運命の年
厳かな教会に祝福の鐘が鳴り響く。父より当主の座を譲り受けカレンデュラ女公爵となったクロエはその日、穏やかな微笑みで花婿の手を取った。
「とても綺麗です、クロエ」
「ありがとう。貴方も素敵よ、エーリヒ」
互いに想いを通わせ、見つめ合う美しい新郎新婦は緋色の絨毯の上をゆっくりと歩いた。
これから始まる二人の幸せな未来を夢見て。
そうして季節がめぐり、クロエは女公爵としてその手腕を示す傍ら、二人の男児をもうける。
クロエに似た長子ルカ、エーリヒに似た次男アイル――二人の存在は屋敷に新たな光をもたらしていた。
優しく頼れる夫と可愛い子供たちに囲まれながらクロエは穏やかな幸福の中で日々を重ねていた。
そしてその年、彼女は二十五の誕生日を迎えることになる。
(とうとう、運命の年が訪れたわ。乙女ゲームの舞台の幕はもう上がることはない……けど、気をつけるに越したことはないわね)
二十五という年――それは、乙女ゲームの中でクロエがレオナルドに盛られ続けた毒によって亡くなる運命の年であった。諸悪の根源であるレオナルドはもう二度とクロエに近づくことはない。そして、既にヒロインの母である”シェリー”はこの世から退場している。ヒロイン抜きで物語の幕が上がることはないだろう。もう永遠に乙女ゲームが始まりを迎えることはないはず。
それに”悪役令嬢”の役を与えられたクロエの娘はこの世に生を受けていない。
自分の子が男の子だと分かった時、クロエは密かに安堵したものだ。万が一、娘が生まれてその子が”悪役令嬢”としての過酷な運命を背負うことになるのではないかと、気が気ではなかった。大切な我が子をそんなヒロインが幸せになるための馬鹿げた運命に巻き込むなど冗談ではない。
”ヒロイン”もいない、”悪役令嬢”もいない。ならば、もう舞台の幕は永遠に上がらないはずだ。
そう考えてもクロエは心のどこかで不安が拭えないでいた。
「エーリヒ……もし、わたくしが亡くなることがあれば、どうかあの子たちを守ってあげて」
「クロエ? そんな縁起でもないことを言わないでください。貴女は俺が守って見せます。危険な目になど絶対に遭わせませんよ」
そんな頼もしい言葉と共にエーリヒはクロエを抱きしめた。
「……貴女がいない世に生きている意味などありません。どうか、そのような悲しいことは二度と言わないでください」
クロエは心の底から哀しそうな顔をするエーリヒに「ごめんなさいね……変なことを言って」と謝り、そっと彼の背に手を回す。彼にしてみれば何の前触れもなく妻が縁起でもないことを口にしたのだから、動揺するのも当然だ。悲しませてしまったな、と反省する一方で、彼にならば自分がいなくなっても後のことを安心して任せられると思った。
(エーリヒなら、子供たちのことも家のことも託せる。レオナルド様のように後添えを屋敷に引き入れたり、子供たちを虐げたりなど絶対にしないと信じられるもの)
万が一のことがあっても彼なら大丈夫だと思うと、不安は次第に消えていく。
自分が選んだ夫はこの世の誰よりも信頼できる人なのだから。
覚悟を決めたクロエは自分がいなくなった後も家族が困らずに生きていけるよう静かに準備を始めた。
屋敷と領地の管理権、使用人たちの雇用を維持するための指示、万が一の折にも混乱が起きぬよう代行人を夫のエーリヒだと明確にし、印章の所在まで細かく記す。そして、次の当主に長男のルカを指名した。
子供たちはまだ十にも満たない。幼い我が子を置いて逝くことを想像すると胸が痛む。
(乙女ゲームの”クロエ”はどんな気持ちだったのかしら……。幼い娘を置いて逝くことは、さぞかし無念だったでしょうね……)
娘を遺して世を去った乙女ゲームの”クロエ”の気持ちを思うと胸が締め付けられる。
遺された子供のことがさぞかし心配でたまらなかったことだろう。しかも、本人が知っているかどうかは分からないが、原因を作ったのは自分の夫だというのだからやるせない。おまけにその夫は無神経にも新しい母親と妹とかいう存在を屋敷に迎えてしまうわ、遺された娘は”悪役令嬢”として周囲から虐げられるわで『最悪』の一言に尽きる。
そう考えると段々と腹が立ってきた。なんだってクロエとその娘が『ヒロインの恋愛を成就させる』というくだらない目的の為に犠牲にならねばならないのか。あくまであれはフィクションであるからいいとして、現実でそれをやられると不愉快でしかない。ヒロインも王子も勝手に恋でも結婚でもすればいい。こちらを巻き込むな、と言いたい。
「王子、か……。王太子殿下の御子なら賢い方かと思ったのだけど……そうでもなさそうなのよね」
あの乙女ゲームでメインヒーローとなる王子は現王太子の長男だった。
こちらは産まれることがなかったクロエの娘と違い、現実に存在している。順当にいけば現王太子が国王に即位した後、この王子が王太子に任命されるだろう。ただ、この王子は父親ほど優秀とは言い難い。そのことが判明したのは王宮で催された季節のお茶会での出来事だった。
