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『魔力ゼロの武術家 ~異世界を修練空間(トレーニングモード)で攻略する~』  作者: いなる


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第1話 時間が足りない

 吉崎仁の日課は、仕事が終わってから始まる。


 住宅街から少し離れた夜の公園には、古びた遊具と何本かの街灯があるだけだった。昼間なら子供たちの声が響いている場所も、この時間になると人影はなく、聞こえてくるのは木々の間を抜ける風と、遠くを走る車の音くらいのものだった。


 その中央で、一人の青年がゆっくりと身体を動かしている。


 白いシャツにカーゴパンツ。足元には履き慣れたスニーカー。どう見ても仕事帰りの格好だった。


 青年の名は、吉崎仁。


 二十四歳。


 ごく普通の会社員である。


 少なくとも、昼間の彼を見た人間ならそう思うだろう。


 仁は肩幅ほどに足を開き、力を抜いたまま右手を前へ伸ばした。


 ゆっくりと。


 ひどく、ゆっくりと。


 傍から見れば、ただ腕を前へ出しているだけにしか見えない。


 だが仁が意識していたのは、腕ではなかった。


 足裏が地面へ触れている位置。膝の状態。股関節。腰。背中。肩。肘。手首。そして指先。


 どれか一つを起点にして、次の部位を動かすのではない。


 足が先。


 腰が次。


 肩がその次。


 最後に手。


 そうなった瞬間、身体の動きはいくつにも分かれる。


 仁が求めているのは、その逆だった。


 必要な部位が、同時に始まり。


 同時に終わる。


 一つの動き。


 右手が伸びきる寸前で、仁は動きを止めた。


 その姿勢のまま数秒。


「……肩が先に出たな」


 小さく呟き、腕を下ろした。


 今度は左。


 同じ位置から始め、同じ距離を、同じ時間で動かす。


 それでも、同じにはならない。


 左足へ僅かに体重が残っている。腰の位置も少し違う。肩は先ほどより良かったが、今度は肘が高い。


 仁は一度息を吐き、最初の姿勢へ戻った。


 速く動きたいわけではない。


 強く打つ必要もない。


 むしろ、今は遅い方がいい。


 速さで誤魔化せば、自分の身体のどこが先に動き、どこが遅れたのか分からなくなる。


 だからゆっくり動く。


 始まりから終わりまで、できるだけ速さを変えずに。


 加速しない。


 減速しない。


 ただ、身体全部を同じ時間の中へ収める。


 一度。


 二度。


 三度。


 同じ動きを繰り返すうち、街灯の下に伸びた影だけが静かに形を変えていった。


    ◇


 それからしばらくして、仁はベンチに置いていた木刀袋から、一本の木刀を取り出した。


 長年使い込んできたものだった。柄の部分だけが手の脂を吸い、他の部分より僅かに濃い色になっている。


 公園の中央へ戻ると、仁は木刀を中段に構えた。


 呼吸を整える。


 ゆっくりと振り上げ。


 そのまま。


 ゆっくりと振り下ろす。


 風を切る音すらしない。


 もう一度。


 振り上げる。


 振り下ろす。


 腕で木刀を操作しようとはしない。


 脚で踏み込んで、その力を腰へ送り、腰から肩、肩から腕へ伝える――そういう動きにもしたくなかった。


 それでは順番が生まれる。


 仁が求めているのは、もっと短い動きだった。


 脚。


 股関節。


 腰。


 背中。


 肩。


 肘。


 手首。


 木刀を振るために必要なすべてが同時に働き、同時に目的の位置へ収まる。


 木刀もまた、その身体から遅れてついてくるのではなく、最初から身体の一部として動く。


 振り下ろしたところで、仁は木刀を止めた。


「違うな」


 今の一振りでは、途中で右肩へ力が集まった。


 木刀を振ろうとした。


 その意識が原因だった。


 仁はもう一度構える。


 木刀を持っていると思わない。


 腕の先が、その長さまで伸びているだけ。


 そう考える。


 ゆっくり振り上げる。


 そこから速さを変えないまま、振り下ろす。


 今度は、木刀だけが走らない。


 肩だけが先に落ちることもない。


 身体と木刀の位置が一緒に変わり、同じ瞬間に止まった。


「……うん」


 僅かに口元が緩む。


