言ったところで何の意味もない
さて、リンデン家でレオナルドが母と兄に厳しい叱責を受けていた頃、カレンデュラ家では長らく屋敷を留守にしていたクロエの父――カレンデュラ公爵が帰還していた。
「久しいな、クロエ。変わりはないか?」
「お久しゅうございます、お父様。はい、特に変わりはございません」
二人が座る応接室には静寂が満ちていた。
磨き上げられたティーカップに注がれた紅茶の水面に、カーテン越しに差し込む陽光が揺らめきながら反射している。湯気とともにかぐわしい香りが立ち上るが、二人はそれに顔を向けようともしない。
クロエは背筋を正し、膝の上で手を組んだまま正面の父をじっと見つめている。
彼女の蒼玉のような瞳から注がれる視線には敬意も親しみもなかった。ただ、親子の関係とは思えぬほどの距離がそこにある。
「婚約者……レオナルドとの仲はどうだ?」
「ええ、そちらも変わりありませんわ」
その素っ気ない態度に、カレンデュラ公爵はひどく驚いた。娘は、こんなにも冷たい目をする子であっただろうか。
内心の動揺を隠すように公爵はカップを手に取り、紅茶を一口飲んで喉を潤した。
「……噂を耳にした。レオナルドがお前に夜会用のドレスすら贈らなかった上に、最近ではガラクタのような装飾品まで押し付けたと……。それは事実か?」
カレンデュラ公爵は娘の口からその噂を否定する言葉が出るものだと考えていた。
それはレオナルドを信じているからではなく、ただ、公爵の常識として有り得ないことだからだ。
夜会の前に婚約者にドレスを贈ることは紳士として当然の嗜みであり、それをしないなど聞いたこともない。ましてや、婚約者にガラクタを贈ることなど以ての外である。
そのような真似をすれば自身が恥をかくだけではすまない。貴族にとって婚約とは契約であり、契約相手を軽んじる行為は家門の信頼を大きく損なう。だからこそ、あの噂は事実無根の馬鹿げたものだと公爵は信じていたが、娘の口から出た言葉はそれを根底から覆すものだった。
「ええ、事実です。レオナルド様からドレスを贈られたことなど一度もありません。それと先日贈られた髪飾りを身に着けてお茶会に参加しましたところ、皆様に驚かれてしまいましたわ。『まるで市場の露店で売られている安物のよう』であると」
淡い笑みを浮かべるクロエだが、その瞳は少しも笑っていない。
娘のその表情も相まって、驚いた公爵は珍しく声をどもらせながら、「そ、そんな馬鹿な……」と呟いた。
微動だにしないクロエの青の瞳には、幼い頃の無邪気さも、かつて父に甘えた面影も、どこにも残っていなかった。ただ、拒絶を含んだ冷たさが宿っている。
幼い頃はよく笑い、庭を走り回り、花を摘んでは彼の机に飾ってくれた娘の姿が不意に蘇る。
だが今、その面影は微かに残るだけで、彼女の表情には年齢以上の冷ややかさが宿っていた。
「な、なぜ、それを言わなかった……?」
言葉は途切れ途切れで、胸の中の混乱を整理できずにいた。彼の中で信じていた常識が氷のように崩れ落ちていく。そんな困惑の表情を浮かべる父に対し、クロエは嘲るような顔を見せた。
「言ってどうなりますか? こんな非常識な真似をする婚約者でも、お父様がわたくしに相応しいと選んだ方ですよ。婚約解消など許してはくださらないでしょう? なら、言ったところで何の意味もありませんわ……」
娘の言葉に公爵の顔から一瞬にして血の気が引いた。まるで世界の色が褪せるように視界が遠のいていく。
そんなつもりはなかった――そう言いたいのに声が出ず、公爵はただ唇を震わせた。
「レオナルド様はお父様がおっしゃったように、カレンデュラ公爵家に相応しい存在だった……はずなのですけどね。それはどうやら、わたくしが都合の悪い部分に目を瞑っていたからこそ成り立っていたようです」
まるで独り言のようにクロエはぽつりと呟いた。
彼女の海を思わせる青い瞳は目の前にいる父親ではなく、どこか遠いところを見ているかのよう。
公爵はそんな娘の姿に胸を締めつけられる思いがした。
「優雅で、見目麗しく、立ち居振る舞いも会話も完璧――まさに理想の貴公子でした。その姿があまりにも眩しくて……わたくしは無意識に違和感に目を瞑っていましたの。思えば婚約当初から、他のご令嬢が当たり前のようにしてもらっていることを、わたくしはしてもらえませんでした」
「してもらえないこととは……なんだ?」
「……先程お父様がおっしゃったように、夜会の前にドレスを贈ってくださらないこと、そして装飾品を一度も贈ってくださらないこと、です。他のご令嬢は夜会には婚約者から贈られたドレスをお召しになりますのに、わたくしはいつも自分で用意しておりますの。……レオナルド様と初めて夜会に参加した折には、当然ご用意くださるものと思っておりましたのに、何もございませんでしたの。急遽、手持ちのドレスで出席したあの夜の寂しさは今も胸に残っております」
あまりにも惨めで悲しかったからこそ、記憶の底に封印していた思い出。
レオナルドがどんなドレスを贈ってくれるのかと胸を弾ませていた思いはあっけなく打ち砕かれた。
その夜、夜会から帰るなり一人寝台で声を殺して泣き続けたあの時の苦い記憶は思い出すだけで胸が痛くなる。
「なんと……そんなことが……。どうして私に言わなかった?」
「……あまりにも信じられない出来事でしたので、すぐにでも忘れたかったのです。それに……ドレスも贈ってもらえない惨めな女だと、誰にも知られたくありませんでした」
「………………」
悲しそうに顔を伏せる娘に公爵は何も返せなかった。
