第12話 一身
訓練場は静まり返っていた。
最後の試験官が、ゆっくりと木剣を構える。
身体強化の使い手。
昨日、ジンがまともな反撃すらできずに敗れた相手だった。
防護魔法のような目に見える盾はない。火球が飛んでくるわけでもない。
ただ、純粋に身体の性能が違う。
速い。
強い。
そして、その差を埋める魔法をジンは持っていない。
「準備は?」
「はい」
ジンも木剣を構えた。
相手だけを睨まない。
足元、膝、腰、肩、木剣。そして二人の間にある距離まで、すべてを広く視野の中へ置く。
「始め!」
試験官が静かに息を吸った。
右足へ僅かに荷重が移り、膝の角度が変わる。
その瞬間には、ジンはもう動いていた。
身体全体が半歩だけ横へ移る。
直後、試験官の木剣がジンの頬のすぐ脇を通り過ぎた。
「……!」
試験官の目が僅かに見開かれる。
避けられた。
昨日は、見えているのに何一つ間に合わなかった相手に。
見学していた冒険者たちからも、遅れて声が上がった。
「今……」
「避けた?」
試験官はすぐに身体を返す。
二撃目。
再び荷重が変わる。
木剣が走るより先に、ジンの位置がずれた。
空を切る。
「まただ……」
続けて三撃目、四撃目、五撃目。
試験官の動きはさらに速くなり、木剣が空気を裂く音だけが訓練場へ鋭く響いていく。
それでも届かない。
ジンが急に速くなったわけではなかった。
むしろ、動いている距離そのものは小さい。
大きく跳ばない。
飛び退かない。
相手が動いてから逃げているわけでもない。
足へ荷重が移る。
膝が変わる。
腰が動き始める。
攻撃が攻撃になる、その少し前。
そこで、すでに必要なだけ身体の位置を変えている。
だから木剣が届く頃には、もうそこにいない。
「……何だ、あれ」
誰かが呟いた。
速いようには見えない。
地面を強く蹴っている様子もない。
なのに、身体が滑る。
頭、肩、腰、足。そのどこか一つが先に動くのではなく、全身が一つの形を保ったまま、すっと別の場所へ移っていく。
まるで、地面の上を幽霊が滑っているような。
妙な動きだった。
◇
試験官が一度、大きく距離を取った。
「……ふう」
息を整える。
昨日まであった余裕は、もう表情から消えていた。
ジンも追わない。
静かに相手を見る。
何度か避けたことで、少しずつタイミングが分かってきた。
速さそのものが変わったわけではない。
ただ、昨日より早く見える。
正確には。
相手が速くなる前の時間が、見えるようになった。
「……いけるか」
ジンが小さく呟く。
「何?」
「いや」
試験官が木剣を握り直した。
肩が沈む。
呼吸が切り替わる。
踏み込むための荷重が前へ移る。
そのすべてが、今のジンには見えていた。
「見えた」
試験官の足が地面を蹴る。
――その前に。
ジンが動いた。
「……っ?」
試験官の視界から、ジンの位置が一瞬だけずれる。
速く駆けたわけではない。
飛び込んでもいない。
勢いよく踏み切ったわけでもなかった。
一身。
頭から足元まで、身体全体が同じ瞬間に動き始め、形を崩さないまま前へ流れていく。
一歩。
ただ、それだけだった。
なのに外から見れば、歩いた途中だけが抜け落ちたように見える。
幽霊が地面を滑るように。
音もなく。
自然に。
間合いだけが消えた。
「――!」
試験官は反射的に木剣を振る。
だが、もう遅い。
身体強化で加速した木剣が振り切られるより、その動作が完成するより先に、ジンは内側へ入っていた。
試験官の木剣が空を切る。
そして。
気づいた時には、ジンの木剣が喉元で静かに止まっていた。
「……」
誰も動かなかった。
ほんの少し前まで響いていた剣戟が消え、訓練場へ静寂が落ちる。
試験官は自分の喉元を見る。
次に、目の前のジンを見る。
「……どうして」
小さく漏れた。
「俺の方が速いはずだ」
「速いですよ」
ジンはあっさり答える。
「今でも、たぶん俺よりずっと」
「なら……」
「動いてから追いかけたら、間に合わないので」
ジンは木剣を下ろした。
「動く前に動いただけです」
「……」
試験官はしばらく黙っていたが、やがて苦笑した。
「それを簡単に言うなよ」
木剣を下ろす。
「参った」
その一言で、勝負は決まった。
◇
静寂は、数秒続いた。
昨日、魔力ゼロと判定された青年。
防護魔法には攻撃を止められ、火属性魔法には近づけず、身体強化された相手には何もできなかった。
