第35話 森の奥から
ベルクへ戻った頃には、空が赤く染まり始めていた。
三人がそのまま冒険者ギルドへ入り、扉が背後で閉まったところで、フィナがようやく緊張を解くように小さく息を吐いた。
「疲れた……」
「戦闘、ほとんどしてないのに?」
「精神的にです」
「分かる」
アインも頷きながら受付へ向かう。
「何もいない森って、魔物がいる森より気持ち悪いからな」
「そういうもの?」
「敵がいるなら、そいつを警戒すればいい。何もいない理由が分からない方が面倒なんだよ」
「なるほど」
ジンが納得すると、アインが横目でこちらを見る。
「お前は割と平気そうだったな」
「気になる方が勝ってた」
「知ってた」
呆れたように返しながら、アインは受付まで歩いていった。
◇
「戻ったか」
三人に気づいた受付職員が声を掛けてくる。
「どうだった?」
「思ったより面倒な報告になる」
アインは周囲を一度見てから、声を少し落とした。
「奥で話せる?」
その一言で、職員の表情が変わった。
「……分かった。少し待て」
そう言い残して奥へ消え、数分後、三人はギルドの小さな会議室へ通された。
簡素な机と椅子が置かれ、壁にはベルク周辺の地図が掛けられている。
ただし、待っていたのは先ほどの受付職員だけではなかった。
机の奥側に、一人の年配の男が座っている。
短く刈った白髪に、左目の上を走る古い傷。着ている服も受付職員たちとは違い、明らかに立場が上だった。
「この人は?」
ジンが小声で尋ねる。
「ギルドの支部長代理だ」
アインも声を落として答えた。
「代理?」
「支部長は今、王都にいる」
「へえ」
「そこは今どうでもいい。座れ」
三人が席につくと、年配の男は余計な挨拶もせず、すぐに口を開いた。
「報告を聞こう」
◇
最初に話したのは、森で確認した魔物の痕跡についてだった。
「浅い場所には多かった」
アインが壁の地図へ近づき、森の入り口側を指す。
「グレイウルフ、タスクボア、角ウサギ。種類自体は前回までに報告されてたものと同じだ」
「そこまでは以前の報告と一致している」
支部長代理が頷く。
「ただ」
アインの指が、そこからさらに森の奥へ移動した。
「この辺りから逆に減った」
「減った?」
「ああ。足跡も糞も、木についた爪痕も、新しいものがほとんどなくなった」
「鳥や虫も少なかったです」
フィナも続ける。
「木や草も、少し弱っているように見えました」
「病害か?」
「分かりません。ただ……」
フィナは一度言葉を選ぶように間を置いた。
「魔力が薄かったです」
その言葉が出た瞬間、部屋の空気が僅かに変わった。
支部長代理がフィナへ目を向ける。
「どの程度だ」
「普段なら周りに感じられるくらいの魔力が、ほとんど感じられませんでした」
「魔法は使えたのか?」
「はい。自分の中に残っている魔力を使う分には問題ありません。でも、使った後の回復が明らかに遅かったです」
フィナが胸元へ手を置きながら説明すると、支部長代理は隣にいる職員へ視線を向けた。
「他に似た報告は?」
「魔力については……何件か」
職員が手元の記録をめくる。
「何件か?」
「北だけではありません。北東、それから西側でも、魔法使いから『いつもより魔力の戻りが遅い』という報告が出ています」
「いつからだ」
「はっきりとは。ただ、最近になって増えています」
そのやり取りを聞きながら、ジンは壁の地図へ視線を向けた。
北。
北東。
西。
「……点じゃないんだ」
「えっ?」
フィナがこちらを見る。
「いや」
ジンは首を振った。
「続けて」
◇
「次は死骸だ」
アインが話を戻す。
「複数見つけた。どれも痩せてて、目立った外傷はなかった」
「毒の可能性は?」
「否定はできない。ただ、周囲に毒草が大量発生してるような痕跡はなかった」
「感染症は?」
「それも分からん」
支部長代理は指を組みながら少し考えた。
「死骸は持ち帰らなかったのか?」
「調査依頼だ」
アインが即答する。
「原因不明の死骸を担いで街まで戻る気にはならなかった」
「正しい判断だ」
そこは迷わず頷いた。
「次を」
「人の痕跡」
アインがそう言った途端、今度は明確に空気が変わった。
「人数は?」
「最低でも三人。野営跡があった。ただし、痕跡は意図的に消されてた」
「冒険者証か、所属を示す印は?」
「残ってない」
「焚き火跡だけか?」
「足跡もあった。それと――」
そこでジンがノートを開いた。
「これ」
森で書き写した印のページを開き、机の中央へ置く。
二本の線。
その下にある、短い横線。
