プロローグ 終わりの戦場
戦いは、終わろうとしていた。
幾重にも築かれていた巨大な土壁は無惨に砕け、抉れた大地には深い亀裂が走っている。折れた武器や砕けた岩が散乱するその間には、人間と魔族の区別なく大勢の者たちが倒れ伏し、少し前まで響き渡っていた剣戟も怒号も、今では嘘のように消えていた。
残っているのは、負傷者たちの荒い呼吸と、戦場を吹き抜ける風の音だけだった。
その中央で、二人の男が向かい合っている。
一人は、人類最強と謳われる勇者。
金色の髪は土と血に汚れ、白銀の鎧にはいくつもの傷が刻まれている。手にした聖剣も無傷ではなかったが、その刀身には今なお膨大な魔力が宿り、淡い光を失ってはいない。
それでも勇者は、片膝をついていた。
「……っ」
聖剣を地面へ突き立て、震える脚へ力を込める。
何度も斬った。
何度も魔法を叩き込んだ。
それでも、目の前の男を倒すことはできなかった。
魔王軍四天王――ブロン。
二メートルを遥かに超える巨体は、首も肩も腕も異様なほど太く、その全身を黒い何かが覆っていた。
一見すれば、漆黒の鎧。
だが金属ではない。
魔力だった。
勇者の知る魔力防壁は淡く透け、薄い膜のように展開される。だが、ブロンを覆うそれは違う。膨大な魔力が極限まで圧縮され、光すら通さない黒い外殻となって、その巨体へ張り付いていた。
魔装。
勇者の聖剣をもってしても、完全には破れなかった。
「まだ……」
勇者は歯を食いしばり、再び立ち上がろうとする。
「まだ、終わってない」
その姿を見下ろしていたブロンは、しばらく何も言わなかった。
やがて、低く告げる。
「終わりだ」
右拳を握る。
黒い魔装が僅かに波打った。
「お前は強かった。だが――ここまでだ!」
地面が爆ぜた。
巨体からは想像できない速度で間合いを潰し、拳を振り下ろす。
勇者は咄嗟に聖剣を構えた。
拳と刀身が激突した瞬間、轟音とともに大気が震え、勇者の足元が大きく沈み込んだ。
「ぐっ……!」
押される。
聖剣にはまだ魔力がある。
勇者自身にも。
それでも、押し返せない。
腕が震え、身体が少しずつ地面へ沈んでいく。仲間たちはすでに倒れ、魔族側もほとんどが戦闘を続けられる状態ではなかった。
この場で、まだ戦える者は――。
「……遅かったか」
静かな声がした。
ブロンの拳が止まり、勇者も顔を上げる。
崩れた土壁の向こうから、三つの人影が現れた。
先頭を歩くのは、黒髪の青年だった。
勇者よりやや低いほどの背丈に、戦場へ出るにはあまりにも軽い装い。目立った鎧はなく、腰に一本の剣を提げているだけだった。
その後ろには、青年より背の高い男が続く。濃い色の外套に身を包み、腰元には短刀らしきものが見える。外套の内側にも何かを隠しているようだった。
もう一人は、小柄な少女。
紺色の外套に丸眼鏡。手には先端に結晶を備えた杖を持ち、魔法使いらしい装いをしている。
三人。
それだけだった。
援軍と呼ぶには、あまりにも少ない。
そして勇者は、先頭の青年を見て眉を寄せた。
魔力が。
感じられない。
「……誰だ」
ブロンが低く問う。
青年は答えず、荒れ果てた戦場を一度見渡してから、そのまま勇者の方へ歩いてくる。
「……逃げろ」
勇者が言った。
青年がこちらを見る。
「こいつは強い。三人とも今すぐ――」
「少し下がってて」
「……何?」
「危ないから」
「いや、だから危ないのはお前たちの方で――」
青年はそれ以上聞かず、勇者の前へ出た。
後ろにいる二人も、止めようとはしない。
ブロンの眉間に皺が寄る。
「お前、俺が誰か分かってんのか?」
「知らない」
「……」
「誰?」
ブロンのこめかみに青筋が浮いた。
「いい度胸だ!」
地面が爆ぜる。
ブロンの巨体が一気に距離を潰した。
右拳。
先ほど勇者を正面から押し潰した拳が、今度は青年の顔面へ向かって放たれる。
「避けろ!」
勇者が叫んだ。
だが、その拳が届く頃には、青年の身体はすでに半歩だけ横へずれていた。
ブォン――!