その青年が。
翌日。
三人全員に勝った。
「……どうやった?」
「身体強化を破ったのか?」
「いや、破ってないだろ」
「じゃあ、今のは何だ?」
「あんな歩き方、見たことねえぞ……」
少しずつ、ざわめきが戻ってくる。
その中で、ローディだけは呆然とジンを見ていた。
「……本当に勝っちまった」
本人はというと、勝利そのものより最後の一歩を思い返しているようだった。
「もう少し小さくてもよかったかな……」
「お前、今それ考えてんのか?」
ローディが思わず声を上げた。
「え?」
「いや……もういい」
◇
三人の試験官が集まり、短く言葉を交わした。
やがて、身体強化を使っていた男が最初に口を開く。
「魔法は使えない」
はっきりと言う。
「少なくとも、今のところはな。だが、実戦で使えるだけの判断力と技量は十分にある」
最初の試験官も頷いた。
「相手の動きを見る目もある。昨日と今日で、戦い方を変えてきた」
「変えたというより」
火属性魔法の試験官が少し苦笑する。
「調べてきた、って感じだったけどな」
三人の視線がジンへ向く。
「昨日のこと、ずっと考えてたんだろ?」
「まあ」
ジンは少し考えてから答える。
「分からないところが多かったので」
「それで一晩でこれか」
「一晩……」
ジンは一瞬だけ何とも言えない顔をしたが。
「まあ、そんな感じです」
修練空間のことを説明するわけにもいかない。
三人は再び顔を見合わせた。
やがて、最初に戦った試験官が代表して告げる。
「実技試験――合格だ」
◇
一瞬遅れて、訓練場に歓声が広がった。
「おおっ!」
「やりやがった!」
「魔力なしで通ったぞ!」
「すげえな、あいつ!」
ローディもすぐに駆け寄ってくる。
「ジン!」
「ああ」
「おめでとう!」
「ありがとう」
勢いよく肩を叩かれ、ジンは少しだけよろけた。
「痛っ」
「あ、悪い!」
「昨日打たれたところだから」
「先に言えよ!」
周囲から小さな笑いが起こる。
受付の職員も訓練場へ降りてきて、笑顔を向けた。
「これで冒険者登録の手続きを進められます」
「お願いします」
「改めて――ようこそ、ベルク冒険者ギルドへ」
ジンは小さく頭を下げた。
こうして、何一つ知らないまま異世界へ落ちてきた青年は、ようやくこの世界で最初の足場を手に入れた。
◇
その様子を、訓練場の二階から一人の男が見下ろしていた。
五十代ほど。
灰色の髪を後ろへ撫でつけ、腕を組んでいる。
ベルク冒険者ギルドの長だった。
「……魔力ゼロ」
小さく呟く。
視線の先には、仲間たちに囲まれているジンがいる。
昨日の測定結果については、すでに報告を受けていた。
だが、今見せたものは、それとはまた別の意味で異質だった。
「なるほどな」
男はしばらくジンを眺めたあと、静かに踵を返す。
「少し確認しておくか」
足音が、二階の廊下へ消えていった。
◇
そして。
もう一人、その様子を見ている男がいた。
年齢はジンとそう離れていない。濃い茶色の髪をやや無造作に後ろへ流し、身体には動きを妨げない暗色の服を身につけている。その上から羽織った外套が腰元までを覆い、何を装備しているのかは一目では分からない。
ただ、歩くたびに僅かに形を変える布の下には、短刀だけではなく、いくつもの小さな道具が隠されていた。
男は人混みの端に立っていた。
目立ってはいない。誰かと話すこともなく、周囲に溶け込むように立っている。
それでも、視線だけはずっと一人の青年を追っていた。
ジン。
魔力を持たない新人冒険者。
昨日は三人全員に敗れ、今日、その三人全員を破った男。
男は最後の一歩を思い返す。
試験官が踏み込むより先に、ジンの身体が前へ滑った。
走ったわけではない。
跳んだわけでもない。
足だけが先に動いたようにも見えなかった。
気づいた時には、もう間合いの内側にいた。
「……」
だが、男が気にしているのはそれだけではなかった。
男は、今日初めてジンを見たわけではない。
森で一度、この青年の姿を見ている。
そして今、魔力を持たないという話まで出てきた。
「……やっぱり、変なの」
男の目が僅かに細くなる。
「もう少し近くで見るか」
そう呟くと、人の流れへ紛れるようにその場を離れた。
男の名は、アイン。
翌日。
ジンはこの男と、同じ依頼を受けることになる。




