どうしたものか
「ご主人様、下賤な山猿が門の外へ出たようですので始末して参ります。敷地外でしたら、血で穢れようとも構いませんよね?」
殺気に満ち溢れたエーリヒにクロエは軽く首を振って「お止めなさい」と制した。
「何故ですか? あの猿はご主人様を侮辱しました。畏れ多くも公爵家のご令嬢に無礼を重ねるなど……万死に値します。このまま生かしておくわけにはいきません。カレンデュラ家の沽券にかかわります」
エーリヒの隠しきれない怒りを見て「ああ、ゲームを知らない者なら、こう反応するのか」とクロエは冷静に理解した。おそらくはクロエ自身も前世の記憶を思い出していなければ、シェリーの存在にも発言にも驚いて取り乱していたことだろう。そう考えると、シェリーはクロエのやたら冷静な態度に違和感を覚えなかったのだろうか。自分の婚約者の愛人が突撃してきた挙句に家を乗っ取る発言をしてきたというのに、声一つ荒げないのはどう考えても不自然だろうに。
(頭の弱そうな子だったから、そんなことも気づかなそうね……)
思ったよりも頭の弱い娘だったからか、それともレオナルドへの愛情など消え失せたからか、シェリーと直に会っても何の感情も動かされなかった。ただ、哀れなほど愚かしい娘だなと思った程度だ。
それくらいどうでもいい相手だから、わざわざエーリヒに始末させる価値もない。路傍に転がる石にすぎぬ相手に、エーリヒが力を割く必要はない。
「貴方の気持ちはありがたく思うわ。でも、いいの。妄想と現実の区別がついていない可哀想な人のようだし、放っておきましょう」
「……そう、ですか。畏まりました。ご主人様がそうおっしゃるなら……」
結局、シェリーの用件は何だったのか。訪問の目的を口にしなかったが、おおかた自分の方がレオナルドに愛されていると優越感に浸りたかっただけなのだろう。そんなくだらないことの為に、わざわざ貴族の屋敷に突撃する神経がどうかしている。平民が貴族に対して不遜な態度を取れば、斬り捨てられても不思議ではないというのに。
これが命をも惜しまぬ覚悟から来る行動であるなら、むしろ感心する。それほどまでに、彼女のレオナルドへの愛情が深いということだから。だがそうではなく、彼女はただ単にこの世界を”乙女ゲーム”の舞台だと思い込んでいるだけだ。ヒロインの母親である自分は何があろうとも大丈夫だと盲目的に信じているからこそ、平気で命知らずな行動に出られるのだろう。その行動がどのような結果を生むのか、彼女はまるで考えていない。
「それに……もう二度と会うこともないでしょうから」
レオナルドとシェリーの茶番にこれ以上付き合っていられない。そろそろ引導を渡してやらねば。
そんなことを考えていると、エーリヒが遠慮がちに尋ねてきた。
「ご主人様、それは……婚約者様との婚約について考え直すということでしょうか……?」
「え? ……そうね、そうなるわね。お父様もわたくしの好きにしていいと言ってくださったし……」
レオナルドと直接話した父は、彼のあまりにも不誠実な態度を見て婚約の決定権をクロエに委ねると約束してくれた。しかも、ひどく落ち込んだ態度で「あんな男と婚約させてしまって本当にすまなかった……」と謝罪までしてくれたのだ。厳格な父がそんな言葉を口にするとは夢にも思わなかったので、その一言を聞いた瞬間、思わず息を呑み絶句してしまった。
「そうですか……それはよかったです。あんな男ではご主人様を幸せに出来ないと思っておりました。秘密裏に始末してしまおうと何度思ったことか……」
「まあ……! だいぶ物騒なことを考えていたのね」
まさかそんなことをエーリヒが考えていたとは思わず、クロエは目を見開いて驚いた。
「あのような躾のされていない山猿を愛でるような趣味の悪い男など、貴女に相応しくありません。考え直してくださるのなら安心いたしました」
安堵の色を浮かべたエーリヒを目にし、クロエは自分がどれほど彼を心配させていたのかを省みた。
それと同時にここまで心配してもらえることに嬉しさを覚える。
(とはいえど、レオナルド様との婚約を解消するとなると……リンデン家はどうしようかしら。このままだと没落するわよね……)
レオナルドのことは嫌いだが、リンデン家自体が憎いわけではない。
どうしたものだろうかとクロエは頭を悩ませた。




