004:悪魔の誘惑に抗おう
004:悪魔の誘惑に抗おう
南米の黄昏。
レンガ造りの建物が歪に並ぶ裏路地の広場は、狂乱した観客たちの怒号に包まれていた。
むせ返るような安酒と、揚げ物の油が焦げる不快な臭い。
どぶ川の湿り気を帯びた熱気が、密集する野次馬たちの体臭と混じり合い、肺の奥にどろりとまとわりつく。
「マヌエル! 早くその生意気な小娘の服をひんむいてくれ!」
「さっさと終わらせろ! 俺の全財産がかかってんだぞ!」
人垣の中心、踏み固められた土の上で、二人の戦士が火花を散らしている。
一人は、岩のような筋肉を震わせる黒人の巨漢ボクサー。
対するは、泥に汚れた紅いチャイナ服を翻す、お団子頭の少女だ。
巨漢ボクサー、マヌエルの動きは、この不潔な掃き溜めには不釣り合いなほどに洗練されていた。
黒鉄のごとき肉体を引き締め、顎を深く引いた鉄壁のガードスタイル。
そこから繰り出される左ジャブは、最短距離を鋭く突き抜けるダイナマイトの導火線だ。
足捌きには一切の無駄がなく、リズムを刻むステップは基礎を極めた者特有の気高き「型」を感じさせる。
対するチャイナ娘は、蛇のようにしなやかな体術でその猛攻をいなしていた。
体のラインを露骨に強調する妖艶なドレスの裾をはためかせ、重心を極限まで低く落としたかと思えば、次の瞬間には独楽のように旋回して死角へと回り込む。
予測不能な角度から放たれる掌底や指先を尖らせた点穴への突きが、マヌエルの鉄壁の守りを外側から削り取っていく。
静と動、剛と柔。高度に練り上げられた技術の応酬に、野次馬たちは固唾を呑んで見守るしかない。
だが、この均衡を強引に破壊したのはボクサーの方だった。
地を這うような鋭いステップで懐に肉薄すると、黒い稲妻と見紛うばかりの凶悪なアッパーカットをカチ上げる。空気を裂く鋭い風切り音が、少女の顎先をかすめた。
少女は無表情のまま、紙一重の回避から踏み込みの勢いを乗せたカウンターの掌底を放つ。ボクサーの分厚い腹筋に突き刺さる重低音。
だが、ボクサーは苦悶を噛み殺して笑った。
衝撃を肉体で強引に抑え込み、技を出して隙だらけになった少女へ、唸りを上げるワンツーパンチを叩き込む。
少女の体が大きくのけぞり、ガードが崩れる。
勝機を確信したボクサーの瞳が血走った。
彼は溜まったゲージを解放し、赤黒い闘気を全身から噴き上げながら、全てを粉砕する必殺のメガトンパンチでトドメを刺そうと踏み込んだ!
その刹那。
体勢を崩したはずの少女が、重力から解放されたかのように低く沈み込んでいた。
空を切る巨大な拳。その死角から、少女の脚線美がしなり、天を衝くような蹴り上げが放たれた。
彼女の足先に青白い青龍のオーラが宿り、深いスリットから覗く太ももが爆発的な推進力を生む。
ドゴォッ!!
衝撃がボクサーの顎を跳ね上げ、巨漢の身体は美しい放物線を描きながら宙を舞った。
白目を剥いた男が地面に沈むと同時に、空間がぐにゃりと歪む。
何もない虚空に、黄金色の『K.O.』という文字が燦然と輝く。
勝利を収めたチャイナ娘は、くるりとターンして画面の奥へウインクを決めた。
『謝謝ネ。帰って母ちゃんのオッパイでもしゃぶってろネ♪』
「ウヴァ−−−−−!! 鈴木良平! もう一回です! もう一回!!」
プツン、と視界が現実の四畳半に戻る。
アリアルが頭に取り付けた流線型のヘッドギア型ディスプレイをバンッと脱ぎ捨てて、俺の首根っこを締め上げながら懇願してきた。
「あらあら、天使様には下界の低俗なゲームは難しいのでは無いですか? 天使様のレベルに合わせて、こっちの幼児用落ちものパズルで対戦しましょうか?」
「ムキーー!! 馬鹿にしてぇぇ! 今に見てなさい!」
顔を真っ赤にして怒る金髪美幼女が、再びヘッドギアをガポリと被り、ムキームキーと言いながら新たなキャラクターを選んでいる。
さっきから、この幼女とゲーム三昧なんだが、良いのだろうか?
ふと、2時間前の事を考える。
握手を交わした俺たちは、難攻不落の腐海へ殴り込んだ。
IDという真なるお宝を求めて、俺はアリエルの目を盗むように独身男性の秘宝を回収しつつ、分別にうるさい幼女をいなしながら進軍していた。
——そこまでは、俺たちの快進撃だった。
だが、奴らが現れた。
掃除の場に必ず湧く、強大な敵。
『読みかけの漫画本』だ。
奴らの圧倒的な力に膝を屈し、俺とアリエルは屈辱の時間を過ごす事になる。
すなまい、カッパ蟹せん。
仇は必ず明日以降に取る!
俺は悪くない!
