そんな愛など塵も同然
シェリーは焦っていた。予想とはまったく違うクロエの反応に。
(な、なによ、この余裕は……! ふつうは自分の婚約者に女がいるって聞いたらもっと焦るものでしょう? なんでそんな落ち着いているのよ……)
動揺ひとつ見せないクロエの態度に、逆にシェリーの方が動揺して落ち着かない。
淡々と「用件は?」と聞いてくる恋敵に恐怖すら感じる。
「シェリーさん、ご用件がないようでしたらお帰りいただけます? わたくし、これでも忙しいのですよ」
呆れたような表情でそう言ってくるクロエにカッとなったシェリーは彼女に向かって叫んだ。
「レオに愛されていない惨めな女のくせに! 偉そうにしないで!」
勝ち誇った顔で鼻を鳴らすシェリーだが、クロエは心底不思議そうに首を傾げた。
「……? 貴女の価値観では、レオナルド様の寵愛の有無によって、人の上下関係が決まるのですか?」
「は……はあ? 何言ってんの、あんた……」
「だってそういうことですよね? 先程、貴女はわたくしを『惨めな女』だとおっしゃった。その理由は、レオナルド様からの寵愛をわたくしが受けていないから。そして、貴女はずっとわたくしよりも立場が上のような態度でいらっしゃる。それはつまり貴女は貴族や平民という身分より、レオナルド様からの寵愛の有無で相手の立場が決まると思っていらっしゃるということ。……まあ、すごいですね。その価値観ですと、貴女は国の頂点であらせられる国王陛下より立場が上ということになりますわ」
陛下はレオナルド様からの寵愛など受けておりませんし、とクロエは嘲るような顔でシェリーに告げた。
「何それ!? 馬鹿にしてんの!」
「心外ですこと。わたくし、これでも真面目に話しておりますのよ?」
「なによ! 屁理屈ばっかり! そういうところが可愛くないってレオも言ってたわよ!」
「あら、そうですか。レオナルド様は頭が弱いお嬢さんがお好きなのですね? 知りませんでしたわ」
言外に「お前は馬鹿」という意味の言葉を伝えると、シェリーは面白いほど顔を真っ赤にして怒り出す。
相手を煽っておきながら、自分が煽られると途端に弱くなるようだ。
「はあ⁉ わたしが馬鹿だって言いたいの?」
「そのようなことは一言も申しておりませんが……貴女がそう思うなら、そうなのでは?」
「ふざけないで! 性格悪いわよ、あんた! そんなんだからレオから愛されないのよ!」
「先ほどから貴女はやたらとレオナルド様からの愛を、まるで伝家の宝刀のごとく振りかざしますが……それに何の価値もありませんわよ」
「へっ…………?」
予想外のことを言われ、一瞬キョトンとするシェリーにクロエはため息交じりに答えた。
「だってそうでしょう? レオナルド様は確かに公爵家のご子息ですが、跡継ぎではない彼には何の権力もありませんもの」
そう言われてもよく理解できず、困惑した表情を浮かべるシェリーにクロエは分かりやすく説明してやることにした。
「たとえば……そうですね、王の後宮では、妃たちの立場は王の寵愛の有無によって大きく変わることをご存じでしょうか?」
「はあ⁉ それくらい知っているわよ!」
「それは結構。王の寵愛を得るかどうかで己の立場が決まるのですから、妃たちにとって王からの”愛”は金銀宝石よりも価値のあるものです。では、レオナルド様からの”愛”はどうでしょう? 寵愛を受けるかどうかで貴女とわたくしの立場は変わりますでしょうか?」
「えっ……? それは……」
口ごもるシェリーにクロエははっきりとした声で「変わりませんよ」と告げた。
「そんなものがなくとも、わたくしの立場は揺るがない。わたくしはカレンデュラ家の次期当主であり、女公爵となる身ですもの。それはレオナルド様からの愛があろうとなかろうと変わりませんわ。そして、貴女の身分も変わらない。ならば、そのようなものは何の価値も無い塵も同然。違いますか?」
「ご、ごみ!?」
婚約者からの愛を塵だと言うクロエにシェリーは驚愕のあまり絶句した。
彼女の態度を見れば、それが強がりではなく本心だとすぐに分かる。
「先程の例えで言うと、この場合、”王”はわたくしなの。そしてレオナルド様は、むしろ寵愛を必要とする”妃”の立場よ。だって彼はこの家に婿入りする立場なのだもの。”王”たるわたくしの寵愛によって彼の立場は変わるわ。厚遇されるも冷遇されるも、全てはわたくしの寵愛を得られるかどうかにかかっている」
息を呑んでクロエの話を聞いているシェリーの顔色はどこか青褪めている。
今の言葉で彼女は自分がとんでもない思い違いをしていると気づいたのかもしれない。
「レオナルド様に愛されない惨めな女? 笑わせないで。これから惨めになるのは、わたくしの愛を得られなかった彼の方よ。婚約中に不貞を働くような不誠実な男なんか、いらないわ」
空気が一瞬で凍りつくような冷たい声にシェリーはビクッと肩を震わせ、慌てて俯いてしまった。
