第10話 身体強化
白い床へ広がった波紋の中心で、人影が完全に形を取った。
ギルドの実技試験で最後に戦った、身体強化を使う試験官だ。
木剣を構え、静かにこちらを見ている。
見た目だけなら、特別なところはない。
だが。
実際に動けば、話は変わる。
ジンも木剣を構えた。
「……始めよう」
その瞬間。
「――っ」
試験官の姿が弾けた。
消えたわけではない。
見えている。
だが、見えた時にはもう遅い。
腹へ衝撃が入る。
「ぐっ!」
息が詰まり、身体が折れた。
反撃しようとした時には、すでに木剣が喉元へ添えられている。
終了。
◇
「状態初期化」
腹に残っていた痛みが消える。
「もう一回」
再開。
今度は少し早く構える。
試験官が動く。
腹。
肩。
足払い。
転がされる。
終了。
◇
「もう一回」
今度は最初から距離を取る。
それでも、入られる。
打たれる。
終わる。
◇
「もう一回」
避けようとする。
見える。
こちらも動く。
それでも間に合わない。
◇
何度目かの敗北のあと、ジンは木剣を下ろした。
「……速い」
そう呟いてから、すぐに首を振る。
「いや」
速い。
それ自体は間違っていない。
けれど、ただ速いだけなら、ここまで気持ち悪くはない。
何も見えないわけではないのだ。
踏み込む足も、腰の動きも、肩も腕も、ちゃんと視界には入っている。
それなのに。
身体が追いつかない。
「……何を見ればいい」
ジンは再現された試験官を見る。
相手の攻撃を全部見てから動く。
それでは遅い。
なら、もっと前。
攻撃になる前を見る。
◇
「状態初期化」
今度は木剣を構えなかった。
ただ立つ。
開始。
まず足元を見る。
右足。
踏み込み。
腹へ一撃。
終了。
「もう一回」
右足を見る。
また踏み込む。
また終わる。
次。
今度は左足。
次は腰。
次は肩。
見る場所を一つずつ変えていく。
何度も。
何度も。
同じ動きを繰り返させる。
そのうち、攻撃を受けること自体が目的ではなくなっていた。
どこが最初に変わる。
何が先に決まる。
どこを見れば、次の動きが読める。
それだけを探す。
◇
「……そこか」
何十回目か。
ジンの視線が止まった。
試験官が踏み込む直前。
ごく僅かに、片足へ荷重が乗る。
膝の角度が変わる。
腰が前へ出る準備を始める。
そして、その直後。
身体全体が一気に加速する。
「ここだ」
身体強化が、どういう仕組みで身体能力を引き上げているのか。
それはまだ分からない。
だが。
強化されていても、人間の身体が動き始める前には準備がある。
踏み込む前。
加速する前。
攻撃になる前。
そこなら見える。
ジンが知りたいのは、魔法の仕組みそのものではない。
今は。
相手の身体が、いつ攻撃を始めるのか。
それだけでいい。
「ここなら間に合う」
◇
「状態初期化」
再開。
今度は試験官の全身を視野に収めながら、特に足元の変化を待つ。
片足へ荷重が乗る。
膝。
腰。
その瞬間。
ジンの身体が半歩だけ横へ移った。
直後。
木剣が頬のすぐ脇を通り過ぎる。
「……」
一瞬、自分でも動きを止めそうになった。
「避けた」
初めてだった。
身体強化を使った試験官の初撃を、完全に外した。
だが、喜ぶ暇はない。
すぐに二撃目が来る。
「っ」
肩へ入った。
終了。
◇
「もう一回」
初撃は避ける。
二撃目で負ける。
◇
「もう一回」
一撃。
二撃。
三撃目。
そこで打たれる。
◇
「もう一回」
避ける。
また避ける。
それでも最後には負ける。
◇
それでも。
ジンは笑っていた。
「見える」
身体強化そのものを消すことはできない。
相手より速くなることもできない。
少なくとも、今は。
だが。
相手が速いからといって、何もできないわけではない。
動いた後を追えば間に合わない。
なら。
動く前に、こちらが動けばいい。
必要なのは速度ではない。
始まり。
相手の動きが、まだ攻撃になりきっていない一瞬。
そこを先に取る。
「……これなら」
ジンは木剣を握り直した。
何度か試す。
初撃をかわす。
二撃目へ入られる前に、今度は少し前へ出る。
まだ届かない。
次。
もう少し早く。
今度は入りすぎる。
次。
角度を変える。
また失敗。
それでも、最初の頃とは違う。
ただ打たれて終わるだけではなくなっている。
「現実で試せるな」
ジンは木剣を下ろした。
完全に勝てたわけではない。
むしろ、まだ負ける回数の方が圧倒的に多い。
だが。
見る場所は分かった。
動くタイミングも、少しずつ形になっている。
「よし」
ジンは意識を白い世界から離す。
呼吸を整え、宿の部屋を思い浮かべる。
数秒。
白い景色が遠のいていった。
◇
目を開ける。
宿の部屋だった。
窓の外は、すでに朝へ変わり始めている。
ジンは机へ向かい、借りた紙を広げると筆記具を手に取った。
少し考えてから書く。
『身体強化――動き出してからでは間に合わない』
その下へ。
『踏み込み直前、足への荷重変化あり』
さらに。
『先に動く』
そこで筆を止めた。
魔法の仕組みは、まだ分からない。
だが。
相手の身体については、一つ分かった。
ジンは紙を置き、立ち上がる。
「行くか」
昨日、一度も勝てなかった場所。
ベルク冒険者ギルド。
再挑戦の時だった。




