第36話 人間が住めない土地
「人間が住める土地じゃない……」
誰かが、もう一度その言葉を繰り返した。
それをきっかけに、止まりかけていたざわめきが再びギルド全体へ広がっていく。
「どういう意味だ?」
「知るかよ」
「魔族が北にいるんだぞ」
「街を狙ってるんじゃないのか?」
「偵察か?」
「魔王軍が来るのか?」
あちこちから声が重なり、不安は瞬く間に膨らんでいった。
「静かにしろ!」
受付職員が声を張る。
「まだ魔王軍と決まったわけじゃない!」
「角があったんだろ!」
「魔族であることと、魔王軍であることは別だ!」
「じゃあ何でこんなところにいる!」
「だから今から調べるんだ!」
怒鳴り声が飛び交うが、簡単には収まらない。
当然だった。
人間にとって、魔族という言葉そのものが、それだけで警戒するには十分すぎる意味を持っている。
「フィナ」
アインが担架の方へ声を掛けた。
「はい」
「そいつ、どうだ?」
フィナは担架の横へ膝をつき、怪我人へ掌をかざしている。
淡い光が傷口を包み、裂けていた皮膚が少しずつ閉じていった。
「大丈夫です。傷は深いですけど、命には関わらないと思います」
「そうか」
アインは少しだけ表情を緩めたものの、すぐに怪我人の身体へ視線を戻した。
肩。
腕。
脇腹。
傷そのものは確かに酷い。
だが。
「……」
「どうした?」
ジンが横から尋ねる。
「いや」
アインは怪我人の傷を順番に見た。
「殺す気がなかったってのは、多分本当だ」
「分かるの?」
「少なくとも、急所を外してる」
肩口の傷を確認し、そのまま脇腹へ視線を移す。
「偶然じゃなく?」
「一つならな。でも、これだけ傷があって全部なら、偶然とは思いにくい」
ジンも改めて怪我人を見る。
深く切られてはいる。
だが、首も心臓も、致命傷になりやすい場所は避けられていた。
戦って勝った。
その上で、殺さなかった。
その事実だけが妙に引っ掛かった。
◇
「おい!」
ギルドの奥から扉が開き、昨日会った支部長代理が姿を現した。
騒ぎを一目見ただけで状況を察したらしく、すぐに声を張る。
「怪我人を治療室へ運べ! 他の連中は奥へ来い! 何があったか全部聞く!」
職員たちが一斉に動き、担架が持ち上げられた。
「私も行きます」
フィナも立ち上がり、そのまま回復魔法を続けながら治療室へ向かっていく。
「頼む」
アインが見送る。
残されたジンとアインは、しばらく騒然とするギルドを眺めていた。
「……魔王軍って」
やがてジンが口を開く。
「どれくらいヤバいの?」
アインがゆっくりこちらを見る。
「お前……」
一度何か言いかけてから、思い出したように顔をしかめた。
「ああ、そうか。お前、遠い異国の辺境から来たんだったな」
「うん」
「こういう話も知らねえのか」
「全然」
「……」
アインが額を押さえる。
「何?」
「たまに忘れるんだよ。お前がこっちの常識に疎いこと」
「俺もたまに忘れる」
「お前は忘れんな」
◇
二人は騒ぎから少し離れ、ギルドの隅へ移動した。
「まず」
アインが周囲に聞こえない程度まで声を落とす。
「魔族ってのは、一つの種族じゃない」
「種族の総称?」
「大雑把にはそんな感じだ。角がある奴もいるし、獣みたいな特徴を持つ奴もいる。見た目がほとんど人間と変わらない奴もいる」
「じゃあ、魔族だから敵ってわけじゃない?」
「……」
アインは少し考えた。
「そこが面倒なんだよな。人間の国じゃ、基本的には警戒される」
「なんで?」
「昔から何度も戦争してるからだ」
「人間と魔族で?」
「ああ」
「今も?」
「大規模な戦争は今のところ起きてない。ただ、小競り合いや領域争いまでなくなったわけじゃない」
そこでアインは一度言葉を切った。