 傍から見れば、さっきから同じ素振りをしているだけだろう。


 仁にとっては違う。


 一振りごとに見る場所がある。


 足の置き方。膝の抜け方。骨盤の向き。背中の状態。肩の位置。手の内。呼吸。目線。


 そして、それらが別々の仕事になっていないか。


 何度同じ動きをしても、同じ結果にはならない。だから繰り返すほど違いが見えてくる。


 飽きるどころか。


 時間が足りない。


 剣を振れば、体術の問題が見つかる。体術を練習すれば、剣の振り方に疑問が出る。歩き方を変えれば構えまで変わり、呼吸一つ変えるだけでも身体の力み方が変わった。


 一つ試すたびに。


 次に試したいことが増える。


 仁は木刀を下ろし、時計を確認した。


 午後十一時を過ぎている。


「もうこんな時間か」


 体感では、まだ一時間も経っていなかった。


 実際には、公園へ来てから二時間近い。


 明日も仕事がある。


 そろそろ帰らなければならない。


 頭では分かっていた。


 仁は木刀を見る。


 もう一度。


 構えた。


「あと十回だけ」


 その言葉が十回で終わったことは、ほとんどなかった。


    ◇


 公園を出た頃には、日付が変わろうとしていた。


 仁は木刀を袋へ戻し、鞄を肩に掛けて住宅街を歩いていく。身体には心地よい疲労が残っていた。


 仕事で疲れていなかったわけではない。


 朝起きて会社へ向かい、夕方まで働く。電車に揺られて帰ってくれば、そのまま風呂へ入って寝たくなる日だってある。


 それでも公園へ行く。


 練習をしなかった日は、何かを一日分失ったような気分になるからだ。


 最初は、単純に強くなりたかった。


 漫画や映画で見るような技を、自分でも使えるようになってみたかった。


 けれど、長く続けるうちに興味の向きは少しずつ変わった。


 人は、なぜ倒れるのか。


 同じくらいの体格でも、なぜ出せる力に差が生まれるのか。


 なぜ、ものすごく速く見える攻撃は意外と反応できるのに、大して速く見えない動きに反応できないことがあるのか。


 なぜ熟練した人間の打撃は、力んでいるように見えないのに重いのか。


 考え始めると、分からないことだらけだった。


 だから知りたくなった。


 道場へ通った。


 本を読んだ。


 映像を何度も見返した。


 人から教わった。


 一つの流派だけではなく、違う考え方も調べた。


 そして最後には、必ず自分の身体で試した。


 どれが正しいのか。


 それは今も分からない。


 何年続けても。


 むしろ、続ければ続けるほど分からないことが増えていった。


 それが面白かった。


 住宅街へ入ると、並んだ家々の窓から僅かに明かりが漏れていた。


 仁は歩きながら右手を見た。


 先ほどの動き。


 肩が先に出た一回。


 木刀を振ろうとして、途中で右肩に力が集まった一振り。


 まだ変えられる。


 肩ではない。


 肘でもない。


 そもそも、どこか一つを直そうとする発想が違うのかもしれない。


「……試したいな」


 今すぐ公園へ戻って確認したくなる。


 だが、時計は無情だった。


「時間が足りない」


 独り言が、誰もいない夜道へ溶けていく。


 仕事。


 睡眠。


 食事。


 風呂。


 生きるために必要な時間を引いていけば、自分の好きなことへ使える時間は驚くほど少ない。


 学びたいことはいくらでもあった。


 試したいことも。


 確かめたいことも。


「一日が四十八時間あればいいのに」


 半分は本気だった。


 いや。


 四十八時間あったとしても。


 きっと同じことを言っている。


    ◇


 自宅へ戻った仁は風呂を済ませると、寝るより先に机へ向かった。


 決して広い部屋ではない。ベッドと本棚と机を置けば、大きな家具を増やす余裕はほとんどなかった。


 本棚には武術関係の本が並び、机の横には何冊ものノートが積まれている。


 仁はその中から一冊を取り出した。


 表紙には日付。


 その横に小さな番号。


 ページを開けば、文字だけでなく簡単な人体図や矢印が隙間なく書き込まれていた。


『右肩が先行する』


『手を出そうとすると肩が固まる』


『一部位を起点にしない』


『始動と停止を揃える』


『速度を上げようとすると途中で加速が生まれる』


『最初から最後まで等速度を維持できないか』


