リンデン公爵夫人の決断
リンデン公爵夫人は憂いを帯びた表情で窓の外を見つめていた。視線の先には一台の馬車。からからと車輪の音を立てながら門前をゆっくりと出て行く。
「失礼します。奥様、レオナルド様が領地におられる旦那様のもとへと出立なされました」
執事の報告に夫人は「そう……」と力なく答える。馬車に乗っていたのは彼女の息子のレオナルドだ。
クロエとの婚約を解消された彼は事実上屋敷を追われ、領地にいる父親のもとへと厄介払いされた。
ここにいては、いつまたクロエに復縁を迫るという迷惑をかけるかも分からない。だったら領地で父親の仕事を手伝い、除籍後の平民としての生活の基盤を整えさせたほうがいいと判断してのことだった。
それを決めたのは夫人本人といえども、厄介払いができて清々したとは少しも思えなかった。
彼女の胸の内には後悔と悲しみ、そしてどうしようもないやるせなさが入り混じる。
「ご苦労、下がっていいわ」
「はい。何かご用がございましたらお呼びください」
恭しく頭を下げ、執事はその場を離れた。
自分以外誰もいなくなった部屋で夫人は深く溜息をつく。
「親子そろって同じ過ちを繰り返すなんて……馬鹿ね、本当に」
彼女の脳裏に浮かぶのは、かつて夫がくだらない女に惑わされ家を危機に追いやった――あの耐え難い屈辱の記憶。息子までもが夫と同じ愚を犯したという事実が、今の彼女には何よりも堪えた。家を守るために奔走した母の姿を目にしていながら、その努力を無に帰そうとした実の息子に憎しみさえ覚える。
「クロエ様はあんなにも素晴らしい女性なのに……何が不満だというの。玉を捨てて石を得ようとするなど……本当に、愚かとしか言いようがないわ」
夫人には息子であるレオナルドの行動が少しも理解できなかった。名門カレンデュラ家の一員となる栄誉も、クロエという最上級の女性を妻にするという幸福も捨て、ただの町娘を得ようとする。上質な宝石を投げ捨て、道端の石ころをありがたがるかのような行動は一生理解できそうにない。
おまけにそのために婚約者を亡き者にしようとしたことは、到底許されることではない。
レオナルドがそのような悍ましいことを計画していたと知った時は頭がどうにかなりそうだった。
父親と同じ轍を踏ませぬようにと厳しく躾けてきたはずなのに、これでは父親よりもひどい。血を分けた息子が人ではなく化け物に見えた。そんな息子を領地へ追いやり閉じ込めることに迷いはなかった。
後悔があるとすれば、息子を真っ当に育て導けなかった自分自身の不甲斐なさ。
悲しいのは、婚約者に危害を加えようとした息子の振る舞い。
そして、正しいのは……恥も外聞も捨てて家の名誉のみを守る選択をとったこと。
数日前、夫人はクロエとの話し合いの席で思いもよらぬ提案をされ、その条件を呑んだ。その決断こそがリンデン家の名誉を守る結果となったのだ。
あの日、レオナルドの処遇に思い悩んでいた夫人のもとにクロエから面会を望む知らせが届いた。
内心を悟られないよう緊張しながらも表向きは平静を装って応対したが、クロエの口からレオナルドの所業を全て語られ、血の気が引いた。
「このたびは愚息の軽率なる振る舞いによりあなた様に多大なるご迷惑とご不快をお与えしましたこと、母として心よりお詫び申し上げます。あの子の過ちは決して許されるものではございません。すべては母であるわたくしの不徳の致すところ。恥も咎もすべてこの身にお引き受けいたします」
夫人はすぐさま床に身を伏せ、頭を深く下げた。
ことの重大さに血の気が引き、顔色は青白さを通り越して白くなる。カレンデュラ家の令嬢に危害を加えようとしていたなど、一家全員の首を差し出しても償いきれないほどの重罪。未然に防いだとはいえ、企んだだけでも許されぬことである。
跪き、許しを請うことしかできない夫人に対し、クロエは優しい声で語りかけた。