「魔族側にもいくつか大きな勢力があって、その中で人間側がまとめて魔王軍って呼んでる連中がいる」
「魔王がいる?」
「いるらしい」
「らしい?」
「俺が会ったことあるわけねえだろ」
「そりゃそうか」
「魔王軍は人間側の領域へ入ってくることもある。街や砦を襲ったり、遺跡を狙ったりな」
「遺跡?」
ジンの反応が変わる。
「ああ」
「なんで遺跡を?」
「知らん」
「また?」
「俺は世界の秘密を全部知ってる便利な説明役じゃねえ」
「結構説明してくれるから」
「次から金取るぞ」
◇
「でも」
ジンは少し考えてから続けた。
「今回の連中が、その魔王軍かどうかはまだ分からないんだよな?」
「まだな」
「分かってるのは、魔族が森にいた。それだけ」
「そうだ」
「しかも、殺せたのに殺さなかった」
「ああ」
「途中で向こうから戦闘を止めた」
「ああ」
「それで、『これ以上奥へ来るな』『ここはもう人間が住める土地じゃない』」
「……」
「侵略しに来た奴の言葉っぽくないよな」
アインはすぐには答えなかった。
「どう思う?」
「分からん」
「でも、変だとは思う?」
「……思う」
少し間を置いて、アインが答える。
「普通、人間を追い払いたいだけなら、『ここから先は俺たちの領域だ』とか、『近づけば殺す』とか、そういう言い方になる」
「だよな」
「でも」
アインも、先ほどの言葉をゆっくり繰り返した。
「人間が住める土地じゃない」
「……」
「土地そのものの話をしてる」
ジンの頭に、昨日見た森の光景が浮かぶ。
弱った木々。
落ちた葉。
痩せた魔物の死骸。
消えた鳥や虫。
そして、ほとんど感じられないほど薄くなった魔力。
「やっぱり」
ジンが小さく呟く。
「あいつら、森がおかしくなってる理由を知ってるんじゃないか?」
◇
「余計な詮索はするな」
突然、横から声が飛んできた。
二人が振り返ると、少し離れた場所に支部長代理が立っていた。
「聞いてた?」
「聞こえた」
男は二人の前まで歩いてくる。
「今回の件は、今からギルドが扱う。お前たちは関わるな」
「昨日も言われた」
「なら守れ」
「でも」
ジンはそのまま尋ねた。
「魔族が何であそこにいるか、気にならない?」
「気になる」
返事は即答だった。
「だから専門の人間を出す。お前たちが行く必要はない」
「専門?」
アインが聞く。
「王国へ報告する」
支部長代理は二人を順番に見た。
「魔王軍の可能性がある以上、冒険者ギルドだけで判断する案件ではない」
「軍が動く?」
「可能性はある」
「……」
アインが黙る。
支部長代理は少し間を置いてから、さらに声を低くした。
「それと、昨日森で見た印についても他言するな」
ジンが首を傾げる。
「やっぱり知ってる?」
「……」
「昨日、見覚えないって言ったよな」
「言った」
「今日も?」
「何がだ」
「見覚えない?」
一拍。
「ない」
「……そう」
ジンはそれ以上聞かなかった。
だが、アインだけは支部長代理の顔をじっと見ていた。
◇
男がギルドの奥へ戻っていくのを見送り、少し待ってからアインが小さく言った。
「嘘だな」
「やっぱり?」
「ああ」
「どうして分かる?」
「答え方が妙だ」
「答え方?」
ジンが聞き返す。
「昨日、印を見た時から反応してる。それなのに、何も知らないって言い切る割には、わざわざ俺たちに他言するなって念を押してくる」
「……確かに」
「本当に何でもない印なら、そこまで気にする理由がない」
ジンは少し考えた。
「じゃあ、印そのものを知ってるかどうかは分からないけど、少なくとも何か心当たりはある?」
「多分な」
アインは支部長代理が消えた扉を見る。
「何か隠してるのは間違いないと思う」
「追う?」
「追わん」
「即答」
「言っただろ」