支部長代理の視線が、そこで止まった。
「……」
ほんの僅かな沈黙。
「知ってる?」
ジンがそのまま尋ねる。
男はすぐには答えなかった。
「いや」
少し遅れて、短く返す。
「見覚えはない」
その答えを聞いた瞬間、アインの目がほんの僅かに細くなった。
だが、何も言わない。
「印にも様々な意味がある」
支部長代理は続けた。
「森には盗賊もいる。密輸屋や、国境を越えて動く連中もいるからな」
「この辺って国境近いの?」
ジンが聞く。
「近くはない」
「じゃあ密輸屋?」
「例だ」
短く返され、アインが机の下で静かに足を組み直した。
◇
「もう一つあります」
フィナが口を開く。
「帰り道で、魔力の濃さが戻る場所がありました」
「境界があったのか?」
「はっきり線を引けるようなものではありません。でも、濃さが変わる場所は感じました」
「ここ」
ジンが自分のノートを開き、簡単に描いた地図を見せる。
「この辺りから、フィナが『戻ってくる』って言ってた」
「魔力の回復が?」
「はい」
支部長代理は地図をしばらく見つめていたが、やがて低く呟いた。
「……随分奥まで行ったな」
「危なかった?」
「今となってはな」
「今となっては?」
ジンがすぐに拾う。
男の口が一度閉じた。
「どういう意味?」
「いや」
支部長代理は椅子へ深く座り直した。
「状況が分からん以上、これ以上奥へ行かせるべきではなかったという意味だ。今回の判断はこっちの落ち度だ。お前たちに責任はない」
「……」
アインが横目で男を見る。
それでも、何も言わなかった。
◇
「じゃあ、これからどうする?」
ジンが尋ねる。
「追加調査だ」
支部長代理は迷わず答えた。
「ただし、お前たちは一旦外す」
「え?」
フィナが驚いて顔を上げる。
「なんで?」
「情報が増えすぎた」
男は机の上の記録を順に指で示した。
「魔物の生息域の変化。原因不明の魔力低下。不審な人型集団。もう新人三人に任せる範囲を越えている」
「新人三人……」
アインがぼそりと呟く。
「そこは否定できないな」
「俺も新人?」
ジンが聞くと、アインが即座に振り向いた。
「お前が一番新人だよ」
「そうだった」
「忘れるな」
支部長代理は報告書をまとめながら続ける。
「明日、上位冒険者を含めた調査班を出す。お前たちは通常依頼へ戻れ」
「以上?」
「以上だ」
あまりにもあっさりした答えに、少し拍子抜けしながらもアインが立ち上がり、フィナとジンもそれに続いた。
そのまま部屋を出ようとしたところで。
「待て」
三人が振り返る。
支部長代理は、まだジンの写した印を見ていた。
「その印。他に見た者はいないな?」
「多分」
「そうか」
男は紙を裏返した。
「忘れろ」
「……」
ジンが首を傾げる。
「なんで?」
「調査班が確認する。お前たちが気にする必要はない」
「そう」
それ以上は聞かず、三人はそのまま部屋を出た。
◇
扉が閉まり、廊下を数歩進んだところで。
「アイン」
「言うな」
「まだ何も言ってない」
「分かる」
アインが足を止めると、フィナも一度周囲を確認してから声を落とした。
「やっぱり、変でしたよね?」
「ああ」
「何が?」
ジンが尋ねると、アインは先ほどの会議室の扉へ一度だけ目を向ける。
「印を見た時だ。あの爺さん、一瞬反応した」
「知ってた?」
「断定はできん。でも、『見覚えがない』奴の顔じゃなかった」
「じゃあ、なんで嘘を?」
「知らん」
「聞く?」
「今はやめとけ」
「どうして?」
アインは少し考えてから、再び歩き始めた。
「こっちに隠す理由があるってことは、下手に突けば逆に何も教えてもらえなくなる」
「なるほど」
ジンも隣を歩きながら頷く。
「そういう駆け引き得意だな」
「……」
一瞬だけ、アインの足が止まりかけた。
「昔ちょっとな」
それだけ答えると、すぐに先へ進んでしまう。
ジンとフィナは一度顔を見合わせたが、どちらもそれ以上は追及しなかった。
◇
「で」
その後、三人はギルドの食堂へ移動した。
料理が並び、アインがパンをちぎりながら言う。
「明日は普通の依頼だ」
「また言ってる」
「今度こそだ」
「薬草採取?」
「それでもいい」
「警報具?」
「それもいい」
「グレイウルフ十匹?」
「それは普通じゃない」
フィナが思わず笑い、張り詰めていた空気がようやく少しだけ戻る。
だが、スープを口に運んだフィナが、ふと自分の掌を見た。
「でも……まだ少し変なんです」
「何が?」
「魔力です」
「戻ってない?」
「街へ戻ってからはちゃんと戻っています。でも、いつもより身体が重い気がして」