婚約者に愛されない惨めな女を嘲笑ってやろうと思ってここまで来たのに、どうしてこんな展開になっているのか。困惑しきったシェリーの額にはいつの間にか冷や汗が滲んでいた。
俯いたままのシェリーをクロエは観察するようにじっと見つめた。
例のレストランで彼女の姿を見たことはあるが、こうして話すのは初めてだ。レオナルドと一緒のときは猫を被っているのかと思うほど控えめな印象があったのに、今の彼女はまるで怖れを知らない獣のよう。よくもまあ、何の権力も持たない町娘が公爵令嬢に敵意を向けられるものだと呆れてしまう。
身分制度が絶対のこの国で、平民がここまで貴族相手に盾突くこと自体が有り得ない。そもそも貴族の屋敷に押しかけるなど、普通なら思いつきもしないだろう。下手をすれば、不審者として門番に切り捨てられてもおかしくないのだから。
そう考えるとシェリーの行動はどうにも違和感を覚える。
この『自分は何をしても許される』と言わんばかりの尊大な態度の、根拠のない自信はどこからくるのか。レオナルドの恋人だから、という薄っぺらい理由だけでここまで増長できるとは思えない。
彼女の年齢にそぐわぬ幼稚さから、単に深く考えずに行動しているだけとも受け取れる。
だが、もっとこう決定的な何かがあると思えて仕方ない。彼女の恐れを知らぬ振る舞いは、背後に強大な権力者が控えているかのような揺るぎない自信を漂わせていた。
ひょっとすると、彼女はやんごとなき血を受け継ぐ姫なのかもしれない。
そう考えるとこの傲慢な態度にも納得がいく。
そんなことをクロエが考えていると、急にシェリーが顔をあげてキッとこちらを睨みつけてきた。
「……ふざけないで! あんたなんかゲーム開始前に死んじゃうやられキャラのくせに! ヒロインの母親となるわたしに偉そうなこと言ってんじゃないわよ! この家はいずれわたしとレオのものになるの! あんたは惨めに寂しく死んでいく運命なのよ!」
その発言を聞いたクロエの表情には明らかな驚きが浮かんだ。
なぜ彼女がそれを知っているのか。その謎に対する答えは唯一つ、彼女もまたクロエと同じ転生者だったのだ。
(ああ……なるほど、そういうことね。平民の身でありながら、貴族たるわたくしにこれほどまで不敬な態度を取れた理由は)
シェリーは自分が『ヒロイン』の母だと分かっているから、自分がいなければ『ヒロイン』は産まれないと知っているからこそ、こんなにも強気でいられるのだろう。
ヒロインなくしてはゲームは始まらない。物語の幕が上がるには、シェリーとレオナルドから生まれたヒロインが絶対に必要だ。
だから自分が害されることはない。だって自分はこの世界において必要な存在だから。
おそらく、シェリーはそう信じているのだろう。だったらこの自信に満ち溢れた態度も頷ける。
腑に落ちたクロエは憐みを込めた目でシェリーを見た。
そんな根拠のない自信でここまで増長できる哀れな自称ヒロインの母を。
「な……なによ、その目‼ 言っておくけど、これは本当よ! わたしには未来が…………ヒッ⁉ な、なに⁉」
言葉を最後まで紡ぐ前にシェリーは突如として悲鳴をあげた。彼女の首には鋭利なナイフの切っ先が向けられており、その背後には音もなく移動したエーリヒが、怒りに満ちた表情を浮かべながら立っていた。
「……エーリヒ、お止めなさい」
「お言葉ですが、この者はご主人様を侮辱しました。このカレンデュラ家の主となられるご主人様を、ただの町娘が悪し様に罵るなど決して許されぬこと。その命をもって償わせるべきかと」
「貴方の忠誠、嬉しく思うわ。でも、絨毯が汚れるから止めてちょうだい。新調したばかりなのよ?」
言外に「絨毯が血で汚れるから駄目」と告げれば、エーリヒは渋々ながらナイフを引っ込めた。
ナイフを突きつけられていたシェリーはというと、初めて経験する明確な死の恐怖に怯え、放心したようにその場で固まっていた。
「貴女の発言は、わたくしへの不敬で本来なら死罪に相当しますのよ?……ですが、今回だけは大目に見て差し上げます。あまりにも荒唐無稽な戯言ですもの。真に受ける方がどうかしていますわ。でもね、シェリーさん、もういい年なのだから……妄想と現実の境界線は引かないと。後悔することになるわよ?」
それはこの世界が必ずしもゲーム通りの展開を辿るとは限らない、という意味で忠告したのだが、どうやらシェリーには脅迫ととられたらしく、恐怖で全身を震わせていた。
「も……もう、帰る! このことはレオに言いつけてやるんだから!」
「ええ、どうぞご勝手に。お客様がお帰りよ。門まで送って差し上げて」
クロエの指示に従い、控えていた侍女数名が震えて動けないシェリーを抱えて立たせ、そのまま強制的に退出させる。シェリーはそれに抵抗はしなかったものの、ずっとぶつぶつと「おかしい」「なんなの」と呟いていた。




