苦くて、甘い珈琲
父親との久方ぶりの再会もそこそこに、クロエは馬車に乗ってとある場所へ向かっていた。
馬車の揺れは穏やかで、窓の外では午後の明るい陽の光が街並みの屋根を淡く照らしている。
その小さな空間にはクロエと執事のお仕着せをまとった青年が座していた。
「御主人様……よろしかったのですか? 旦那様とお会いするのはしばらくぶりだったのでは……」
青年が遠慮がちにそう尋ねると、クロエは窓の外に目を遣ったまま「いいのよ」と答えた。
「先方との約束の方が先だもの。急に帰っていらしたお父様のお相手をしている暇などないわ」
素っ気ない言葉に青年はそれ以上何も言えず押し黙った。
するとクロエはようやく窓の外から彼に視線を移し、微笑みを浮かべて言葉を紡いだ。
「それより、あなたのその服、とても似合っていてよ。エーリヒ」
青年──エーリヒはクロエの褒め言葉に頬を赤らめて恥ずかしそうに俯き「……恐縮です」と呟く。
彼は普段はクロエの忠実な”影”として黒装束に身を包んでいるが、ごくたまにこうして執事の服を纏いクロエの従者を務めることがある。
「仮面の下の素顔を見るのも久しぶりだわ。変わらず美しいわね」
仮面を外したエーリヒはとても端正な顔立ちをしていた。
異国を感じさせる褐色の肌に、絹のように艶やかな黒髪、黒曜石のように澄んだ瞳。服の上からでも分かるしなやかな筋肉。どこかの家の令息と呼んでも差し支えないほど美しく品のある雰囲気を漂わせている。
「私のような卑しき身分の者に、分不相応なお言葉です」
「あら、美しい者を美しいと評するのは当然のことよ」
それだけ言うと、クロエはまた窓の外へと顔を向けた。
クロエが彼の容姿を褒めるのはいつものことだ。それこそ、前世の記憶が蘇る前から変わらない癖のようなもの。
そして、褒めた後に視線を何処か別の方へ向ける仕草も変わらない。
エーリヒはクロエの横顔を気づかれないようにそっと見つめた。
美しい、と褒める主人の方がよほど美しいと口に出せないまま。
そうした静かな時間が馬車の中に流れていると、ふと馬車の動きが止まる。するとエーリヒがゆるやかに立ち上がり、扉に手をかけた。
「着いたようでございます、御主人様」
「ええ、そうね」
そう言って先に降りたエーリヒの後にクロエが続く。彼に差し伸べられた手を取り、ゆっくりと馬車を降りた。
「お足元にお気をつけくださいませ」
馬車から降り、一歩を踏み出すと目の前に見知った看板が見える。
蔦の葉を模した錆びた鉄の看板には「本日の営業は終了しました」という張り紙が貼ってあった。
ここは街の片隅に佇むその小さなレストラン。レオナルドが恋人と密会する為の場所であり、クロエが買い取った店である。
エーリヒが扉を開け、クロエが店内へ入ると、店主とその妻が姿勢を正して迎えた。
「ようこそいらっしゃいました、オーナー。お待ち申し上げておりました」
厳つい容姿の店主が深々と頭を下げ、妻もそれに続く。クロエは彼等ににっこりと微笑み「お邪魔するわね」と告げる。
「一日貸し切りにさせて申し訳なかったわね。その分はきちんと補填するわ」
「いえ、とんでもございません! この店はオーナーの持ち物ですので、オーナーのご要望があれば貸し切りにするのも当然のことです」
首を振って答えた店主の妻はそのまま「こちらへどうぞ」とクロエ達を席へと案内する。
そこは、いつもレオナルドが座る席とは遠く離れた奥まった個室だった。
エーリヒが椅子を引き、クロエが腰を下ろすと、彼はそのまま背後に控える。そんな彼の方へとクロエは顔を向け「エーリヒ」と静かに名を呼んだ。
「そこではなく、わたくしの目の前の席に座りなさい」
「え……? いえ、御主人様と席を共にするなど、畏れ多いことにございます」
「いいの。わたくしが許すわ。今日は誰の目もないし、わたくしの言う通りになさい」
クロエの有無を言わさぬ声にエーリヒはしばらく固まった後、「かしこまりました」と言って席に着いた。
「お待たせいたしました」
銀のトレイを持った店主の妻がクロエ達のもとへとやってくる。彼女は深く一礼し、まずクロエの前にカップを置いた。薄い白磁の器の中には漆黒の液体が湯気を立てている。
次にエーリヒの前にも同じカップが置かれた。カップから漂う香りに彼の眉がピクリと動く。
そのあと、銀縁の小皿に載せられたミルクピッチャーと砂糖壺がテーブルに並べられた。スプーンの銀が陽の光を反射し、一瞬、淡い光が二人の間に走る。
そして最後は小ぶりの皿に盛られた黄金色に輝く林檎のパイ。
トレイの上のものをすべて置き終えると、店主の妻は「ごゆっくりどうぞ」と一礼して去っていく。
コーヒーの芳しい香りに、焼き立てのリンゴとシナモンの甘い匂いが溶け合い、クロエの口元に自然と笑みが浮かんだ。
「冷めないうちにいただきましょう」
「はい……。では、お言葉に甘えて」
二人はカップを手に取り、一口含んだ。
「……美味しいです」
「そう、よかった。ここの店主、コーヒーを淹れるのが本当に上手なのよ。屋敷で飲んだものよりずっと美味しいの」
