第26話 必要なだけ
フィナの訓練を始めてから、数日が経った。
劇的に何かが変わった――というほどではない。
少なくとも、見た目には。
「……いきます」
朝。
まだ人通りの少ない公園で、フィナは両手を胸の前へ構えていた。
ゆっくりと息を吸い、身体から余計な力を抜く。
足裏。
足首。
膝。
股関節。
腰。
背中。
肩。
肘。
手首。
そして掌まで。
一つ一つを別々に動かすのではなく、足元から続く一本の螺旋として繋げていく。
そこへ魔力を沿わせる。
淡い光が掌に宿った。
「……ふぅ」
フィナが息を吐く。
数日前と比べれば、明らかに光は強くなっている。揺らぎも少なく、発動したあとの表情にも以前ほど疲労は見えない。
だが。
「遅い」
「うっ」
ジンの一言で、フィナの肩が落ちた。
「分かってます……」
「途中、腰で一回止まった」
「それも分かってます……」
「あと肩で力んだ」
「分かってますってば……」
「なら大丈夫だな」
「もう少し褒めてくれてもいいと思うんですけど……」
フィナが不満そうに頬を膨らませる。
少し離れた木の下では、アインが幹へ背を預けたまま大きな欠伸をしていた。
「朝っぱらからよくやるよ」
「アインもやる?」
「やらん」
「即答だな」
「俺は朝に弱いんだよ」
「毎回来てるけど」
「お前ら二人だけにすると、何するか分からねえからな」
「どういう意味ですか!?」
フィナが振り返る。
アインは答えず、もう一度欠伸をした。
「もう一回やります」
フィナが再び正面を向く。
「休まなくて大丈夫?」
「はい。今の、もう一回やった方がよさそうなので」
「じゃあ、腰だけ気をつけて」
「はい」
フィナが呼吸を整えるのを見ながら、ジンは僅かに口元を緩めた。
最初に比べれば、かなり良くなっている。
まだ意識しなければ全身の繋がりは崩れるし、発動までにも時間がかかる。それでも、一度うまく繋がった時の回復魔法は以前より安定していた。
あとは繰り返すだけだ。
意識しなければできないことを、意識すればできるようにする。
それをさらに繰り返し、やがて考えなくてもできるところまで身体へ染み込ませる。
一度できただけでは、技術とは呼べない。
「……ジン」
「ん?」
アインが木にもたれたまま声をかける。
「お前、楽しそうだな」
「そう?」
「そうだよ」
アインは呆れたように笑った。
「人に反復練習させてる時だけ、妙に生き生きしてる」
「大事だからな。反復」
「フィナ、逃げるなら今だぞ」
「えっ」
「余計なこと言うなよ」
「……ちょっとだけ考えます」
「フィナ?」
アインの笑い声が、朝の公園に響いた。
◇
その日の昼。
三人は冒険者ギルドの依頼掲示板を眺めていた。
「これなんてどうですか?」
フィナが一枚の依頼書を指差す。
ジンも横から覗き込んだ。
「薬草採取?」
「はい。北西の森です」
「また森か」
アインが露骨に嫌そうな顔をした。
「何かあるんですか?」
「いや」
アインは肩をすくめる。
「前回の森がちょっと濃すぎただけだ」
「ああ……」
キール。
雨。
泥。
冒険者狩り。
そのあとには、ギルド内部の内通者まで出てきた。
初めての依頼としては、確かに濃すぎる。
「今回は普通の依頼みたいですよ」
フィナが依頼書を見せる。
「その台詞、信用していいんだろうな?」
「私に言われても……」
ジンも内容へ目を通した。
指定された薬草を二十株。
場所は北西の森の浅い区域。
確認されている魔物も小型が中心で、危険度は低い。報酬もそれほど高くはない。
「いいんじゃない?」
「だろ?」
アインがすぐに頷く。
「こういうのでいいんだよ。こういうので」
「アインさん、ものすごく普通の依頼を求めてますね……」
「当然だ。前回みたいなのが何度も続いてたまるか」
「それは同感」
ジンも頷いた。
「お前はもう少し反省した顔で言え」
「なんで俺が?」
「なんとなくだ」
「理不尽だな」
三人は依頼書を受付へ持っていき、手続きを済ませてギルドを出た。
◇
北西の森までは、ベルクから歩いてそれほどかからなかった。
街道をしばらく進み、途中から脇道へ入る。
以前キールたちと戦った森とは別の場所で、木々の間隔も広く、昼の光が地面まで届いていた。
「薬草って見分けられる?」
ジンが尋ねる。
「もちろんです」
フィナが答えた。