轟音とともに拳が空を切る。
「――な」
かわされたと見るや、ブロンは間髪入れず左拳を下から突き上げた。
アッパーカット。
青年の顎を砕く軌道。
それも当たらない。
身体が滑る。
地面を強く蹴った様子もなく、上半身だけを反らしたわけでもない。頭から足元までが一つの塊のように位置を変え、その動く過程だけが抜け落ちたように見える。
まるで。
一瞬だけ映像がコマ落ちしたような動きだった。
「……なんだ、あの動きは?」
勇者が思わず呟く。
「気持ち悪いよな、あれ」
すぐ横から声が返ってきた。
「!?」
勇者が振り向くと、先ほど後ろにいた外套の男が、いつの間にか近くまで来ていた。
「止めなくていいのか?」
「今のところは」
「今のところ?」
「本当にまずくなったら行く」
「いや、もう十分まずいだろう」
男は答えず、再び青年へ視線を戻した。
杖を持った少女も静かに戦いを見ている。
ブロンが拳を放つ。
青年が滑る。
追えば離れ、離れたと思えばまた懐へ戻る。
攻め続けているのは間違いなくブロンなのに、二人の距離だけを見ていると、不思議なほど動きが滑らかだった。
「……なんでお前たち、そんなに落ち着いてるんだ?」
勇者が問う。
「慣れたからじゃないですか?」
少女が答えた。
「慣れるのか、あれに?」
「多少は」
「俺はいまだに気持ち悪いと思うけどな」
「聞こえてる」
戦っている青年から声が飛ぶ。
「聞こえてんのかよ!」
外套の男が思わず叫んだ。
「よそ見すんな!」
ブロンの怒声とともに拳が飛ぶ。
青年はそれもかわした。
だが、ブロンも同じことを繰り返すつもりはない。
「いつまでも避けられると思うな!」
右、左、蹴り。
青年が動く先へ先回りするように拳を置き、逃げ道を少しずつ潰していく。
青年の位置が後ろへ下がっていくのを見て、勇者が眉を寄せた。
「……追い詰めてる」
「いや」
外套の男が目を細める。
「違うな」
勇者も青年の足取りへ目を向けた。
一見すればブロンの猛攻に押されているようにしか見えない。だが、その後退する方向には妙な規則性がある。
青年は自分から、ある場所へ向かっている。
その先には戦闘で荒れ、大きな亀裂が走った地面があった。
「誘ってる……?」
ブロンの右足が、その亀裂の縁へ乗った。
同時に右拳が振り抜かれる。
青年は拳の軌道から外れながら、すれ違うように左手をブロンの前腕へ添えた。
「またそれか!」
ブロンは構わず押し切ろうとする。
触れられたところで、踏ん張ればいい。
右脚へ力を込めた。
その瞬間。
ズッ。
「――!」
亀裂の縁が崩れ、右足がほんの僅かに沈んだ。
それだけなら、普段のブロンなら何の問題にもならない。
だが、拳にはすでに全身の力が乗っている。その行き先を僅かに逸らされたところへ、身体を支える足の位置までずれた。
腰が流れ、肩が開く。
ブロンはすぐに左足を踏み出して体勢を戻そうとした。
その瞬間。
黒い魔装が僅かに波打った。
青年の目が変わった。
大きく見開かれた目は、ブロンだけを見てはいない。足、腰、肩、そして黒い魔装までを同時に捉えているようだった。
ブロンが立て直すより早く、青年はすでに懐へ入っている。
それまでの滑るような動きとは違った。
踏み込んだ足が地面を捉え、そこから生まれた力に押し返されるように腰が回る。その回転は胴を抜けて肩へ伝わり、身体全体が一本の螺旋を描くように沈み込んだ。
その終着点に。
右肘があった。
――ドッ。
短い一撃。
ブロンの巨体は吹き飛ばない。
地面も砕けない。
先ほどまでの激しい攻防に比べれば、あまりにも地味だった。
「……それだけか?」
ブロンが青年を見下ろす。
その時。
ピシ。
小さな音がした。
「……あ?」
黒い魔装の表面に、細い亀裂が走っている。
もう一本。
さらに。
亀裂が枝分かれし、腹から脇腹、胸へと這い上がっていく。
「待て……」
ブロンが魔力を込める。
黒い外殻が激しく揺れた。
それでも亀裂は消えない。
「何しやがった!」
「身体が崩れた時だけ、それも揺れてたから」
青年はブロンの身体と魔装を見る。
「その時に打った」
「……それだけか?」
「うん」
「魔装を理解したのか?」
「いや」
「は?」
「魔法、よく分かんないし」
「……」
ブロンの顔が引きつった。
次の瞬間。
バキッ。
亀裂が一気に走った。
腹から胸へ、胸から肩へ、肩から腕へと黒い外殻が崩れ始め、弾け飛んだ破片は身体から離れた瞬間に黒さを失い、淡く透き通った魔力へ戻りながら空気へ溶けていく。
「……魔装が」
勇者は聖剣を握ったまま、その光景を見ていた。
「壊れた……?」
何度斬っても。
魔力を込めても。
破り切れなかったものが。
目の前で砕けていく。
やがてブロンを覆っていた魔装は完全に消えた。
ブロンはしばらく自分の身体を見下ろしていたが、やがてゆっくりと顔を上げる。
「……貴様」
「?」
「何者だ」
青年は答えず、自分の右肘を軽く擦った。
「……痛っ」
「……」
「硬かった」
ブロンの顔がまた引きつる。
「お前、人の魔装ぶっ壊して最初に言うことがそれか?」
「だって痛かったし」
「ふざけんな!」
怒声が戦場へ響いた。
勇者は、その青年を見ていた。
魔力は感じない。
ブロンを上回るような身体能力もない。
なのに。
自分が破れなかったものを。
この青年は崩した。
「……何なんだ、あいつ」
誰に聞かせるでもなく、言葉が漏れる。
答える者はいなかった。
そして。
目の前の青年自身もまだ。
この世界のことを、ほとんど知らなかった。
――あの時の俺は、まだ魔法を知らなかった。




