崩れゆく心
街の片隅に小さなレストランがひっそりと佇んでいた。
扉の上には、蔦の葉を模した錆びた鉄の看板。窓から香ばしいパンの焼ける匂いが漂ってくる。
そのレストランで一番良い席、窓からの景色が美しい二人掛けの席に、彼らは向かい合う形で座っていた。
一人はクロエの婚約者レオナルド。そして、向かいに座るのは──調査書にあった少女、シェリー。
彼はクロエにも見せたことのない屈託のない笑みをシェリーに向けていた。その様子を目にしたクロエの心に小さな痛みが走る。
二人の間の空気はあまりにも自然で、そして親密だった。
その様子から二人の関係が特別であることは一目瞭然だ。クロエの心にあった僅かな期待も跡形もなく砕け散る。
シェリーが身に着けているシンプルながらも繊細な仕立てのワンピースは、明らかに彼の贈り物だと分かる上質な布地でできていた。淡いブルーの生地は柔らかな光沢を帯び、袖口や襟元には丁寧なレースが施されている。
それは優しい色合いで、愛らしい彼女に良く似合っていた。
その装いからも、彼女がレオナルドにとって特別な存在であることが分かる。ドレスほどではないにしても、そのワンピースはパン屋の売り娘には到底買えないであろう高価な品物。それを惜しげもなく買い与えるほど、彼女は彼にとって価値ある女性なのだろう。
また、胸に痛みが走る。思い返せば、クロエは彼に服の一枚も貰ったことがなかった。その光景は彼の心がクロエよりもシェリーに向いているという現実を否応なく突きつけてくる。
クロエが傷ついていることなど知らず、二人は楽しそうに食事を続けていた。
彼女の席からほんの数歩先。人々の笑い声や皿の音に紛れながらもレオナルドの声だけは不思議と耳に届く。
「シェリー、時間はかかるかもしれないけれど……準備が整い次第、必ず君を迎えに行く。だからそれまで、どうか僕を待っていてくれないか?」
その言葉にシェリーは一瞬目を伏せ、震える指でワイングラスをテーブルへと置いた。
「……本当に? 本当に迎えに来てくれるの? あなたには結婚を約束したお嬢様がいるのでしょう?」
彼女の声はかすれていたが、そこには期待が入り混じっていた。
そして、微かだが優越感も。
「そうだけど……正直、彼女との婚約は苦痛なんだ。ただ、貴族として“義務”を果たしているだけだよ。最初からずっとそうだった。僕の心は最初から彼女にはない」
その言葉に、クロエの頭は一瞬で真っ白になった。
やがて冷たいものが背筋を伝い、体温が奪われていく。小さな震えが指先から全身に広がった。
前世の記憶が蘇る前までは、彼とは心を通わせていると信じて疑っていなかった。だが、実際はそんなことを考えていたなんて──とショックで頭が回らない。
「クロエは君のように心を許せる相手じゃない。彼女は……そう、完璧すぎるんだ。隙が無くて、可愛らしさというものがない。まるで磨き上げられた宝石みたいで……触れることさえためらう」
その言葉にクロエの中で何かが静かに崩れた。
完璧すぎる? 隙がない? それが理由?
それはクロエが十数年かけて築き上げてきた『カレンデュラ家の嫡女』として相応しい淑女の姿。
彼女の誇りそのものだ。
それを平然と侮辱するレオナルドの言葉にクロエの心は恐ろしいほど静かに冷えていった。
「シェリー、君といると僕は自分らしくいられるんだ。笑って、冗談を言って、誰にも気を使わずに……。このままずっと、君と一緒にいたい」
「レオ……!」
目に涙を浮かべたシェリーは手を伸ばし、そっとレオナルドの指に触れた。
それが視界に映ってもクロエの胸はもう痛まない。代わりに蔑むような感情が胸に広がっていく。
「僕が本当に愛しているのは君だけだ。君となら……ただの男でいられる。立場も、血筋も関係ない。……それが、どれほど幸せなことか……きっと、僕の婚約者には分からないだろう」
そう言ってレオナルドはシェリーの手を取り、指先に口づけた。
それはまるで、誓約のような動作だった。
「じゃあ……待ってる。どれだけ時間がかかっても。あなたの隣にいられる日が来るのなら、私、ずっと待っていられるわ……」
甘い雰囲気に包まれた二人を、クロエはひどく冷めた目で見つめている。
その瞳の奥で言葉にならない決意が静かに灯りはじめていた。
二人が食事を終えて店を出た後もクロエは感情を失ったような顔で静かに椅子に身を沈めていた。
「あの……オーナー、大丈夫でございますか? よろしければ何かお飲み物をお持ちしますが……」
遠慮がちにそう言ってきたのはこのレストランの店主の妻だ。
クロエは彼女に向かって渇いた笑みをひとつ浮かべ、閉じたままの口をゆっくり開く。
「……そうね。じゃあ、ワインをお願い。冷えた白があるなら、それがいいわ」
「ちょうど一本冷やしておいたものがあります。ただいまそちらをお持ちいたしますので、少々お待ちください」
そう言うと店主の妻は小走りで厨房へ向かい、ほどなくしてワインの瓶とグラスをワゴンに載せて運んできた。