「村にいた頃にもよく採ってましたから」
「俺は無理」
「堂々と言うなよ」
アインが横から口を挟む。
「似た草を持って帰ったらどうする」
「フィナがいる」
「人任せじゃねえか」
「適材適所」
「便利な言葉覚えやがって」
そんなことを話しながら森を進んでいると、少し先を歩いていたフィナが「あ」と声を上げてしゃがみ込んだ。
木の根元に、細長い葉を持つ植物が数株生えている。
「これです」
「もう見つかった」
「この辺なら結構生えてると思いますよ」
フィナは葉の形を確かめながら、根元を残して必要な部分だけ摘み取った。
「全部抜かないんだ?」
「根まで取ったら、次が生えてきませんから」
「なるほど」
ジンも隣へしゃがみ、近くにあった似た葉へ手を伸ばす。
「それ違います」
「え」
「そっちは似てるだけです」
伸ばした手が止まる。
「……難しいな」
後ろでアインが鼻を鳴らした。
「武術より難しいか?」
「少なくとも、知らない草は殴っても覚えられない」
「殴って覚えてたのかよ」
「まさか」
「今、一瞬考えただろ」
「気のせい」
◇
依頼は順調に進んだ。
十株。
十五株。
十八株。
残りは二株。
「本当に普通だ……」
アインがしみじみと呟いた。
「嬉しそうですね」
「嬉しいよ」
その直後だった。
近くの茂みが、ガサッと揺れた。
三人の空気が変わる。
もう一度。
ガサガサッ。
アインの手が腰の短刀へ伸び、フィナも杖を握り直した。
ジンは茂みだけを見ず、その周囲まで広く視野へ入れる。
枝葉が大きく揺れた。
そこから飛び出してきたのは、大型犬ほどの四足の魔物だった。全身を覆う灰色の毛の間から鋭い牙を覗かせ、低く唸っている。
「灰牙狼ですね」
フィナが声を潜める。
「一匹か?」
アインが周囲へ目を走らせた。
答えるように、別の茂みが揺れる。
一匹。
さらに奥から二匹。
三匹。
四匹。
最初の一匹を合わせて五匹。
「……五匹か」
「普通の依頼じゃなかった?」
ジンが言う。
「このくらいは普通だ!」
アインが短刀を抜いた。
最初の灰牙狼が地面を蹴る。
「来るぞ!」
真正面から飛びかかってきた牙を、ジンは半歩だけ位置を変えて外した。
すれ違う瞬間。
腰の剣を抜く。
刃が灰牙狼の首筋を横へ走った。
灰色の毛が裂け、血が散る。
灰牙狼は勢いのまま数歩進み、そのまま地面へ崩れ落ちた。
だが、二匹目は止まらない。
低く身体を沈め、そのままジンへ駆けてくる。
ジンは剣を構え直さなかった。
その必要はない。
足元には、乾いた土がある。
右足を地面へ滑り込ませ、そのまま蹴り上げた。
砂と細かな土が舞い、灰牙狼の顔へまともに浴びせられる。
「ギャン!」
灰牙狼が反射的に目を閉じ、頭を振った。
一瞬。
動きが止まる。
それで十分だった。
ジンは間合いへ入り、下がった灰牙狼の頭へ右脚を振り抜いた。
ゴッ。
硬い脛が顎から首筋へ食い込み、灰牙狼の身体が横へ弾かれる。
地面を転がったあと、前脚を突いて起き上がろうとする。
だが、頭を振るだけでまともに立てない。
「フィナ!」
「はい!」
フィナが杖を構えた。
「今日はなるべく魔法使わなくていい」
「え?」
「朝も練習しただろ。少し休ませた方がいい」
「でも――」
「五匹なら大丈夫」
横で聞いていたアインが呆れたように言う。
「お前が言うと、本当に大丈夫そうなのが腹立つな」
その間にも灰牙狼がフィナへ飛びかかった。
フィナは杖を両手で握り。
「じゃあ、これで!」
横から思い切り振った。
ゴンッ。
「ギャン!」
杖が灰牙狼の頭へ直撃し、その身体が横へ転がる。
「……意外と強いな」
「村育ちなので!」
「どういう理屈だよ!」
アインが叫びながら身体を沈めた。
別の灰牙狼の牙が、その頭上を通り過ぎる。
アインはすれ違いざまに短刀を振った――が、刃は使わない。
柄で鼻先を打つ。
「ギャッ!」
灰牙狼が顔を逸らした。
その瞬間、アインが空いた手を相手の顔の前へ出す。
指先へ、ごく僅かな光が集まった。
「――弾けろ」
パチン。
小さな破裂音とともに、光が弾ける。
「ギャン!」
至近距離で突然光を浴びた灰牙狼が大きく仰け反った。
威力はほとんどない。
傷をつけるための魔法ではなかった。
ただ一瞬、視界と意識を奪うためだけの光。
だが、それで十分だった。
アインは短刀を逆手へ持ち替えると、仰け反った灰牙狼の懐へ一気に入った。