「森で消耗したせいかな?」
「多分……」
「単純に疲れてるだけじゃない?」
ジンが尋ねると、フィナも少し考えてから頷いた。
「それかもしれません」
「今日は早く寝た方がいいな」
アインが言う。
「珍しくまとも」
「俺を何だと思ってる」
「罠の人」
「もっとあるだろ」
「短刀の人?」
「そういう意味じゃねえ」
◇
食事を終えると、フィナは先に宿へ戻った。
ジンとアインは二人で夜のベルクを歩く。
昼間の熱気はもう消え、人通りも少なくなっていた。
「なあ」
しばらくして、アインが口を開く。
「何?」
「今日の森。お前、何か思ったか?」
ジンはすぐには答えず、昼間に見たものを頭の中で順番に並べた。
「まだ分からない。でも、魔物が街の方へ来てる。奥は魔力が薄い。生き物も少なくて、死んでる魔物までいる。それに、人の痕跡もあった」
「……」
「全部、同じ原因だと思う?」
「分からん」
アインも少し考える。
「でも、全部別々に起きてるって考えるには、ちょっと出来すぎてる気はする」
「だよな」
二人はそのまま歩き続けた。
やがて建物の隙間から、ベルクを囲う巨大な防壁が見えてくる。
夜空の下にそびえる、古い壁。
「……」
ジンが何となく足を緩め、それを見上げた。
「どうした?」
「いや」
視線を壁へ向けたまま答える。
「今日、フィナが言ってただろ。魔力って自然から戻ってくるんだな」
「そうだな」
「じゃあさ」
ジンは巨大な防壁を見上げた。
「街全体を覆う防壁機能って、どれくらい魔力使うんだろうな」
「……」
アインも同じように壁を見る。
「知らん」
「だよな」
それ以上、話は続かなかった。
◇
翌朝。
三人はいつものようにギルドへやってきた。
ジンが依頼掲示板を眺めていると、ふと違和感に気づく。
「……あれ?」
「何ですか?」
フィナが隣へ来る。
「昨日、北の森へ調査班を出すって言ってたよな?」
「はい」
「依頼がない」
アインも近づき、掲示板を確認した。
上位冒険者向けの調査依頼。
討伐。
護衛。
いくつもの依頼が貼られているが、北の森に関するものは一枚も見当たらない。
「内部依頼じゃないか?」
アインが言った。
「掲示板に出さず、直接頼むこともある」
「そういうもの?」
「ああ」
その時だった。
ギルドの入口が勢いよく開いた。
数人の冒険者が中へ入ってくる。
装備は泥に汚れ、所々に傷があり、全員の顔に濃い疲労が浮かんでいる。
明らかに普通の依頼帰りではなかった。
「治療!」
一人が叫ぶ。
その声を聞いた瞬間、フィナが反射的に動いた。
「怪我人ですか!?」
「待て!」
職員たちも一斉に駆け寄る。
担架が運び込まれ、その上には一人の冒険者が横たわっていた。
「何があった!」
受付職員が声を張る。
仲間の冒険者が荒い呼吸を整えながら答えた。
「北だ……」
三人の表情が変わった。
「森の奥で……人間じゃない奴らがいる」
担架の横から垂れた血のついた手が、力なく揺れる。
ギルドの空気が一瞬で変わった。
「何人だ」
「分からねえ……」
「戦ったのか?」
「違う」
男が首を振る。
「こっちが見つけたんじゃない」
一度息を吸い。
低く続ける。
「あいつらが、先に俺たちを見つけた」
◇
「角があった」
その言葉を聞き。
ギルドの奥で、誰かが呟いた。
「……魔族?」
一瞬の静寂のあと、ざわめきが一気に広がった。
「魔王軍か!?」
「北に?」
「なんでこんなところまで!」
「いつからだ!」
「静かにしろ!」
職員が怒鳴るが、騒ぎは簡単には収まらない。
その中でフィナは担架の横へ膝をつき、すぐに回復魔法を始めていた。
ジンはその少し横から、怪我をした男を見る。
「襲われた?」
「……」
男はすぐには答えなかった。
何かを思い返すように、僅かに眉を寄せる。
「戦闘にはなった」
「でも?」
「……あいつら」
男は低く答えた。
「俺たちを殺す気なら、多分全員殺せた」
「……」
「途中で退いたんだ」
その言葉に、アインの目が鋭くなる。
「向こうから?」
「ああ」
「何も言わず?」
「いや」
男は遠くを見るような目をした。
「一人、変なことを言ってた」
「何て?」
「……」
記憶を確かめるように少し間を置いてから、ゆっくり口を開く。
「これ以上、奥へ来るな」
先ほどまで騒がしかったギルドが、また静かになった。
男の声だけが続く。
「ここはもう、人間が住める土地じゃないって」
「……」
ジンは何も言わなかった。
ただ昨日見た、鳥も虫も消え、痩せた魔物の死骸だけが残っていた森を思い出していた。




