リンデン公子
「それで、元婚約者はどちらを選択されたのでしょうか?」
レオナルドが帰った後、クロエが口直しにサロンでお茶を飲もうとしたところ、エーリヒがカップにお茶を注ぎつつ彼女にそう尋ねる。差し出されたカップから漂う香りにふっと笑みを浮かべたクロエは上機嫌で答えた。
「もちろん、毒を飲まない方よ。自分が一番可愛い方ですもの。自分に害がある選択などするはずがないわ」
クロエから「自分達が使おうとした毒を身をもって体験しなければ、再婚約はしない」と突きつけられたレオナルドは、最初は選択を避けて婚約を承諾してもらおうとする卑怯な方法を試みた。同情を誘う言葉や、クロエの罪悪感を煽る発言、泣き落としなどあらゆる手段を用いたが、クロエは断固として譲らなかった。
毒を飲むか、飲まないか。この二択以外の選択肢をレオナルドに与えることはなかった。
絶対に婚約を結びたい、でも毒など絶対に飲みたくない。そんな自分にしか得の無い選択をクロエに承諾してもらいたくて、必死に論点をずらすも彼女は一切聞く耳を持たなかった。
「何の代償も払わずに婚約したいだなんて、そんな図々しく恥知らずなことをよく言えたものだと笑ってしまったわ。毒くらい飲んでもかまわない、なんて根性を見せてくれたら、これまでのことを水に流してあげてもよかったのだけどね……」
予想はしていたが、案の定レオナルドは最後までクロエが出した条件を承諾しなかった。
人には迷いなく危害を加えようとするくせに、自分が同じことをされるのは絶対に嫌。そんなの、卑怯者以外の何者でもない、と蔑んだ目で罵ってやれば彼は涙で顔をぐしゃぐしゃにしたまま去っていった。
かつての婚約者の無様な姿を目にし、これまで胸に積もっていた悔しさがようやく晴れていくのを感じた。
どうでもいい存在に成り果てた彼だが、やはり受けた屈辱は胸の中でずっと燻っていたようだ。
(それはそうよね……。不貞だけでも許せないのに、わたくしを毒殺しようとした挙句に家まで乗っ取ろうと企んだのだもの。これで怒らない方がおかしいくらいよ。ああ……でも、やっとこれですべてが片付いたのね……)
ようやくあの屑で最低な男と縁が切れ、クロエは胸の底から解放感を覚えた。
軽やかな気分でクロエが温かな紅茶を口に含んだ瞬間、エーリヒがふと呟く。
「仮に”飲む”という選択をした場合、その日の内に命が潰えたでしょうね」
「え? あれはそんなに強力なものだったの? 長年投与してようやく効果が出る程度の、かなり弱いものだと聞いたけれど……」
「ええ、調査したところ、あの毒を扱っていた商人もそう説明していたようです。ですが、実際に投与された人物はその日の内に事切れておりました。商人が出鱈目を言ったのか、量を間違えたのかは分かりませんが、かなり強力なものであることは間違いありません」
「実際に投与された人物……? それは、どういうこと?」
「いえ、誤解なさらないでください。私が試しに人に投与したわけではございません。たまたま”監視対象”がそうなっただけです」
「監視対象? それって……」
「はい。元婚約者の不貞相手、”シェリー”です。自宅にて小公爵と従者によって例の毒を盛られ、そのまま……」
「小公爵って……まさか、リンデン小公爵のこと!? どうして彼がシェリーを……?」
「小公爵にしてみれば家の存続をかけた大切な婚約をたかが平民の娘に台無しにされたわけですから、報復にでてもおかしくないかと。貴族の面子を平民に潰されたとなれば、怒るのも無理ありません」
「……そうね。確かに、そうだわ。……そう、じゃあ、シェリーはもう……」
シェリーは原作に沿った行動をしていたつもりだったのだろう。しかし実際には平民が貴族の婚約を台無しにしたに過ぎない。身分制度が絶対の世界でそんな真似をすれば報復されて当然だ。
「哀れなこと……。大それたことを望まず、慎ましく生きていたならそんなことにはならなかったでしょうに……」
彼女が悲惨な結末を迎えたのは虚構でしかない乙女ゲームの設定が現実になると信じたせい。
ヒロインの母だから何をしても許されるという根拠のない自信のせいで彼女には危機意識というものが著しく欠けていた。決して逆らってはいけない相手に逆らえばどうなるかなど全く考えていなかったのだろう。
(ああ、でも……ヒロインの母がここで退場したのなら、もうこれでヒロインはこの世に生まれてこないというわけね)
これでもう、物語の幕は上がらない。
シェリーが悲惨な末路を迎えたことには複雑な思いが残る。だが、クロエが悲劇的な最期を迎える乙女ゲームの舞台が永遠に閉ざされたことには、深い安堵を覚えた。