胸郭の位置を見定める。
その奥。
心臓。
一点へ刃を突き込んだ。
灰牙狼の身体が一度だけ震え、そのまま力を失う。
ジンはその一連の動きを視野の端へ収めながら、残った灰牙狼へ目を向けた。
低い唸り声。
だが、もう飛び込んではこない。
倒れた仲間と三人を交互に見ながら、じりじりと後ずさっていく。
やがて一匹が身を翻した。
それを追うように、もう一匹も森の奥へ駆けていく。
ジンは追わなかった。
こちらへ向かってこないなら、それでいい。
しばらく警戒したあと、剣についた血を払い、鞘へ戻した。
辺りに静けさが戻る。
◇
「よし」
アインが倒した灰牙狼から短刀を抜き、刃についた血を拭った。
「これくらいだよ。普通の依頼ってのは」
「普通の依頼でも魔物には襲われるんですね……」
「森に入ってるんだから、それくらいはある」
フィナは倒れている灰牙狼へ目を向けた。
「でも、この辺で五匹まとまってるのは少し珍しいですね」
「そうなの?」
「はい。もっと奥なら普通ですけど、この辺りは森の浅いところなので」
フィナは木々の奥を見る。
「餌でも減ってるんでしょうか」
「さあな」
アインが短刀を鞘へ戻した。
「魔物だって住みにくくなれば場所を変えるだろ」
「そうですね」
この時は、それ以上気にする者はいなかった。
「それより」
ジンがアインを見る。
「何だ?」
「さっきの、もう一回やって」
「……何を?」
「指先で光らせたやつ」
「ああ、あれか」
アインが人差し指を立てる。
「ただの閃光だぞ」
「魔法?」
「一応な」
指先へ小さな光が集まる。
次の瞬間。
パチン。
乾いた音とともに、光が一瞬だけ弾けて消えた。
ジンが目を細める。
「……弱いな」
「おい」
「いや、思ったより小さかった」
「喧嘩売ってんのか?」
「違うって」
ジンはアインの指先を見る。
「キールと戦った時も火を使ってただろ」
「使ったな」
「あれも小さかった」
「……」
「アインって、あんまり魔法使わないよな」
アインが少しだけ黙った。
フィナも、その言葉で思い出したように振り返る。
「そういえば……」
「フィナまで何だよ」
「罠とか道具を使ってる印象の方が強いです」
「まあな」
アインは面倒そうに頭を掻いた。
「使わないんじゃない」
「じゃあ?」
「使えないんだよ」
あっさりとした答えだった。
「俺、魔力が少ないからな」
ジンが瞬きをする。
「魔力が少ない?」
「ああ」
「どれくらい?」
「そこ聞く?」
「気になる」
「お前、本当にそういうところ遠慮ないよな」
アインはため息を吐いた。
「昔から少ないんだよ。大きな魔法なんてまず無理だ」
「身体強化は?」
「長くは使えない。強くかけるのも無理」
「火は?」
「さっき見ただろ」
アインが人差し指を立てると、その先に小さな炎が灯った。
蝋燭の火と大して変わらない。
「この程度なら問題ない」
「もっと大きくできる?」
「できなくはないけど」
炎が少し膨らむ。
だが、長くは続かなかった。
すぐに火が消える。
「効率が悪い」
「……」
ジンは黙ったままアインを見る。
「なんだよ」
「いや」
「その顔やめろ」
「どの顔?」
「フィナの時と同じ顔」
隣でフィナが苦笑した。
「あ……分かります」
「どんな顔してるんだ、俺」
「面白いものを見つけた時の顔です」
「失礼だな」
「失礼なのはお前だ」
アインがため息を吐く。
「先に言っとくぞ。俺の魔力が少ないのは昔からだ。治そうとか考えるなよ」
「別に治そうとは思ってない」
「ならいい」
「ただ」
ジンは先ほどの戦闘を思い返した。
アインが使ったのは、ごく小さな閃光だった。
大きな威力はない。
だが、灰牙狼の顔のすぐ前。
必要な位置で。
必要な瞬間に。
ほんの一瞬だけ。
「もう一回やって」
「話聞いてた?」
「聞いてた」
「魔力少ないって言ったよな?」
「だから見たい」
「……」
アインがフィナを見る。
助けを求めるような視線だった。
フィナは少し考えてから、申し訳なさそうに言う。
「諦めた方がいいと思います」
「お前、数日前までこっち側だっただろ」
「経験者なので……」
「裏切りやがった」
アインは盛大にため息を吐いた。
「一回だけだぞ」
「うん」
指先へ光が集まる。
パチン。
すぐに消えた。
「もう一回」
