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『魔力ゼロの武術家 ~異世界を修練空間(トレーニングモード)で攻略する~』  作者: いなる


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第15話 雨の領域

 森の奥へ進み始めて、しばらく経った頃だった。


 先頭を歩いていたアインが、再び足を止める。


「……人だ」


 小さな声だったが、その一言で全員の空気が変わった。


 ガストが盾へ手を掛け、レオンも剣の柄を握る。フィナが杖を持ち直す中、ジンはアインの視線を追った。


 木々の隙間に、人影が見える。


 五人。


 距離はまだあるが、鎧や武器を見る限り冒険者らしい。


「助かった」


 ガストがわずかに表情を緩めた。


 先ほど見つけた戦闘の痕跡について、中堅の冒険者たちなら何か知っているかもしれない。


 やがて向こうもこちらに気づいたらしく、先頭の男が大きく手を振った。


「おーい!」


「こっちだ!」


「よし、話を――」


 ガストが歩き出そうとした瞬間、アインの腕がその前へ伸びた。


「待て」


 ガストの足が止まる。


「どうした?」


 レオンが声を落として尋ねたが、アインは答えなかった。


 ただ、五人の男たちをじっと見ている。


 ジンも同じように相手を見る。


 手を振っている。


 笑ってもいる。


 敵意を示すような動作はない。


 それなのに、何かが引っ掛かった。


 ジンは相手の顔だけでなく、肩や腕、立ち位置、足の向きまで視野の中へ収める。


 そして気づく。


 笑っているのは、口元だけだった。


「警戒した方がいい」


 ジンが静かに言う。


 全員の足が完全に止まった。


 それを見た男は、わざとらしく肩をすくめた。


「……勘のいい奴がいるらしい」


 一歩前へ出る。


 青いローブを纏った細身の男だった。濃紺の髪は肩まで伸び、口元には薄い笑みを浮かべている。


「初めまして」


 男は懐から冒険者証を取り出した。


「俺はキール。見ての通り、冒険者だ」


「なんだ、冒険者か」


 ガストの表情から、少しだけ警戒が抜ける。


 キールはそれを見て笑った。


「安心したか?」


 その笑みを見た瞬間、ジンの眉がわずかに動く。


 次の瞬間。


 木々の陰から、次々と男たちが姿を現した。


「……!」


 気づけば、十人近い男たちがジンたちを囲んでいた。


 剣。


 斧。


 槍。


 すでに全員が武器を抜いている。


 アインの右手が、外套の内側へ滑り込んだ。


「誰だ」


「まあ、気づいたところでもう遅い」


 キールは肩をすくめると、ゆっくり片手を上げた。


「もう――俺のテリトリーの中だ」


 空気が変わった。


 肌に触れる湿気が、急に濃くなる。


 ぽつり、と。


 冷たい水滴がジンの頬へ落ちた。


「雨……?」


 フィナが空を見上げる。


 木々の向こうに見える空に、雨雲はない。


 それでも水滴は一つ、二つと増え、やがて雨となって木々を叩き始めた。葉を濡らし、幹を伝い、森の柔らかな土へ染み込んでいく。


「魔法だ!」


 レオンが叫ぶ。


「正解」


 キールは楽しそうに笑った。


 雨を吸った土が、見る間に柔らかくなっていく。


 靴底が沈む。


 土と水が混じり、足元が泥へと変わる。


「行け」


 短い命令と同時に、周囲の男たちが一斉に動いた。


     ◇


「させるか!」


 ガストが大盾を前へ出し、正面から迎え撃とうとする。


 足を開き、強く踏み込む。


 その瞬間。


「っ!」


 靴底が滑った。


 雨を吸った土はすでに泥へ変わっている。盾へ力を乗せようと踏ん張った分だけ軸足が流れ、ガストの身体が大きく傾いた。


「くそっ!」


 そこへ男の剣が振り下ろされる。


 ガストはどうにか盾を合わせたが、衝撃を受け止めた足がさらに泥へ沈み、そのまま片膝をついた。


「ガスト!」


 レオンが横から駆け込む。


 剣を振り抜こうと踏み込んだところで、今度はその軸足が滑った。


「なっ――」


 狙っていた剣筋がずれる。


 相手の男は身体を反らして刃をかわし、そのまま距離を取った。


 キールが愉快そうに笑った。


「そうなるよな」


 掌の上で、水の塊が形を作る。


「人間ってのは、何をするにも地面を使う」


 水弾が飛ぶ。


「走る」


 ガストが盾を上げる。


 鈍い衝撃とともに、泥の上を身体ごと押し戻された。


「殴る」


 さらに一発。


 レオンが避けようと身体を動かした瞬間、足を取られて体勢を崩す。


「剣を振る」


 その隙を狙い、周囲の男たちが距離を詰めていく。


 キールは降り続ける雨の中で両腕を広げた。


「魔法を撃つ時だって同じだ」


 口元を歪める。


「足場を奪えば、大抵の奴はまともに動けねぇ」


     ◇


「フィナ!」


「はい!」


 フィナが泥に膝をつき、傷ついた仲間へ駆け寄った。


 掌を傷口へかざすと淡い光が生まれ、裂けた皮膚を少しずつ塞いでいく。


「フィナ、まだか!」


「ごめん、もう少し……!」


 集中するフィナの額に汗が浮かぶ。


 ジンは迫る敵を警戒しながら、その動きを一瞬だけ視野へ入れた。


 足首。


 膝。


 腰。


 肩。


 肘。


 手首。


 大きく動いているわけではない。


 だが、魔法を使う瞬間、身体の各所にごく小さな変化が生まれている。


 さっき、キールは言っていた。


 魔法を撃つ時だって、地面を使う。


(……身体も使ってる?)