いまだこの国でコーヒーを飲むのは一般的ではなかったため、クロエの屋敷の使用人たちも淹れ方の詳しい作法は知らなかった。前世の記憶が蘇る前のクロエはコーヒーの味を知らないので、侍女が淹れたものに何の疑問も抱かなかったが、記憶が蘇った今なら分かる。あれは薄いうえに雑味が多く、お世辞にも美味とは言えない味だった。
おそらく記憶が蘇らない状態のクロエであればコーヒーを”不味いもの”だと間違った認識をしてしまい、嫌いになっていたことだろう。
前世ではコーヒー好きで、自分で豆や専用器具を揃えて飲んでいたからこそ、今世でも美味しいのが飲みたくなった。しかし、屋敷でいきなり淹れ方の作法を披露したら使用人に「どこで覚えたのですか?」と怪しまれてしまう。
なので、自分が買い取った店の店主に覚えてもらうことにした。豆から専用器具まで商人からクロエ自ら買い付け、淹れ方を店主に教える。真面目で勤勉な店主はすぐにそれを覚え、何度も練習するうちにクロエよりも遥かに上手くコーヒーを淹れられるようになったのだ。
「そのうち……全てが終わったら、この店の看板メニューに加えようと思ってね。美味しいコーヒーが飲める店という売りがあれば、今より集客が見込めそうだもの」
含みのある言い方をしたクロエはカップを置いてフォークを手に取った。そしてパイの端をすくい、口に運ぶ。甘酸っぱい林檎が舌の上でとろけ、目を細めた。
「おいしいわ。あなたも頂きなさい」
促され、エーリヒもフォークを取った。パイはサクッと軽い音を立て、中から林檎の果肉がのぞく。
ひとくち含むと、優しい甘さと爽やかな林檎の香りが口内に広がる。
「……とても、美味ですね」
「そうでしょう? 店主の作るパイは絶品なのよ。我が家の料理人に引けを取らない腕だわ」
そう言ってクロエは優雅な仕草でコーヒーのカップを口に運ぶ。
エーリヒはしばしそれを眺めた後、ゆっくりとフォークを置いた。
「御主人様……ひとつお伺いしてよろしいでしょうか?」
「よくってよ。何かしら?」
「ありがとうございます。……では、どうして私をここに連れてきたのですか?」
その問いかけに、クロエはそっとカップをソーサーに戻し、エーリヒへと視線を向けた。
「……コーヒーは、ただ苦いだけの飲み物ではないのでしょう?」
「え? ……ええ、そうですね」
「この苦味の奥に、ほんの少しの甘さがある。焙煎の方法で味も香りも変わるの。ただ、この国ではまだコーヒーは一般的に飲まれてはいない。だから味を知らず、ただ苦いだけの飲み物だと思っている人も多いわ」
エーリヒはクロエの言葉の真意が分からず、困惑したように瞳を揺らす。
するとクロエはそっと視線をそらし、窓の外を見つめた。
「……わたくしは、本当にこの味を知る人と楽しみたいの。これは、あなたの故郷の味なのでしょう?」
その発言にエーリヒは息を呑んだ。
「……御存じだったのですね」
「ええ、勿論。あなたを雇うと決めたのはわたくしですもの。申し訳ないけど、身辺調査はしてあるの」
「いえ……申し訳ないなどとおっしゃらないでください。あなたさまほどの御方に侍るうえで身辺調査は当然のこと。決してそれを責めているわけではなく、その……一介の”影”の故郷のことをご存じでいらっしゃると知り、嬉しく存じました」
エーリヒの頬が微かに赤く染まる様をクロエは微笑ましそうに眺め、「そう」と返した。
しかし、次の瞬間、エーリヒの表情が真剣なものに変わるのを見てクロエも思わず表情を引き締めた。
「御主人様、もうひとつだけお伺いしてもよろしいですか?」
「……ええ、何かしら?」
「ありがとうございます。その……御主人様は、いつ、どこで、そこまでコーヒーの味に詳しくなられたのでしょうか? これがこの国に流通したのはここ数か月以内で、そこまで味に詳しいものは流通を担っている商人にもいないはず。なにより……何故、一介のご令嬢が”焙煎”という言葉をご存じで?」
未だ紅茶が主流のこの国で、コーヒーの淹れ方すら知らない者も多い中、焙煎という手法を知る者がいることですら驚くのに、ましてやそれが自分でお湯を沸かすことすらしなくていい高貴な身分のクロエが知っていること自体が有り得ない。
困惑しながらもどこか疑うようなエーリヒの視線に、クロエは笑みを消して応えた。
「まあ、あなたはわたくしを疑っていて? わたくしが、カレンデュラ家の息女クロエ本人でない、偽物だと」
「いえ、とんでもない。御主人様が偽物だとは決して思っておりませぬ。ただ……失礼を承知で申し上げますと、ここ数か月の間に急激にご成長されたような……そんな気がしてならないのです」
「成長? 見た目は変わっていないと思うけど」
「外見ではなく、中身にございます。……上手くは言えないのですが、短期間で急激に知識が増えたような、皆が知らぬことを御主人様だけが知ったような……」
うまく言葉にできず口ごもるエーリヒにクロエはわずかに口角を上げて答えた。
「流石、勘が鋭いわね。婚約者も、父も、誰一人として気づかなかったのに……あなただけは気づいたのね、エーリヒ」
そう言って微笑むクロエの妖艶なまでの美しさに、エーリヒは背筋をぞくりと震わせた。