アインは再び歩き始める。
「こういう時は、相手が隠したいものを無理に剥がすより、何を隠そうとしてるか見た方がいい」
「……」
ジンが横からアインを見る。
「やっぱり慣れてるよな」
「何が」
「そういうの」
「……」
少しだけ沈黙があった。
「昔ちょっとな」
「またそれ」
「便利だろ」
「便利だけど」
アインは、それ以上は話さなかった。
◇
昼を過ぎた頃、フィナが治療室から戻ってきた。
「終わりました」
「どうだった?」
「大丈夫です。今日はこのまま休ませるそうです」
「魔力は?」
ジンがすぐに尋ねる。
「私の?」
「うん」
フィナは少し驚いたあと、自分の身体へ意識を向ける。
「今日は普通です」
「身体の重さも?」
「もう大丈夫です」
「じゃあ昨日のは」
「やっぱり森で消耗した影響だったんだろうな」
アインが言う。
「多分」
フィナも頷いた。
「よかった」
ジンがそう言うと、フィナが何故かじっとこちらを見る。
「何?」
「いえ」
少しだけ笑う。
「ちゃんと心配するんですね」
「するよ」
「研究対象として?」
「フィナ」
「冗談です」
笑ったあと、フィナは少し真面目な表情へ戻った。
「でも、昨日の森……長くいたら、かなり危なかったと思います」
「魔力が戻らないから?」
「それもあります。でも」
フィナは昨日感じた身体の重さを思い出すように、自分の腕を軽く握った。
「魔力が戻らない状態って、思ってたより身体そのものが疲れるみたいです」
「……」
ジンの目が変わる。
「今」
「ノート出さないでください」
「まだ何もしてない」
「顔で分かります」
「フィナまでそれ使うようになったな」
◇
午後。
三人は本当に普通の依頼を選んでいた。
「薬草採取」
ジンが手にした依頼書を見る。
「普通だ」
「だから言っただろ」
アインが満足そうに頷く。
「今日はこれだ」
「場所は?」
「南」
「北じゃないんですね」
「当たり前だ」
アインは依頼書の端を指で叩いた。
「北はもう立入制限がかかってる」
「もう?」
「ああ」
今朝の一件を受けて、ギルドから北方面へ向かう冒険者たちへ、当面の間は森の深部へ入らないよう通達が出されていた。
「南なら安全?」
「比較的な」
「比較的」
「絶対なんてねえよ」
「それもそうか」
◇
三人が南門を抜けたところで、ジンが何気なく足を止めた。
「どうした?」
「いや」
振り返る。
そこには、ベルクを囲む巨大な防壁がある。
当然、北側だけではない。
壁は街をぐるりと囲んでいた。
「フィナ」
「はい?」
「こっちは?」
「何がですか?」
「魔力」
「……?」
「北の森は薄かっただろ。南側はどうなのかなって」
フィナは言われて初めて意識を向けるように、周囲をゆっくり見回した。
「普通だと思います」
「北だけ?」
「昨日の報告では、北東と西でも似た話が出てたな」
アインが答える。
「そうだった」
ジンはもう一度防壁を見る。
北。
北東。
西。
そして、今いる南。
「……」
「何考えてる?」
「まだ分からない」
「じゃあ考えるな」
「無茶言うな」
三人はそのまま南へ歩き出した。
◇
南側には広い草原があり、その先に小さな林が続いている。
北の森とは違い、鳥の声も虫の羽音も普通に聞こえていた。
「これ?」
ジンが草を一本指差す。
「違います」
フィナが即答する。
「じゃあこれ」
「それも違います」
「これ」
「毒草です」
「危な」
横で見ていたアインが呆れる。
「お前、一人で採取依頼受けるなよ」
「覚えるから」
「毒草食って覚えるなよ」
「食べないって」
昨日までの緊張が嘘のようだった。
風が吹けば草が揺れ、木々の間では鳥が鳴き、小さな虫が当たり前のように飛んでいる。
「……」