慣れた手つきでワインをグラスに注ぎ、それをそっとクロエの前へと差し出す。
「どうぞ」
「ありがとう……いただくわ」
「はい、ごゆっくりお召し上がりください」
ぎこちなくお辞儀をした後、店主の妻はそっとその場を離れた。
ひとり静かに座るクロエは優雅な所作でワインを口に運ぶ。ひんやりとした液体が、カラカラに渇いた喉をスーッと潤していく。
すると、まるで霧の中から抜け出すように頭が少しずつ働き始めた。
(わたくしとの婚約が苦痛……ね。ふふ、今まで気を遣ってきたのに馬鹿みたい……)
レオナルドと婚約して以来、クロエはずっと彼に気を配ってきたつもりだ。
彼とのお茶会では彼の好きな銘柄の紅茶を取り寄せ、菓子も甘味が苦手な彼の為に塩気のある物を用意した。
彼の趣味や興味に寄り添おうとしたし、自分の感情を抑えて彼を優先していた。
婚約者として恥をかかせないよう、公の場では常に慎重にふるまった。彼の家族にも気を遣い、集まりでは陰ながら彼を立てるように心がけていた。
そんな心配りは全て無駄だった。クロエが何をしようとも、彼はクロエとの婚約自体が苦痛だったようだから。
だったら、もういい。もう彼に気など遣わない。
そう心に決め、クロエはグラスに残ったワインを全て飲み干す。
「今日は来てよかったわ。彼の本性が知れたもの……」
誰の耳にも届かないほどの小さな声でぽつりと呟き、テーブルの上にグラスを置く。
彼の態度はクロエの心に大きな傷をつけたが、おかげで彼が陰で浮気相手にこそこそと婚約者の悪口を言っているような卑怯な男だと知れた。まるで嫌々ながら婚約させられた悲劇のヒーローにでもなったつもりらしく、実に滑稽だ。こちらは別に彼でなくてはならない理由など、どこにもないというのに。
心の隅にあった、彼は乙女ゲームの屑父とは違うという思いは完全に消え去った。
今はもう、彼が妻を殺害して実の娘を虐待するという乙女ゲームの設定と同じ人生を辿るという未来に信憑性が帯びてくる。
(随分と馬鹿にしてくれたこと。この、カレンデュラ家次期当主であるわたくしを、次代の太陽に睨まれている公爵家の次男ごときが……)
クロエは婚約者が自分を裏切っていたことよりも、見下されていたことに深い怒りを覚えた。
カレンデュラ家はレオナルドの家よりも全てが上である。家柄・格式・血統・資産、どれをとってもリンデン家はカレンデュラ家の足元にも及ばない。同じ公爵家といえども雲泥の差がある。
なにより、リンデン家は次代の太陽──現王太子によく思われていない。
それというのも、彼の家は先の跡目騒動で第一王子であった王太子ではなく、第二王子を支持したからだ。
跡目争いに敗れた後、当然ならが彼の家は社交界で肩身が狭くなり、それで自分たちも王太子となった第一王子の傘下に入るため、派閥に属する家と婚姻関係を結ぼうとした。その対象となったのがカレンデュラ家というわけだ。
負けたから敵に降るというのは政治の世界ではよくある話で、そうすることで家の名誉を回復させようとするリンデン家の考え自体に思うことはない。実際、他の第二王子派も旧第一王子派の有力家と婚姻関係を結んでいる。
敵対していた家を同じ陣営に入れて王太子の傘下を増やし、地盤を強固なものにしようというのが父を含めた旧第一王子派の考えだ。それ自体もよくある手段なので、特に思うことはない。
思うことがあるのは、そういう背景があると知っていながらクロエを陰で馬鹿にするレオナルドの言動だ。
こちらに恩義を感じる相手との婚約ならば、娘と婚家を大切にするだろう。
父がこの婚約を取りまとめた根底にはそうした思惑があったのかもしれない。
まさか陰で娘を嘲笑い、将来はお家を乗っ取り血を絶やそうとしているなど微塵も思っていないはず。
クロエもまさか婚約者がそんな非常識で人の道に外れることを画策していたなんて、前世の記憶を思い出さなければずっと分からないままだった。
このタイミングで前世の記憶を思い出したのは僥倖だ。婚約を結ぶ前であればもっとよかったのだが、この際贅沢は言っていられない。
(ここまで見下される筋合いはこれっぽっちもないわ。馬鹿にしてくれた”返礼”はきっちりとして差し上げないとね……)
クロエと婚約を結んだおかげでリンデン家は貴族社会で立場を失わずに済んだというのに、その恩を仇で返されては黙っていられない。毒殺を回避することは勿論のこと、レオナルドには自分の愚かな行動の結果というものを、きっちりと味わってもらわねば気が済まない。
迷いを完全に断ち切った顔で、クロエは椅子から立ち上がる。
店長の妻を呼び、ワインのお代として金貨を渡した。
「オーナー、お代は結構です! それに、こんなに頂くわけには……」
「いいのよ、貰ってちょうだい。それよりお願いがあるのだけど……」
「お願いですか? はい、何なりとお申し付けください。大恩あるオーナーの頼みでしたら何でもいたします!」
「ふふ、ありがとう。では、ちょっと耳を貸して……」
クロエは店長の妻の耳元にそっと囁いた。