 治癒魔法そのものを身体が生み出しているのか。


 それとも、魔法を扱うために自然と身体がそう動いているだけなのか。


 まだ分からない。


「ジン!」


 アインの声が飛んだ。


 ジンが意識を戻した時には、剣がすぐ目の前まで迫っていた。


 身体をわずかにずらす。


 刃が胸元を掠めるように通り過ぎた。


「……後で考えよう」


 今は検証する時間ではない。


     ◇


 一方、アインは三人の男を相手にしていた。


「ちっ……最悪の足場だな」


 泥の状態を一度確認すると、腰元から小さな球を取り出し、足元へ叩きつける。


 乾いた破裂音とともに白煙が一気に広がった。


「煙だ!」


「追え!」


 一人が迷わず煙の中へ踏み込む。


 数歩進んだところで足首に何かが触れた。


「うおっ!?」


 細い縄だった。


 泥で足元が見えないこともあり、男はそのまま前へ倒れ込む。


 アインは煙の向こうから滑り出るように現れ、その横を通り抜けた。


「待ちやがれ!」


「待てって言われて待つ奴がいるか」


 振り向きざまに、小瓶を放る。


 地面に落ちた瓶が割れ、中身が泥の上へ広がった。


「なんだ?」


「油」


 アインは小さな火種を作り、それを指先から落とす。


 火が油へ触れた瞬間、一気に炎が走った。


「うわぁっ!」


 男たちが慌てて後ろへ飛び退く。


 雨に叩かれながら炎は勢いを落としていくが、それで十分だった。


 アインは短剣を握り直す。


「火なんて、点けば十分なんだよ」


     ◇


 ジンの前では、三人の男が武器を構えていた。


「こいつからやれ!」


 剣を持った男が踏み込んでくる。


 ジンは相手ではなく、一瞬だけ自分の足元へ意識を向けた。


 柔らかい泥。


 強く踏めば沈む。


 蹴れば滑る。


 力を受け止めるはずの地面が、まともに力を返してくれない。


「……なるほど」


 なら。


 最初から、強く蹴らなければいい。


 ジンの身体から余計な力が抜ける。


 足だけを先に出さない。


 腰だけを運ばない。


 全身の形を大きく崩さないまま、身体そのものを一つの塊として静かに移動させる。


 地面を蹴るのではなく、流れるように。


 ――流身《りゅうしん》。


 ジンの身体が、泥の上を滑るように動いた。


「なっ!?」


 剣士の目の前から、狙っていた位置だけが消える。


 剣が空を切った時には、ジンはすでにその外側へいた。


 すれ違いざまに手首へ軽く触れ、剣の向きを変える。


「うおっ――」


 泥に耐えようと力を入れていた男は、そのわずかなズレに対応できない。


 軸が崩れ、そのまま泥へ倒れ込んだ。


 今度は斧が迫る。


 ジンは強く踏み込まず、半歩だけ身体を流す。


 斧が外れたところで肩へ手を添え、その進行方向をほんの少し変えた。


 男の足が滑る。


「くそっ!」


 反対側から短槍。


 ジンは槍の柄へ軽く触れながら外へ流し、そのまま男の横へ移る。


 また半歩。


 さらに半歩。


 踏ん張らない。


 蹴り出さない。


 身体全体が泥の上を滑るように間合いを出入りする。


「なんだこいつ!」


「なんで滑らねぇ!」


 三人が攻撃するたび、自分たちの方が足場に崩されていく。