ジンはしゃがんだまま、改めて周囲を見回した。
「やっぱり違うな」
「北と?」
「うん」
フィナも感覚を確かめるように頷く。
「魔力も、こっちは普通です」
「植物も元気」
「そうですね」
「魔物は?」
「普通にいると思うぞ」
アインが答える。
「普通にいる方が安心するって変な感じだな」
「昨日の後だとな」
◇
一時間。
二時間。
三人は林の周囲を回りながら薬草を集めていった。
「結構集まった」
ジンが袋の中を確認する。
「お前が集めたやつ、三割くらい毒草だけどな」
「分けてあるから大丈夫」
「なんで毒草まで持って帰るんだ」
「何か使えるかもしれない」
「捨てろ」
「研究用に」
「捨てろ」
「ちょっとだけ」
「フィナ」
「私に振らないでください」
◇
帰り道。
日が傾き始めた頃には、ベルクの防壁が遠くに見えるようになっていた。
ジンは歩きながら、何となく北の方角を見る。
ここからでは森そのものは見えない。
その向こうにあるのは、魔力の薄くなった土地。
街へ移動してきた魔物。
森にいた魔族。
そして、木に刻まれていた奇妙な印。
「なあ」
「今度は何だ」
「魔王軍って、遺跡を狙うことがあるって言ってたよな」
「ああ」
「ベルクも遺跡の上にある」
「そうだな」
「だったら」
ジンは少し考えてから続けた。
「今回の魔族も、ベルクを狙ってる可能性はある?」
アインはすぐには答えなかった。
「普通に考えれば、ある」
「そっか」
「ただ」
そこで少し言葉を切る。
「俺は、今回に限ってはそれだけじゃない気がする」
「なんで?」
「勘」
「珍しい」
「俺だって勘くらい使う」
「罠の人なのに?」
「お前まで言うな」
フィナが横で笑う。
アインも呆れたように息を吐いたが、そのまま一度だけ北の方角へ目を向けた。
魔族がいる。
森の魔力が薄れている。
魔物がそこから街側へ移動している。
そして、支部長代理は何かを隠している。
まだ、どれも繋がったとは言えない。
それでも。
全部を別々の出来事として片づけるには、引っ掛かるものが多すぎた。
「行くぞ」
「ああ」
三人はベルクへ向かって歩き続けた。
◇
その夜。
ベルクから北へ離れた森のさらに奥。
人の入らない場所で、小さな焚き火が揺れていた。
炎を囲んでいるのは三つの影。
一人は短い角を持つ男。
一人は長い耳を持つ女。
そしてもう一人は、深く被った外套で顔を隠している。
「人間側が森を封鎖した」
角の男が炎を見ながら言った。
「遅いくらいだ」
長い耳の女が答える。
「これ以上入られれば、こちらも守り切れない」
「今日の連中は?」
「生きて帰した」
その答えを聞いて、女が僅かに眉を寄せる。
「余計なことを」
「殺す必要がない」
「人間だぞ」
「だから何だ」
角の男は視線を上げることなく答えた。
「我々の任務は、人間を殺すことじゃない」
「……」
そこで、これまで黙っていた外套の人物が初めて口を開いた。
「変化は」
低い声だった。
「今日も広がっている」
角の男の表情が変わる。
「どの程度だ」
「昨日より、さらに南へ」
短い沈黙が落ちた。
「早すぎる」
「ああ」
「このままなら」
外套の人物は揺れる炎を見つめたまま続ける。
「ベルクまで、そう長くはない」
「……」
「遺跡は?」
角の男が尋ねる。
「まだ動いている」
長い耳の女が小さく舌打ちした。
「人間どもは、まだ気づいていないのか」
「気づいていない」
外套の人物は一度そこで言葉を切った。
「あるいは」
炎が大きく揺れる。
「気づいている者が、黙っている」
◇
焚き火から少し離れた場所。
一本の木の幹に、浅く刻まれた印があった。
二本の線。
その下に、短い横線。
三人が森で見つけたものと。
まったく同じ印だった。




