表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
物語の幕は上がらない  作者: わらびもち


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
21/25

公爵の後悔

「……そろそろよろしいでしょうか。わたくし、これから行くところがありますのよ」


 久しぶりの再会だというのに、終始素っ気ない態度を見せるどころか立ち去ろうとする娘に公爵は深く困惑した。


「行くって……どこにだ?」

「少し、街まで。夕方には帰ります。お父様も久しぶりの家なのですから、ごゆるりとお過ごしくださいませ」


 かろうじて言葉を絞り出した公爵。しかし娘の返事は冷たく、『久しぶり』というその一言にはまるで皮肉が込められているかのようだ。さっさと席を立ってしまう娘にかける言葉も見つからず、公爵は唖然とするしかなかった。


「……どうして、そんな態度を……」


 小さく呟いた声は応接間の静寂に吸い込まれていった。

 公爵はそっと側に控えた家令の方へ顔を向け、青褪めた顔で問いかける。


「娘の態度は一体どういうことか。久しぶりに会ったというのに、この冷たさは……」

「お嬢様のお気持ちを思えば当然かと。長年放っておかれましたら、人は期待しなくなるものです」


 公爵の問いかけに家令は表情を変えることなく淡々と答えた。

 その一言が、まるで氷の矢のように公爵の胸に刺さった。放置――その時間が娘の心に冷たい壁を築いてしまったのだ。今更取り戻そうとしても、あの温もりは簡単には戻らないのだろう。


 公爵の頭にふと遠い記憶の中の光景が蘇る。幼い娘が駆け寄ってきて、両手を広げて「お父様!」と声を上げた日のこと――帰宅するたびに目を輝かせ、喜びに跳ね回ったあの娘の姿。その無邪気な笑顔と、心からの喜びが胸を締めつける。


 指先で装飾の施された椅子の縁を握り締めると、手の中に微かに残るぬくもりすら、今は虚しく、遠い記憶の残滓に過ぎない。心の奥底で取り返しのつかない時間を嘆きながら、娘の気持ちに寄り添わなかった結果がこれか、と公爵は後悔した。


「私は、当主としての責務を果たすために仕事に打ち込んできただけだ……」


 それでも言い訳めいた台詞が自然と零れた。仕事を言い訳に家庭を、娘を蔑ろにしていた罪悪感から目を背けるように。


「ええ、もちろん、旦那様が当主として立派に責務を果たされていたことは、きっとお嬢様もご存じでしょう。なれど、父親としてお嬢様に寄り添っていたかと問われましたら『否』としかお答えできません。旦那様、子供が親を求める時期というのは、とても短いものです。その時にしっかり向き合えたかどうかで絆や信頼が生まれるもの。なれば、今のお嬢様の旦那様に対する態度にもご納得いただけるかと」


 家令の言葉に公爵はまるで頭を殴られたかのような衝撃を受けた。

 娘と過ごした記憶は幼少期を最後にほとんど残っていない。仕事に没頭してきた代償が今ここに表れているのだと、納得しようとしても心はそれを拒んだ。子供はいつまでも無条件に親を慕うものだと思い込んでいた。しかし、今まさにそれが間違いだったと、現実に突きつけられている。


「そうか……その通りだな。当主としての務めは果たせても、父親としての役目はまったく果たせていない」


 公爵が頭を抱えて俯く。そのそばで、家令は黙って寄り添うように立っていた。


「……クロエは、レオナルドとの婚約を辛く感じているのだろうか」

「お嬢様から直接伺ったわけではございませんので、あくまでわたくしの考えにすぎませんが……そうだと思われます。近頃では婚約者様からの贈り物をそのまま侍女たちに下賜されているようで、それこそがその証かと存じます」

「侍女に……そうなのか。贈り物を身に着けるのも嫌だということか……」

「いえ、贈り物はだいたいが消耗品です。花や菓子が多いですね」

「は? 花や菓子だと……? そんな子供じみた品しか贈ってこないのか?」

「そうでございますね……。少なくとも宝飾品の類を受け取った記録はございません」

「なんと……。クロエもそう言っていたが、本当だったのか……」


 娘の言葉を疑っているわけではない。だが、公爵の常識では貴族──しかも高位の家の子息が婚約者に高価な宝飾品を贈らないなど、有り得ないことだった。娘を尊重し、大切にしてくれる男だとばかり思っていたのに……とんだ見込み違いである。


「……情けないことだ。私は自分が思うより人を見る目がない。婚約者に安物ばかり贈るような、ケチな男を選んでしまったのか……」


 公爵は片手で額を押さえ、深く悔いた。

 品行方正で優秀で、身分も問題ない男を選んだはずだった。

 当主となる娘を支え、大切にし、家を盛り立ててくれる男だと思っていた。

 こちらの立場が上で、こちらに恩義を感じている家の子息なら、きっと娘に誠実に尽くしてくれるはずだと信じていた。


 なぜなら、公爵がレオナルドの立場ならばそうしたから。自らの家を救ってくれた家に婿入りした以上、その恩に報い、一生をかけて尽くすのが筋であるから。


 だが、娘の婚約者の思考はそうでなかったようだ。

 大恩ある家の娘に恩返しどころか、恩を仇で返すような恥知らずの屑だった。

 それが分かった今、このままではいられない。娘を虚仮にし、自分の顔に泥を塗ったレオナルドを見逃すほど公爵は甘くも優しくもない。


「……紙とペンを用意してくれ。リンデン家に書状をしたためる」


 娘には「何もしなくていい」と言われたが、そういうわけにはいかない。レオナルドを婚約者に選んだ責任がある。「このままでは済まさんぞ……」と呟いた公爵の手の中で、羽ペンが音を立てて折れた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