 仁は今日の練習を思い返しながら、新しい書き込みを加えていった。


 ノートは単なる日記ではない。


 自分の中にある曖昧な感覚を、できるだけ言葉へ変えるためのものだった。


 できた。


 できなかった。


 なぜできた。


 何が違った。


 言葉にしてみると、分かったつもりになっていただけだと気づくことも多い。


 今日できたことが、明日もできるとは限らない。


 だから残す。


 偶然できただけなら。


 まだ技術とは呼べない。


 何度でも再現できる。


 条件が変わっても使える。


 そうなって、ようやく意味がある。


 ペンが止まった。


 仁は今日書いた内容を最初から読み返してから、椅子の背へ身体を預けた。


「……やっぱり、相手が欲しいな」


 一人でできることには限界がある。


 人を相手にすれば、必ず反応が返ってくる。


 押せば押し返される。


 引けば追われる。


 こちらの動きを警戒する。


 予想外の動きもする。


 そこに初めて、自分一人では作れない条件が生まれる。


 ただ。


 人を相手にすれば、何でも試していいわけではない。


 危険な技は途中で止める。


 関節を壊すところまで極めることはできない。


 本気で打ち抜くこともできない。


 当たり前だった。


 練習相手は実験道具ではない。


 失敗すれば怪我をさせる。


 成功しても、怪我をさせるかもしれない。


 仁は机に頬杖をつく。


「何度でも、好きなだけ試せる場所があればな」


 ゲームの練習モードのような場所。


 相手を自由に設定できる。


 失敗したら最初からやり直せる。


 怪我は残らない。


 時間も気にしなくていい。


 一回失敗したなら、もう一回。


 それでも駄目なら。


 もう一回。


 納得するまで。


 何度でも。


 そんな場所が本当にあったなら。


 どれほど多くのことを試せるだろう。


「……トレーニングモードか」


 口にして、自分で少し笑った。


 あるはずがない。


 現実はゲームではない。


 時間は戻らないし。


 怪我も消えない。


 だから、限られた条件の中で工夫するしかない。


 仁はノートの最後へ一行書き加えた。


『時間が足りない』


 少し考える。


 その下へ。


『もう一つ、自由に使える時間があればいい』


 ペンを置いた。


 時計を見る。


 午前一時を回っている。


「寝るか」


 ノートを閉じ、椅子から立ち上がった。


 その時だった。


 部屋の照明が、一瞬だけ揺らいだ。


「……?」


 仁が天井を見上げる。


 電球が切れかけているわけではない。


 停電かと思ったが、机の上の時計は動いている。


 気のせいか。


 そう思った直後。


 窓の外に見えていた街灯が消えた。


 一つではない。


 視界に入っていた明かりが。


 ほぼ同時に。


 すべて消える。


 続いて。


 部屋の照明も落ちた。


 暗闇。


「停電?」


 仁は机の上に置いたスマートフォンへ手を伸ばした。


 画面が点かない。


 電源ボタンを押す。


 反応なし。


「壊れた?」


 もう一度押そうとしたところで。


 足元から。


 僅かな振動が伝わった。


 地震。


 そう判断し、仁は机から離れようとする。


 だが。


 揺れているのは。


 部屋ではない。


「……?」


 床だけだった。


 正確には。


 仁の立っている場所だけが。


 ゆっくりと沈み始めている。


「は?」


 足元に黒い円が広がった。


 影ではない。


 暗いのではなく。


 そこだけ。


 何もない。


 底の見えない穴。


 仁は反射的に机へ手を伸ばした。


 だが、指先が届くより早く。


 足元が消えた。


「――っ!」


 身体が落ちる。


 胃が持ち上がる。


 咄嗟に何かを掴もうとするが、触れるものはない。


 暗闇。


 風。


 自分がどちらを向いているのかさえ分からない。


「なんだ、これ――」


 声は。


 闇の中へ吸い込まれていった。


 落下は終わらない。


 どれだけ待っても。


 地面は現れなかった。

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