「リンデン公爵夫人、どうか頭を上げてください。わたくしは別に貴女やリンデン家に責任を取れと迫るつもりはございません。今後のことについて話し合いをしたいだけにございます」
「えっ……?」
ここまでのことをしたにもかかわらず、責める様子もないクロエの穏やかな態度に夫人は驚いて顔をあげる。
家を潰されてもおかしくないほどの罪を犯したというのに――なぜ。呆気にとられた目で夫人はクロエを見つめた。
「どうぞ、お座りになって。このままの状態では話しにくいわ」
促されるまま夫人は勧められた椅子へと腰をかける。
温かなお茶が二人の前に置かれ、その後ようやくクロエが静かに話し始めた。
「夫人にひとつお尋ねしたことがございます。貴女は……リンデン家の血と、リンデン家の名誉。この二つのうち、あなたにとって大切なのはどちらかしら?」
「え……それは、どういう意味でしょうか……?」
質問の意図が分からず夫人は戸惑った。クロエが提示した二つの選択肢はどちらも同じ意味に思えてならない。
それに、どうしてこの状況下でその質問が出るのか。クロエの意図がまるで掴めず、夫人は困惑を隠せないままその意味を尋ねた。
「近日中に我が父よりレオナルド様との婚約を解消する旨の書状が届くと思います。流石にここまで不誠実で非常識な態度を繰り返されては、愛想も尽きるというもの。それはお分かりいただけますね?」
「……はい、勿論でございます。すべては、こちらの躾の至らなさによるもの。ここまで愚かな真似を繰り返した息子との婚約を続けてほしいなどという、図々しいことは言えるはずもございません」
夫人は膝の上でスカートを強く握りしめた。愚かな振る舞いを繰り返した息子が原因だと分かっていても、”婚約解消”という言葉に絶望せずにはいられない。
名門カレンデュラ家の令嬢との縁談――それは傾きかけた家を救う最後の細い糸だった。これでようやく、没落の淵から引き戻される。未来を思って眠れぬ日々も終わる。その希望が砕け散ったことが心に重くのしかかる。
「分かってくださってよかったです。……しかしながら、それではリンデン家の再興はもはや難しいものとなるでしょうね」
「………………」
覚悟はしていたはずなのに、直接告げられる現実が胸を突く。夫人は深く頭を下げ、震えそうになる声を必死に抑えた。嘆いても、もう何も戻らない。家の未来も、差し伸べられたはずの救いの手も、すべては息子自身の振る舞いによって遠ざけてしまったのだから。
「しかしながら……わたくしはリンデン家自体に思うところはございません。また、ご子息がわたくしに危害を加えようとしたことを、父は知りません。つきましては、此度の婚約解消はご子息の不誠実な態度および不貞行為のみを理由とさせていただきたく存じます」
「え…………?」
その言葉に夫人は思わず顔を上げた。
射貫くようなクロエの眼差しを前に心臓が跳ね、ごくりと息を呑む。
「そして、新たに貴家の子息と婚約を結ばせていただければと考えております。そうすれば、我が家と貴家は再び縁を結ぶことができ、リンデン家再興の一助となるものと存じます」
まるで夢を見ているような、こちらにとって都合のよい提案を前に夫人は言葉を失い、茫然とした。
時が止まったかのように感じられ、希望と不安が押し寄せる。喉が詰まり、言葉が出ず、思わず手で口元を押さえた。
「ただし、リンデン家の血を引く子息は、ご遠慮いただきます」
「はい……?」
矛盾した発言に夫人は耳を疑った。リンデン家と婚約を結ぶと言っておきながら、リンデン家の血を引く息子は断る――。まるで謎かけのようなクロエの言葉に、夫人は戸惑うばかりだった。
「失礼ながら、ご当主に次ぎ、ご子息も豹変しやすい気質をお持ちのようで……。そういった気質のある血筋の方と縁を結び、また女性関連で問題を起こされては困ります」