「一回って言ったよな?」
「今のは確認」
「何のだよ」
「もう一回だけ」
「絶対また言うだろ」
文句を言いながらも、アインはもう一度指を立てた。
ジンには魔力そのものは見えない。
だから、アイン自身を見る。
指。
手首。
肘。
肩。
呼吸。
姿勢。
どこに力が入り、どこが動くのか。
光が集まる。
パチン。
消える。
「もう一回」
「三回目だぞ」
「お願い」
「ったく……」
再び光が弾ける。
ジンは黙って見つめたあと、小さく眉を寄せた。
「……変だな」
「あ?」
「フィナ」
「はい?」
「アインが魔法使う時、何か分かる?」
「何か、ですか?」
「余計に散ってる魔力とか」
フィナが首を傾げる。
アインも怪訝な顔をした。
「何言ってんだ?」
「俺には魔力が見えないから分からない」
ジンはアインの指先へ目を向けたまま続ける。
「でも、身体にほとんど余計な動きがない」
「そりゃ、小さい魔法だからだろ」
「そうなのかな」
まだ納得できない。
「フィナ、次よく見てて」
「は、はい」
「まだやるのかよ」
アインが嫌そうな顔をする。
「最後」
「信用できねえ」
それでもアインは指を立てた。
僅かな光。
パチン。
フィナが目を凝らす。
「……あれ?」
「何か分かった?」
「もう一回いいですか?」
「お前までかよ!」
「す、すみません。でも、ちょっと気になって……」
アインが頭を抱えた。
「なんなんだよ、こいつら……」
結局、もう一度。
指先へ魔力を集める。
光が弾ける。
今度は、フィナの表情がはっきりと変わった。
「……少ない」
「だから最初からそう言ってるだろ」
「違います」
「何が?」
フィナはアインの指先を見つめた。
「使ってる魔力じゃなくて……途中で漏れてる魔力が」
「漏れる?」
「はい」
フィナは自分の掌を開く。
「私が魔法を使う時は、もっと周りへ散る感じがあります」
「多少は普通だろ」
アインが答える。
「魔力なんて、全部きっちり使い切れるもんじゃない。いくらかは漏れる」
「ですよね」
「だから?」
フィナはもう一度アインを見る。
「アインさん、ほとんど漏れてません」
「……」
アインが黙った。
ジンの目が僅かに細くなる。
「やっぱり」
「何がやっぱりなんだよ」
「魔力が少ないのは分かった」
ジンは先ほどの小さな閃光を思い返す。
「でも、少ないからって雑に使ってるわけじゃない」
「当たり前だろ」
アインは何でもないことのように答えた。
「少ないんだから」
腰に下げた道具袋を軽く叩く。
「無駄遣いしてたら、すぐ空になる」
その言葉で、ジンの表情が止まった。
「……今、なんて?」
「無駄遣いしてたらすぐ空になる」
「そこ」
「どこだよ」
「無駄遣い」
ジンは少し考え込む。
身体を動かす時も同じだ。
強くしようとするほど、余計なところまで力んでしまう。
腕。
肩。
背中。
本来なら使う必要のない場所まで緊張させ、力を出しているつもりで自分の動きを邪魔する。
大きな力を出すことと。
必要な力だけを使うことは違う。
「……似てるな」
「何が?」
「いや」
ジンは首を振った。
まだ、分からない。
フィナの時と同じだ。
数回見ただけで決めるには早すぎる。
ただ、気になることは増えた。
この世界では、魔力量の多い少ないが人の能力を測る大きな基準になっている。
だがフィナは、身体の使い方を変えただけで、同じように魔法を使った時の結果が変わった。
そしてアインは。
持っている魔力こそ少ないが、その僅かな魔力をほとんど漏らさず使っている。
量。
流し方。
使い方。
精度。
それらは本当に、一つの尺度だけで測れるものなのだろうか。
「ジン?」
フィナの声で、意識が戻る。
「ん?」
「また考え込んでます」
「ああ、ごめん」
ジンは顔を上げ、周囲を見る。
「とりあえず依頼終わらせよう」
「今さら!?」
アインの声が森へ響いた。
「俺、何回魔法使わされたと思ってんだ!」
「数えてない」
「六回だよ!」
「結構使ったな」
「誰のせいだ!」
フィナが吹き出し、ジンも笑う。
三人は残りの薬草を探すため、再び森の中を歩き始めた。
その少し先。
木々の奥を、一匹の灰牙狼が歩いていた。
森の深部ではなく。
ベルクのある方角へ向かって。
ゆっくりと。
だが三人はまだ、その小さな変化が何を意味するのか知らなかった。