緊張が解けた静けさの中、エーリヒがテーブルへお茶請けの焼き菓子を置く。
クロエは横目にそんな彼の姿を捉え、そっと言葉を紡いだ。
「そうそう、エーリヒ。貴方がリンデン家の養子となる手続きが滞りなく完了したと、先方より知らせが届きました。これからは使用人ではなく、貴族の子息としてお過ごしなさい」
その発言に先ほどまで落ち着いていたエーリヒが目に見えて動揺し、手にしていた銀のトレイを危うく取り落としかけた。
「御主人様…………」
戸惑いと照れが入り混じって頬を赤く染めるエーリヒに、クロエはそっと微笑みかけた。
「あなたのための部屋はもう用意してあるわ。調度品は好みがあるでしょうし、欲しい物があれば遠慮なく言ってね。こちらで全部揃えておくから。ああ、服も新調しないと……。仕立て屋を呼んで一式揃えましょう」
「いえ、そんな……私のようなものにそこまでしていただくわけには……」
「まあ、何を言っているの? あなたはこのわたくしの婚約者になったのよ。カレンデュラ家の一員となる以上、最高級の品を身につけてもらわないと家の品位が損なわれるというもの。いわばこれは義務よ、果たしてもらわねば困るの。ねえ、エーリヒ・リンデン公子?」
余裕を漂わせた含みのある口調で告げるクロエに、エーリヒは頬を赤らめながら「仰せのままに」と礼を取る。
その様子にクロエは満足そうに頷いた。
「しかし、やはり私のような使用人が御主人様のような高貴な御方の婚約者など、畏れ多いことにございます」
「あなたも元は帝国貴族の、それもやんごとない家柄の生まれでしょう? なら、問題ないわ」
「いえ、生家は既に没落しておりますし……それに帝国皇帝陛下と同じ血を継ぐ姫君である御主人様と私が釣り合うとはとても思えません」
「今はリンデン公爵家の子息となったのだから、釣り合いはとれていてよ。それとも、エーリヒはわたくしとの婚約に不満があるのかしら?」
「いいえ! とんでもございません! まさか私がご主人様の婚約者に選ばれようとは露ほども思わず……ただ、驚愕するばかりでございます。他にも相応しい方はいくらでもいらっしゃるはずですのに――その方々を差し置いて、私が貴女の隣に立つなど……畏れ多くてなりません」
レオナルドとの婚約が解消されたのち、クロエが新たに婚約者として指名したのは、誰あろう使用人のエーリヒであった。彼は今でこそ家名を持たぬものの、かつては帝国の名門貴族の家に連なる生まれである。そして今回、リンデン家の養子となることで彼は改めてリンデン家の子息としてクロエとの婚約を結んだ。
「家柄や身分だけで考えれば、カレンデュラ家に相応しい方は他にもいるけど、わたくしが心から信頼する男性は貴方しかいないわ。
今回の出来事は、想っていたよりも深くわたくしの心に恐怖を植え付けたの……。だから、貴方以外の男性を婚約者に選んだとしても、もう信じられる自信がないのよ。多分……常に疑ってしまうわ。隠し事はないか、危害を加えられやしないか、豹変しないか、とね……」
クロエが哀しげに目を伏せるとエーリヒは思わずハッとなり、慌てて頭を下げた。
「申し訳ございません。御主人様のお心の傷を思いやることもせず、余計なことを申し上げてしまいました。貴女様のお隣に立てるという身に余る栄誉に気後れしていたようです」
「いいえ……その、もし、少しでも嫌だというのであれば断ってくれても構わないのよ? わたくしも無理強いはしたくないの」
「とんでもない。嬉しさこそあれど、厭う心など微塵もございません。……その、御主人様の夫になれるなど、嬉しすぎてどうにかなりそうで……」
耳まで真っ赤に染めるエーリヒの姿にクロエも恥ずかしくなり頬を染める。
初々しい空気が漂う中、先に口を開いたのはエーリヒだった。
「御主人様……いえ、クロエ様、私を婚約者に選んでくださったことを心より感謝申し上げます。これから先、どんな時も貴女を守り、忠誠を尽くすことをお約束いたします。……ずっと、お慕いもうしあげておりました。叶わぬ夢と諦めておりましたことをこうして叶えていただき、心から感謝いたします」
静かに跪き、そっとクロエの手をとり愛の言葉を捧ぐ。予期せぬ出来事にクロエは思わず動揺して慌て始めた。
「え……? 慕っていたって……貴方が、わたくしを?」
「はい。これほど魅力的な女性が傍にいれば、思わず心惹かれてしまうのも無理はありません。これまでも、これからも、貴女様は私の心を捕らえて離さないことでしょう。愛しております、クロエ様」
熱を帯びた黒曜石の瞳に見つめられ、クロエは思わず体が固まった。鼓動が速まり、頬まで熱くなるのを感じる。 瞬きもできず、ただ見返すことしかできなかった。