多忙ゆえに屋敷を留守にしがちな公爵は、娘が初めて婚約者と夜会に出席したその夜にも屋敷にはいなかった。娘が一人、婚約者からの仕打ちに耐えていた姿を思うと胸が締めつけられる。
娘はどれだけ悲しくて、どれだけ惨めな思いをしただろうか。想像するだけで苦しい。
どうして自分はそんな娘の傍にいてやらなかったのか。
後悔と同時にレオナルドへの怒りが煮えたぎらんばかりに湧いてくる。
「それから一度たりとも夜会でドレスを贈られたことはありません。毎回、事前に自分で用意したドレスを身に着けております」
「お前はそれを相手に問い詰めなかったのか? どう考えてもおかしいだろう。婚約者にドレスを贈らないなどと……非常識にもほどがある」
「ええ、何も言いませんでした。もしかするとリンデン家の財政が厳しいのか思い、恥をかかせてはいけないと思いましたので」
「そんなことがあるものか……! ドレスもまともに買えない貧しい家の子息をお前の婿にするはずがないだろう!?」
「そうかもしれませんわね……。でも、そう思い込みたかったのです。レオナルド様がドレスを贈ってくださらないのは、それを買うお金が無いからだと。そういう理由なら仕方ないと……無理にでも納得したかったのかもしれません」
「…………ッ! 馬鹿なことを……」
「ええ、馬鹿ですね。でも……そうでないとすれば、レオナルド様はわたくしに悪意があるということになります。婚約者から悪意を向けられているなんて、受け入れたくなかったのですよ……」
寂しげに俯く娘を前に、公爵は何ひとつ言葉をかけられなかった。
慰める言葉も優しい声も持たない自分が情けなくて、ただ伸ばしかけた手をそっと引っ込めた。
クロエは過去の悲しい経験を父に語りながら、ふと思った。
レオナルドの屑っぷりがさらにひどくなった原因として、クロエのこの過剰なまでの我慢にあったのかもしれない、と。
前世の記憶が蘇った今なら、客観的にクロエの行動を顧みることが出来る。
明らかにクロエはレオナルドに対して我慢をしすぎている。もっと自分の意見を口にして、あの勘違い男に立場を分からせてやるべきだった。
それができなかった理由は三つ。
ひとつは、レオナルドに嫌われたくなかったこと。
もうひとつは、自己保身──口にすれば自分が惨めになり、相手の悪意を直視せざるを得なくなる。それが、ただ怖かった。
最後のひとつ、それは、クロエが必要以上に自分を抑え込んでしまう──そんな性格ゆえだった。
(それでも母親には子供らしく我儘を言っていたようだけど、父親には一切言っていないわ。我儘を言って、嫌われるのが怖かったから……)
過去の記憶を辿ってみても、クロエが父親に我儘を言った形跡がひとつもない。子供であれば親に我儘を言うのは当たり前のようにあるものだが、そういった思い出はひとつもないのだ。彼女は幼少の頃から立派な跡継ぎとなること、そして立派な淑女となることだけを父親から望まれてきた。おそらくはそういった環境のせいで我慢することが当然になってしまったのかもしれない。
ドレスの件も、自分が我慢すれば済むことだと思い何も言わなかった。
まるで、そうすることこそが『正しい』と信じ込んでいる。
そういう場合は怒っていいのだと、我慢せずに文句を言っていいのだと、クロエは知らない。父親も、家庭教師も、クロエに『我慢』しか教えていないから。
(なんだか段々と腹が立ってきた。クロエがこんなにも自分を抑え込む子になってしまったのは、この父親のせいじゃない? 親なら子供に自分の意見を言う大切さを教えてやりなさいよ……!)
目の前の父親を睨みつけてやると、彼はビクッと肩を揺らした。
前世の記憶が蘇ったから目の前の人物がいまいち父親だと思えないのかと思ったが、多分そうではない。もともとこの二人には親子の絆が形成されていないのだ。
だから先程「どうして言わなかった」と聞かれても、「お前が言うな」としか思えなかった。
そういうことを言い合えるような信頼関係を築いていない相手に相談できるわけがないだろうが、と。
クロエにあんな屑を宛がってきたのは誰だと言ってやりたい。
あ、言っていたわ、そういえば。
「……私からリンデン家に正式に苦情を申し伝える。子息の件についても、きちんと話をしてこよう。」
「いえ、必要ございません。それだけで改心するとも思えないので、結構でございます」
自分の提案をばっさりと切り捨てる娘に、公爵はただ唖然と目を見張った。
かつては素直でおとなしかった娘がこんなにもはっきりと物を言うなど──。
信じられぬ思いで視線を向ければ、そこには酷く冷めた青の瞳があった。
「……クロエ…………」
「最初の頃は完璧なまでの貴公子だったレオナルド様がこんな失態を犯す阿呆に成り下がってしまったのは、ひとえにわたくしの過剰ともいえる我慢が一因なのかと思うのです。何をしても文句を言わないわたくしに甘え、持ち前の傲慢さが段々と増長してしまったのでしょう。ならば、それはわたくしの責任も同然。けじめはわたくしがつけます」
もう”クロエ”に我慢などさせてたまるものか。前世の記憶が蘇った今であれば我慢をする理由などひとつもない。
レオナルドにも父親にも、嫌われようがどうでもいい。赤の他人である屑と、父親とは名ばかりの、関係が希薄な中年に好かれなくて何だと言うのだ。
「けじめって……どうするつもりだ?」
いつもの威厳に満ちた姿からは想像もつかないほど縋るような目を向けてくる父に、クロエは何も答えず、ただ静かに微笑んだ。




