声に出して読んでみる。
やはり理解できる。
仁はしばらく黒い端末を見つめてから、自分の頬を軽くつねった。
「痛いな」
夢らしくはない。
もっとも、夢の中で同じことをして夢ではないと判断する話も聞いたことがある。
「……まあ、いいか」
よくはない。
だが、ここで考えていても答えは出そうになかった。
仁は改めて部屋を見渡した。
黒い端末以外に目立つ設備はほとんどない。円形の壁の一部だけが開いており、そこから奥へ通路が続いている。
「行くしかないか」
少なくとも、じっとしていて状況が変わる様子はない。
仁は周囲へ注意を払いながら、その通路へ足を踏み入れた。
◇
施設の内部は、不自然なほど静かだった。
通路の両側にはいくつもの部屋が並び、開いたままの入口もあれば、閉ざされたままの扉もある。
仁は開いている部屋をいくつか覗いてみた。
人の姿はない。
残されているのは、崩れた棚や壊れた台のようなもの。それに、用途の分からない金属片や部品らしきものばかりだった。
古い。
それだけは分かる。
最初にいた部屋は妙に綺麗だったが、こちらには明らかに長い年月が過ぎた痕跡が残っている。
「研究施設……なのか?」
先ほどの表示を思い出す。
第七補助研究区画。
その言葉が正しいなら、少なくとも何かを研究するために使われていた場所なのだろう。
城には見えない。
神殿にも。
人が普通に暮らすための場所とも違う。
何かを調べ。
何かを造り。
何かを試すための場所。
そんな印象だった。
仁はさらに奥へ進んだ。
やがて通路の突き当たりへ差しかかったところで、足を止める。
「……でかいな」
目の前に、巨大な扉があった。
人間が出入りするだけなら、明らかに必要のない大きさだ。
表面には複雑な模様が刻まれている。
一瞬、文字かと思った。
だが。
「……読めない」
先ほどの端末とは違う。
言語同期とやらを受けたにもかかわらず、意味が頭へ入ってこない。
文字ではないのかもしれない。
幾何学的な線は複雑に絡み合い、巨大な模様を作っていた。
仁がそれを眺めながら近づいた、その時。
模様の一部へ淡い光が灯った。
「お?」
一本。
また一本。
線に沿うように光が広がっていく。
続いて、扉の中央へ文字が浮かび上がった。
『認証対象を確認』
『接続可能』
「俺のことか?」
答えはない。
代わりに、腹の底へ響くような低い音が鳴った。
巨大な扉が、ゆっくりと左右へ開いていく。
仁は思わず一歩下がった。
そして。
完全に開いた扉の向こうを見て、言葉を失った。
「……なんだ、ここ」
白かった。
ただ。
どこまでも白い。
壁がない。
天井も見えない。
床だけが足元から果てまで続き、その先は白の中へ溶け込んでいる。
先ほどまで歩いていた石造りの遺跡とは、あまりにも違いすぎた。
仁は扉の手前から白い空間を覗き込む。
「……」
何も動かない。
何も出てこない。
危険そうには見えない。
もっとも。
ここまでの出来事で、見た目を信用していいのかは分からなくなっていた。
少し迷った末、仁は片足を踏み入れた。
一歩。
白い床へ足を下ろす。
何も起きない。
もう一歩。
身体全体が扉を越えた。
その瞬間。
「うわっ」
目の前へ、半透明の文字が現れた。
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【トレーニングモード】
・対象再現 解放済み
・状態初期化 解放済み
・疲労回復 解放済み
・記録閲覧 解放済み
・解析補助 未解放
・時間操作 未解放
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「……」
仁は動かなかった。
目の前の表示を見つめる。
一度読む。
もう一度。
さらにもう一度。
「……トレーニングモード?」
聞き間違いではない。
そもそも声ではない。
はっきりと、そう書いてある。
つい先ほど。
自宅で。
自分が考えていた言葉。
ゲームの練習モードみたいな場所があればいい。
何度でも試せて。
失敗してもやり直せて。
時間を気にしなくてもいい場所。
「いやいや……」
偶然。
そう考えるには、少し出来すぎている。
仁が表示を凝視していると、さらに新しい文字がその下へ浮かび上がった。
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『初回利用者を確認』
『基本機能を解放します』
『ようこそ、修練空間へ』
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「……修練空間」
仁はその言葉をゆっくりと繰り返した。
怖くないわけではない。
少し前まで自宅にいたはずなのに、気づけば正体不明の施設へ落とされ、知らない文字が読めるようになり、その奥には現実離れした白い空間が広がっている。
普通に考えれば、警戒するべき状況だった。
それでも。
目の前には。
『対象再現』
『状態初期化』
『疲労回復』
そんな言葉が並んでいる。
「……ほんとに?」
気づけば。
仁は笑っていた。
白い空間を見渡す。
何もない。
本当に。
何もない。
だが今の仁には、その何もない世界が、ひどく広く見えた。
何ができる。
どこまでできる。
対象再現とは何だ。
状態初期化は。
疲労回復は。
一つ確認すれば、また次の疑問が浮かんでくる。
試してみたい。
確かめたい。
仁はゆっくりと拳を握った。
「やっと見つけた」
誰へ聞かせるでもなく、そう呟く。
そして、どこまでも続く白い世界を見ながら。
「もう一つの時間を」
白い世界は、静かにその言葉を受け止めていた。