随分前に王子と年の近い貴族の令息たちとその母親たちが王宮のお茶会に招かれた。
招待主は王太子妃であり、お茶会という名目で王子の将来の側近候補を見定めるための場であることは容易に察せられた。その時に会った王子は甘やかされて育ったことがはっきりと分かるほど、我儘と傲慢さを体現していた。
クロエの息子であるルカとアイルは王子を見た瞬間に能面のような表情になり、帰宅後には二人そろって「側近の打診が来ても受けないでください」と訴えた。幼い息子たちの必死の訴えにクロエは小さく笑って了承し、王家より届いた側近打診の手紙にも丁寧に断りの返事を出した。王太子妃はこれに不満そうにしていたが、自分の夫を支持する有力貴族であるカレンデュラ家に文句など言えるはずもない。不興を買って王太子の支持をやめる、などと言い出されては自分の立場も危うくなると分かっているから。
結局、王子の側近候補にはあの乙女ゲームに出て来た側近たちがそのまま選ばれていた。
それを知ったクロエはひどく驚き、しばらくの間は動悸が治まらなかったほどだ。皆、ヒロインのお相手となる令息ばかりで眩暈がした。騎士団長の子息、宰相の子息、侯爵家の子息。大商会の息子は平民だからあの茶会にはいなかったが、もしかするとこの先どこかで彼等と出会うのかもしれない。
ヒロインも悪役令嬢もいないのに、攻略対象だけは乙女ゲームの設定そのまま。何か強制力が働いていそうに思えなくもないが、主人公が不在ではゲーム自体が始まりそうにもない。
結局この年、クロエの身には何事も起こらなかった。あったとすれば、それはクロエを除く二つの出来事。
ひとつは王子の側近候補の選定、そしてもうひとつは──元婚約者、レオナルドの訃報。
リンデン家より除籍され、商家に婿入りしたというレオナルドが亡くなったと聞いたのは寒い冬の晩のこと。
エーリヒよりそれを知らされた時は驚きのあまり持っていたホットワインのグラスを床に落としそうになった。
「レオナルド様がお亡くなりに……?」
「ええ、病死だそうです」
エーリヒから静かに告げられたクロエは唖然とした。
その瞬間、彼女の胸に生じたのは痛みや悲しみではなく――驚き。ただそれだけ。
元婚約者のレオナルド。かつて、他の女に傾倒した挙句にクロエを殺そうとまで企んだ相手。
信じていたにもかかわらず裏切られ、クロエの心に深い傷を残した存在。
そんな彼の死に対して何の感情も沸かなかった。悲しみも、憤りも、安堵ですらない。あるのは純粋な驚きだけ。
「……そう」
我に返ったクロエはただそれだけを答えた。
そして一拍置いてから改めてエーリヒに問いかける。
「葬儀はどちらでやるのかしら? 婚家か、それともリンデン家か……」
「いえ、葬儀は既に婚家で済ませているそうです。もう籍を抜けたからと、リンデン家では香典だけ送り葬儀には参加しないようで」
「そうなの……」
その話を聞くうちにクロエの心は少しずつ静けさを取り戻していった。
彼女の中でレオナルドから受けた傷はとうに痛みを思い出せないほど過去のものだ。
悲しみがないことに罪悪感もなかった。過去が、完全に”終わった”という事実にただ驚いているのだ。
(終わった、か……。そうね、きっともう……全ては終わったのでしょう)
運命の年に起こったのは、かつての婚約者の死。
身勝手な愛を貫く為に何の罪も無いクロエを葬り去ろうとした男であり、”ヒロイン”の父親となる存在。
かつては愛した人だった。しかし、彼がこの世から消えたことに悲しみを覚えない。
不思議と、”終わった”という感覚だけが胸に広がる。
それからクロエは「乙女ゲーム」の存在そのものを考えなくなる。そうして日々を過ごすうちにそのことも次第に頭から離れ、数年の月日が過ぎていった。
*
そうして子供たちは社交界デビューを果たし、それぞれに婚約者ができた。
嫡男のルカは侯爵家の令嬢と、そして次男のアイルは帝国の皇女に見初められ、ゆくゆくは帝国で爵位を与えられることが決まった。それこそが、かつて没落したエーリヒの生家が国に返還した爵位である。
それを帝国の皇帝に進言したのはクロエだった。現皇帝は彼女の従兄にあたり、その立場ゆえに口添えは容易い。
自分の息子が失ってしまった家名を継ぐことがエーリヒにはよほど嬉しかったのだろう。彼は涙を流して喜んでいた。あのエーリヒが涙する姿を見たのは、長年の付き合いであるクロエにとっても初めてのことだ。
子供たちの婚約や将来も定まり、エーリヒと共に自領の経営に勤しむ日々はまさに順風満帆と呼ぶにふさわしいものだった。穏やかで満ち足りた時間が続く中、ある日突然――それは起こった。
「見つけたわよ、悪役令嬢!」
その言葉を聞いた瞬間、時が止まった。
だが次の刹那、クロエの胸は激しく脈打ち、全身が凍りついたかのように強張る。
目の前にはこちらを指さす少女の姿があった。
少女の整った顔立ちは……かつての婚約者、レオナルドの記憶を鮮やかに呼び起こすほどよく似ていた──。