「それは……はい、恥ずかしながらおっしゃる通りでございます。ですが、ならばどうすればよろしいのでしょうか……?」
家同士が婚姻によって縁を結ぶ以上、その家の血を引く者同士が選ばれるのは当たり前のこと。
それなのに、その血筋の者は遠慮したいとはどういうことだろうか。
困惑する夫人を前にクロエは真剣な面持ちで答えた。
「これより、わたくしはそちらにとって相当に失礼なことを申し上げます。それにより、夫人がお怒りになることも致し方なきことと存じております」
大袈裟なまでの前置きに夫人は息を呑んだ。これからクロエが口にすることはこちらが怒るような内容なのだとしても、実際に怒ってしまっては元も子もない。何を言われようとも受け入れる覚悟で夫人は話に耳を傾けた。
「リンデン家に、とある子息を養子として迎え入れていただきたいのです。そして、その子息をリンデン公子としてわたくしと婚約を結ばせる。そうすればカレンデュラ家とリンデン家は再び縁を繋ぐことができます」
「……ッ!? クロエ様……それは……」
クロエの発言に、夫人ははっとして目を見開いた。
彼女が望んでいることは、たとえば国王が寵愛する娘を有力貴族の養女とし、そのうえで妃に迎えるようなやり方である。
昔はそういう手法で身分の低い娘を寵姫に迎える王もいた。だが、そのやり方は反感を買いやすいので徐々に廃れていった。いくら王の頼みで、王家の外戚になれるとはいっても、血縁関係のない娘を養女に迎えるのは血筋を重んじる貴族にとって抵抗があったからだ。
仮にクロエの望むように受け入れたとして、カレンデュラ家にリンデン家の血が入るわけではない。
縁戚関係を結んだとしても、あくまでそれは名目上だけ。実際はリンデン家とは血縁関係のない赤の他人がカレンデュラ家に婿入りしたというだけだ。
(でも……それなら、リンデン家の名誉は保つことができる。再興も夢ではない。それに……レオナルドの行いへの償いと考えれば、これ以上ないほど破格の申し出だわ)
「いかがかしら? 最初にわたくしがいたしました質問の意味は、こういうことですの。リンデン家の血がカレンデュラ家に入ることを望むなら、このお話は無かったことにしていただいて構いません。ですが、もしリンデン家の名誉のみを守ることを望むのでしたら……この提案をお受けした方がそちらの為かと思います。本来でしたらご当主に話した方がよろしいのでしょうが、今、リンデン家で采配を振るっておりますのは夫人でございましょう? 養子を受け入れるか否かの決定も夫人次第だと存じております。仮にご当主にこの話を持って行っても……まあ、断られるでしょうね」
クロエの言葉は核心をついていた。仮にこの話をリンデン公爵にしたとしても、「馬鹿にしている」と憤慨して断ることだろうことは夫人がよく分かっていた。夫は家の再興よりも、己の誇りや恥を優先する人だ。こちらが恥や外聞を捨てて家の再興の為に奮闘しているのに──と考えたら腹が立ち、覚悟が決まる。
(そうよ……愚かな夫の血筋なんてどうだっていいわ。家の名誉さえ守れたならそれで……)
リンデン家の再興こそが夫人の人生そのものだった。そのために心血を注いできたのだ。
それが実現する希望があるのなら、すがりつくほか選択肢はない。
『お前のようなつまらない女と違って、側妃様は実に素晴らしい女性だ』
不意に、夫人の脳裏にあの日の夫の言葉が蘇る。その次の瞬間、夫人は自然と口を開いた。
「すべてはクロエ様のお心のままに。わたくしどもにそのような希望をお与えくださいましたこと、心より感謝申し上げます」
どんな方法でも、家を守る為ならば何だって受け入れてみせる。
あの人が”つまらない”と蔑んだ自分が、あの人が守れなかった家を再興する。
そう決意した夫人は迷いなく承諾の言葉を口にしていた。