 やがて最後の一人も泥へ膝をついた。


 その光景を見ていたキールから、笑みが消える。


「……なんでだ」


 ジンは軽く息を吐いた。


「滑るよ」


「……何?」


「俺も普通に滑る」


 ジンは自分の足元を見る。


「だから、できるだけ地面を蹴らないようにしてるだけだ」


「は?」


「流身《りゅうしん》っていう身体の使い方」


 キールが目を細める。


 意味が分からない。


 泥濘の中で、誰よりも足場の影響を受けていないように動く男など見たことがなかった。


「……どけ」


 キールが低く告げる。


 まだ立っていた男たちが、一斉に後ろへ下がった。


「お前らじゃ無理だ」


 キール自身が、ゆっくり前へ出る。


「俺がやる」


 右手を掲げた。


 降り続ける雨が空中で流れを変え、キールの前へ集まっていく。


 大量の水が幾重にも巡り、一枚の壁を作った。


「面白ぇ」


 キールの口元へ、再び笑みが戻る。


「久しぶりに楽しませてもらった」


 ジンは水壁を見る。


 厚い。


 だが、それだけでは分からない。


 まずは試す。


 ジンは腰の剣を抜いた。


 流身で距離を詰め、そのまま水壁へ斬り込む。


 刃が触れた瞬間。


 水壁が大きく波打った。


「っ!」


 受け止められたのではない。


 剣へ絡みつくように水の流れが変わり、横から強い力が掛かった。


 ジンの腕ごと剣が外側へ持っていかれる。


 握り続けようとしたが、今度は反対方向へ流れが返った。


 剣が手から弾け飛んだ。


 回転しながら宙を舞い、離れた木の根元へ突き刺さる。


「……」


 ジンは空になった右手を見る。


 水壁の向こうで、キールが一瞬目を丸くしたあと、口元を大きく歪めた。


「はっ」


 露骨に余裕が戻る。


「なんだ。武器を飛ばされりゃ終わりか?」


 ジンは答えない。


 もう一度、水壁へ近づいた。


 今度は拳。


 触れた瞬間、水が大きく揺れ、拳の力を横へ流していく。


 ほとんど手応えがない。


 続けて掌底。


 結果は同じだった。


 水壁が形を変えながら、衝撃を周囲へ逃がしていく。


「ビビらせやがって」


 キールが笑う。


「でもよ――」


 水壁の向こうで腕を広げた。


「攻撃が通らねぇなら、意味がねぇ」


 ジンは静かに水壁を見つめる。


 剣。


 拳。


 掌底。


 どれも止められているわけではない。


 力を受けた場所から水そのものが動き、その力を別の場所へ逃がしている。


「……そういうことか」


 ジンが小さく呟く。


 そして、水壁から目を離さないまま呼びかけた。


「アイン」


「なんだ?」


「三分だけ」


 アインがわずかに眉を上げる。


「時間を稼いでくれ」


「……初めて組んだ相手に、いきなり結構なこと頼むな」


「無理?」


 アインは数秒だけジンを見たあと、小さく息を吐いた。


「三分だろ」


 短剣を握り直し、一歩前へ出る。


「やってやるよ」


「助かる」


 アインはキールへ視線を向けた。


「その代わり――」


 口元に薄い笑みを浮かべる。


「三分で何とかしろよ」

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