アリエルが、悪魔に屈し
『今日は私の奢りです。ピザでも頼みましょう。』とかのたまうのが悪いのだ!
だが、さすが自称とはいえ天使だ。
人間の俺より、悪魔に対する耐性が強かったのかもしれない。
ピザを食い、漫画を読みながらダラダラしていたら、
アリエルはハッと憑き物が落ちたような顔になり、俺を再び腐海探索に誘い始めたのだ。
だが、少食なアリエルが残した分までピザを食べた俺にはもう戦う気力なんて残っているはずも無かった。
ピザの消化の為に胃に血液をとられ、ボーっとする俺にアリエルのピーチクパーチクが頭に響く。
何か囀りまくりのアリエルに向かった俺はこう切り出した。
「じゃあ、この、対戦格闘ゲームで勝負しようぜ!」
「ふふん、墓穴を掘りましたね!鈴木良平!楽園の住人である私にデジタルで勝負なんて、そろばんでスーパーコンピュータに立ち向かうような物です。良いでしょう、ここらでどちらが上かをはっきりさせておくのも良いでしょう」
回想に浸りながら、VRヘッドギアを被って阿波踊りみたいな操作をするアリエルから、林檎モチーフのスマホの呼び出し音が響いてきた。
アリエルがVRヘッドギアを脱ぎ捨てて、慌ててポケットからスマホを取り出し耳に当てる。
『はい、アリエルです。え?もう、そんな時間ですか?え?もう、迎えに来ている?あっ、すいません、もう、ピザを食べちゃいましたよ……何も泣く事はないでしょう?はぁ、デザートならいただきますから!え?良いです!来ないでください!すぐに行きますから!切りますよ!』
アリエルがスマホから耳を外して、疲れたようなため息を漏らす。
会話の内容からどうやら迎えが来たらしい、何となくアパートの前を見てみると、ダックスフンドのように長い黒塗りのTHE高級車が止まっていた。
え?まさかね?
ってか、この狭い路地にどうやってあの車で入って来たの?内輪差ってどうなってるの?
「すいません、鈴木良平!どうやら迎えが来たようです。まったく、ジェフには困った物ですね。この姿の時、彼はまるで私の父親のように振る舞うのです。」
俺が目の端の異様な光景に戦慄を覚えていると、アリエルは申し訳なさそうに頭を下げて来た。
「おい、腹黒幼女……さま。もしかして、あのお車ってお前のお迎え?」
「あっ、本当にもう来てますね。そうだ!鈴木良平もジェフに会いませんか?何でもレストランを予約してるらしいですが、私お腹いっぱいなんです。私の分あげますから…」
ゾッとした、ジェフが何者かはわからないが、あの車+ビフロンスストラテジックホールディングスと言う式から導き出される答えは間違いなくヤバい奴だ。
「あはは、遠慮しておくよ、ほら、俺は招待IDを探さないとダメだろ?もう、遅い時間だから、アリエルちゃんも帰らないとね。」
「うわ!気持ち悪いです!鈴木良平にちゃん付けされると、背筋がゾクっとします。ふぅ。まぁでも、そうですね。私が居ると片付け難い物もあるのでしょう。」
アリエルは俺がダンボールに詰めた『独身男性光と闇セット』に流し目をすると、天使にあるまじき淫靡なウインクを投げかけて来た。
こやつ!気が付いておったのか!
「今日は帰ります。また、明日来ますので、それまでにIDをよろしくお願いします」
そう言うと、アリエルはくるっと金髪とワンピースを靡かせてトタトタと玄関に向かって行った。
「もし、明日、IDが見つかって無かったら、問答無用で20代女性のヘルパーに片付けてもらいます。男としての尊厳を守りたかったら、今夜中に自分でカタを付けなさい。良いですね?」
そう言って、お騒がせ腹黒幼女天使は、俺の安物玄関をバタンと閉めて去って行った。
静寂が訪れる。
まるで台風が去ったようなあとだ。
それにしても、色々あり過ぎだろ?
あれか?
今年は厄年とか言う奴なのか?
会社を不当にクビになる。
恋人には振られる。
天使に脅される。
冗談抜きで、お祓いに行った方が良いのかもしれん。
まぁ、良い。
今日は疲れた。
寝るべ、寝るべ。
そう思い、愛しの煎餅布団ちゃんに向かって足を進めようとしたら、背後のドアがガチャっと開いて、金の旋風が部屋の中に入って来た。
「忘れ物です!」
金の旋風こと、アリエルが俺の部屋の中に飛び込んで、アリエルが読みかけの漫画をガバッと抱え込んで、ドタドタっと去って行った。
「鈴木良平!コレは人質です!明日には返します!」
バタン!
あまりの電撃作戦に、呆然としていると、何だか笑いが込み上げて来た。
そう言えば、笑ったのっていつ以来だっただろう?
記憶の淵にあった、じいちゃんが言っていた鈴木家の家訓その2が浮かんでくる。
『辛い時こそ、笑顔が大事!』
『から元気も元気のうち』だったっけ?
もう、どっちでも良いか。
そうだな、少しだけ、鈴木良平の本気を出してやろうじゃないか!
俺は腕まくりをして、腐海と化した汚部屋に向かって歩き出すのだった。




