忘れている世の中の常識というもの
「なんなのよ、あの女……。婚約者に愛されない惨めな女が偉そうに!」
シェリーは帰路につく馬車の中で、先ほどのクロエの態度に腹を立てていた。
レオナルドに愛されていない惨めなお嬢様を嘲笑うためにわざわざ足を運んだというのに、相手は少しも動揺しなかった。淡々と正論をぶつけられ、挙げ句の果てには従者にナイフを突きつけられたのだ。これではただ嫌な思いをしに行っただけではないかと、シェリーの胸中では恐怖とやるせない思いでいっぱいとなる。
「なんであんなに平然としているのよ……。あの女はレオに心底惚れているんじゃなかったの? なんで動揺ひとつしないのよ……!」
クロエはレオナルドに心底惚れ抜いており、何をされても怒らない。シェリーはかつて彼からそう聞かされていた。それがどうだ、先程の彼女の反応を見る限りでは一欠けらの好意も抱いていないではないか。
強がりかもしれない――そうも思ったが、たぶん違う。
あのときの彼女は本気でレオナルドに興味がなさそうな顔をしていた。
「惚れているとかいうのは、レオの勘違いだったってこと……? それとも……レオが何かしたせいで気持ちが冷めたとか?」
その勘は当たっていた。レオナルドの不貞によりクロエの彼に対する気持ちは萎えてしまい、その後の度重なる不誠実な態度により愛情はもうすっかり枯渇していた。もう嫌いどころか興味がない域にまで達している。
「え……そうなったら結婚ってどうなるの? レオがクロエと結婚してカレンデュラ家に入ってくれなきゃ、わたしが将来公爵夫人になれないじゃん。それに『ヒロイン』も公爵令嬢になれないよね? そうなったらゲームの展開ってどうなるんだろう……」
この状況になってもシェリーはこの世界が乙女ゲームのシナリオ通りに進むと信じて疑っていなかった。
もう既にそんな場合ではないということに全く気づいていない。
「いや、まあ……なんとかなるか。ヒロインが公爵家の令嬢にならないと、攻略対象たちとも出会えないんだし……それじゃゲームも始まらないし……。その辺は”強制力”が働くはずよ。うん」
おかしいと本人も気づいていたはずなのに、それでも彼女はゲームの強制力などという根拠のない概念を固く信じ込んでいる。ここで自分の状況に危機感を持ち、そして逃げ出していればよかったのだと、彼女が気づくのはそう遠くない未来の話。転生者ゆえに乙女ゲームのシナリオ通りに世界は動くだろうという不確かなものを信じた結果、彼女は、世の中の常識というものをすっかり忘れてしまっていた。平民が貴族を挑発するような真似をしてはいけない、というこの世界に住む人ならば誰もが知っている常識を完全に失念していた。
自分はヒロインの母だから、この世界に絶対に必要な存在だから。そんな根拠のない妄想染みた考えのもと、シェリーは踏み越えてはいけない一線を越えた。ただの町娘が公爵家を挑発するなど自殺行為も同然。貴族は侮辱を何より嫌う。ましてや平民から受けたとなれば黙っているはずもない。報復されることは何らおかしいことではなく、むしろ当然といえる。
子供でも分かっているような、そんな常識をシェリーは忘れている。
その結果、まさに彼女に危機が迫っていた。
「ん……? あれ? 家の前に馬車が停まっている……」
窓の外に自宅の外観が見えてきたとき、そのすぐそばに小さな馬車が停まっているのが目に入った。
「もしかしてレオ? 会いに来てくれたのね!」
シェリーは目を輝かせ、急いで馬車から降りた。
スカートの裾を翻し、小走りで自宅へと急ぐ。
「レオ! 来てくれたのね…………え?」
馬車へ駆け寄り、窓の中をのぞき込んだシェリーは息をのんだ。そこにいたのは彼女が望んだ相手──愛しい恋人のレオナルドではなかった。
「……久しぶりだな、愚弟の愛人。愚弟ではなかったことに、さぞがっかりしただろう」
扉を開けて姿を現したのは氷のように冷たい眼差しをしたレオナルドの兄、リンデン小公爵だった。
「な、なんでお兄さんがここに? レオはどうしたの?」
「貴様に”兄”と呼ばれる筋合いはない。それと、愚弟ならもうここには来ない」
「は? どういうこと?」
シェリーが戸惑った声で問うと、小公爵は心底どうでもよさそうに吐き捨てた。
そのこちらを馬鹿にしたような態度に腹が立ったシェリーは小公爵へと食ってかかる。
「いきなり来て何勝手なこと言ってんのよ! レオがもう来ないって何⁉ 意味分かんない!」
シェリーの態度に小公爵は小さくため息をもらし、そのまま彼女を気にも留めず家の中へと入っていった。
「あ、ちょっと! 勝手に人の家に入らないでよ!」
「……ここはレオナルドが金を出して借りた家だ。一銭も払っていないお前に何の所有権もない。ついでに言えばその金は婚約者に使う目的で与えられた予算だ。愛人を囲う為の金ではない。領民の血税を、こんなくだらない女に浪費するとは嘆かわしい……」
「はあ⁉ 何それ酷い! わたしはレオの恋人よ? 愛されてもいない婚約者よりも、愛されているわたしにお金を使う方がレオだって嬉しいはずよ!」
「貴様とは根本的に価値観が合わないようだ。それと、外で騒ぐな。中で話せ」
そう言い捨ててさっさと足を進める小公爵の後をシェリーは文句を言いながら追いかける。
すると中にはレオナルドの従者であるトマスがおり、小公爵を見るなり深々と頭を下げる。
「若様、ご命令どおり、お茶の準備は整っております」
「うむ」
シェリーは無視してやり取りする二人に憤り、指をさして怒鳴りつけた。他人の家にずかずかと上がり込み、勝手な真似をするなど非常識だと罵る。しかし、トマスはそれを無視して勝手にお茶を淹れ初め、小公爵も勝手に椅子へと座った。
「先ほども言ったが、ここはリンデン家の資金で契約された借家だ。貴様などただの居候にすぎん。わきまえろ」
「な……なんですって!? ふざけんじゃないわよ! ここはレオがわたしの為にと用意してくれた、二人の愛の巣なの! 資金がどうとか知らないわよ! お金を払っているのはレオなんだから、部外者が偉そうに言わないで!!」
シェリーが暮らす家は、レオナルドが彼女のために借りたものだ。それまでパン屋で寝泊まりしていた彼女はこの家を与えられたことで生活が一変し、ここはふたりの密やかな逢瀬の場ともなった。だから彼女にとってこの家は愛する人との大切な場所で、そこに土足で踏み入る小公爵に怒りを露わに抗議した。
だが、小公爵としてはレオナルドが借りたといっても、それはリンデン家の資金によって契約されたもの。しかもそれは婚約者に使われる目的で渡したものであり、愛人に使うなど横領のようなものだった。横領された金で借りた家に平然と住みついている女。小公爵にはシェリーがまさにそう映っていた。一銭も払っていない分際で家の所有権を主張するなど図々しい、と彼はシェリーを睨みつける。
「な、なによ、その目……」
小公爵に睨まれ、びくりと震えたシェリーは先ほどまでの勢いをすっかり失って怯えてしまった。
震える彼女の前にトマスはそっと温かい紅茶を差し出す。
「どうぞ、お召し上がりください。シェリー様のお好きな蜂蜜とミルクがたっぷり入った紅茶です」
「………………」
こんな状況で平然とお茶を淹れるトマスにシェリーは不快感を募らせた。
確かに、彼はレオナルドとともに何度もこの家を訪れ、鍵も預かっている。だから家に入ること自体は不思議ではない。しかし――レオナルド抜きで、しかもこんな男をシェリーの許可なく家に入れたことに、彼女はどうしても苛立ちを抑えられなかった。
「トマス、あんたはレオの家来なのよね? なんでこんな男と一緒にいるの? しかも勝手に人の家に入ってさあ……そういうの、どうかと思うよ」
文句を言うと一瞬トマスの顔が真顔に戻る。それを見たシェリーは不気味さにビクッと身震いした。
「……それについては申し訳ございません。なれど、先程若様も申しました通り、ここはリンデン家の資金で借りている家なので、ご嫡男である若様が入るのは当然のことかと」
「はあ? あんたまで何言ってんの!? 女の家に勝手に入ることが問題だって言ってんのよ! なんで分かんないの?」
いつもと違うトマスの態度にますます不快感が募る。その苛立ちのままシェリーは乱暴にカップをとり、音を立てて中身を飲み始めた。その様子を小公爵とトマスがじっと見つめる。
二人の視線が冷静な観察者のそれだったことに、シェリーは気づかない。




